第5章
皇帝は背を向け、言葉を重ねた。
「あの東洋人の凄さは分かっておる。
わずか一年で土地を治め、人心を掴んでおる。
だからこそ、今のうちに潰すのだ。」
ルキウスは唇を噛みしめた。
(皇帝は……分かっていない。)
あの男の本当の恐ろしさを。
怒らせてはならない理由を。
(明日、血が流れるとすれば――
それは、アウレリアの血だ。)
翌日。
ルキウスの不安は、現実となった。
数千の兵がデルベに押し寄せたが、門を破ることすらできなかった。
鉄砲の一斉射撃。
重層の防御。
戦は短く、そして一方的だった。
気がつけば、帝国軍は壊滅していた。
デルベの町は、ほとんど傷ついていなかった。
信長は、最初から分かっていたのだ。
この町が狙われることも。
そして――
この町を、要塞として築く必要があることも。
アウレリア帝国の帝都に、軍の壊滅を告げる急使が駆け込んだ。
三千――
帝国が誇る精鋭軍であった。
報告を聞いた皇帝は、玉座に深く腰を沈め、低く唸った。
敗北の可能性は、頭のどこかで想定していた。
しかし――壊滅。
それも、半日にも満たぬ戦で。
「……ルキウスを呼べ。」
声には、かすかな動揺が混じっていた。
ほどなくして、ルキウスが広間へと通された。
皇帝は彼を真正面から見据え、問いかけた。
「ルキウス。
あの東洋人――信長とは、何者じゃ。」
ルキウスはすぐには答えなかった。
短い沈黙ののち、静かに口を開く。
「正直に申し上げます。
私にも、信長をどう表せばよいのか分かりません。」
皇帝の眉がわずかに動いた。
「ただ――一つだけ、断言できます。」
ルキウスははっきりと言った。
「彼とは、戦わぬ方が賢明かと。
そして、彼はザファリアの民を守るために剣を取るだけで、
こちらへ侵略する意志は持っておりません。」
「攻めてこぬ、だと?」
皇帝は鼻で笑った。
「そんな野望のない者が、この世におるか。
ましてや、我が精鋭軍を半日で壊滅させる力を持つ男が。」
「恐れながら申し上げます。」
ルキウスは一歩も引かなかった。
「皇帝陛下と、彼の考え方は根本から異なります。
どうか、私の目をお信じください。」
そして続けた。
「昨日の会見で、我々は均衡の道を選びました。
ザファリアが荒れ地を整え終えた暁には、
国境沿いに我がアウレリアが三つの町を築き、
合わせて六つの町を交互に統治する――
そうすることで、争いを防ぐ約束を取り付けました。」
皇帝は腕を組み、黙って聞いている。
「もし残りの町をすべてザファリアが建ててしまえば、
我が国の民は、皆そちらへ流れてしまうでしょう。
それを防ぐためにも、この均衡は必要なのです。」
「……平和主義者らしい考えじゃな。」
皇帝は吐き捨てるように言った。
「それにしても、その申し出をよく飲んだものだ。」
「彼は、民のことしか考えておりません。」
ルキウスは淡々と語った。
「戦えば勝てる自信はある。
しかし、そのたびに民に恐れを抱かせる。
それを、何よりも嫌っておりました。」
しばしの沈黙。
やがて皇帝は、意味ありげに笑った。
「……いやに信長の肩を持つのう。
お主の心まで動かすとはな。」
ルキウスは静かに答えた。
「私は――
彼の背後に、神の存在すら感じます。」
皇帝の目が細くなる。
「神と戦って、勝てぬとでも?」
「はい。」
皇帝は一瞬だけ考え、そして豪快に笑い飛ばした。
「ははははっ!
昔、エジプトが滅びたときの話か。」
笑い声が広間に響く。
「まあよい。
ザファリアの件は、ひとまずお主に任せる。」
皇帝は玉座に深くもたれかかり、言った。
「一年後、正式に調印できるよう町を築け。」
「はっ。」
ルキウスは深く頭を下げた。
広間を後にしながら、彼は胸を撫で下ろした。
しかし、安堵の中に一抹の不安が残る。
(信長は……今回の侵攻を、どう受け止めているだろうか。)
それが、彼の心から離れなかった。
そして一年後。
信長はザファリア地方を完全に平定し、
正式に――ザファリア帝国の建国を宣言した。
「対外的に名もなきままでは困るであろう。
案山子ではあるまいしな。」
そう言って、信長は笑った。
アウレリア帝国もまた、約束通り三つの町を築いた。
調印式は滞りなく終わり、
二年ごとにザファリアとアウレリアの町が交換される制度が定められた。
それから六年――
両国の間に、一切の争いはなかった。
そして、三度目の調印式を終えた直後。
事件は起こった。
三度目の調印式が終わった年の春は、穏やかに訪れた。
無花果の若い実が枝に宿りはじめる六月までのあいだ、国境の町々では「衣替え」と呼ばれる大きな移行が行われた。
軍は撤退し、新たな統治国家の名が告げられ、法と税が布告される。
そして定められた日、入れ替わるように新たな軍が町へ入った。
戦が起こらぬ代わりに、民の負担は決して小さくはなかった。
二年ごとに変わる法。税。兵の質。
それでも、血が流れぬことを選んだのは民自身だった。
配置される兵は百名まで。
町が軍事拠点と化すことを防ぐためである。
撤退期限を過ぎても軍が残れば、その町は攻め落とされても異議は唱えられない――
その厳格な取り決めは十項目に及んだ。
信長は、それを「十戒」と呼んだ。
聖なる書に影響を受け、冗談めかしてそう呼びはしたが、
その約束は、信長にとって決して破られてはならぬものだった。




