第3章
信長の一行が長崎の港に姿を現したとき、海は静かだった。
入江には白帆を掲げた船団が整然と並び、潮の匂いとともに異国の気配が満ちている。
桟橋の先に立っていたのは、黒衣の宣教師――ルイス・フロイスであった。
「信長殿。ご無事で、何よりでございます」
深く頭を下げるフロイスに、信長は一歩進み出て応じた。
「ルイス。世話になったな。感謝しておるぞ」
そう言うと、信長はくるりと振り返り、背後に控える一行を見渡した。
「お主らもじゃ。わしを信じ、ここまで付いてきてくれた。そのこと、忘れぬ」
一行は一斉に膝を折り、深々と頭を垂れた。
誰一人、言葉を発しなかった。ただ潮騒だけが、ゆっくりと時を刻んでいた。
やがて信長は、ふとフロイスに目を戻した。
「で、ルイス。お主はどうする」
フロイスは少しだけ微笑み、しかしその目には確かな決意を宿して答えた。
「私は、この国に残ります。
この地には、まだ多くの人々が希望を必要としております。
キリストの教えを伝える――それが私の務めでございます」
「……そうか」
信長は短く息を吐いた。
「お主に会わねば、わしの人生は大きく違うものになっておったろう。
礼を言う」
そう言って、信長は――わずかに、しかし確かに頭を下げた。
その瞬間、一行にどよめきが走った。
この男が、誰かに頭を下げる姿を見た者は、ほとんどいなかったからだ。
「信長殿……」
フロイスは一瞬、言葉を詰まらせ、それから静かに言った。
「旅は長うございます。生きてたどり着かれるとは限りませぬ。
どうか……ご無事を」
信長は答えなかった。ただ、黙ってうなずいた。
別れの時が来ていた。
一行は船に乗り込み、帆が上げられた。
船内でマヌエルが告げる。
「マラッカをはじめ、いくつかの港に寄港します。
ポルトガルまで、およそ一年の旅になります」
港に残るフロイスの姿が、次第に小さくなっていく。
やがて船は沖へと進み、日本の陸影は水平線の彼方へと消えた。
不思議なことに、日本を離れることに不満を口にする者はいなかった。
戦のない日々。追われぬ時間。
それは、誰もが心のどこかで求めていたものだったのかもしれない。
船は数多の港町を巡った。
見たこともない果実、異国の香辛料、色鮮やかな布、未知の言葉。
信長はそれらを前に、まるで童のように目を輝かせた。
夜になると、彼は船室でバテレンの書を読み耽った。
分からぬ箇所があれば、マヌエルやガラシャを呼び、熱心に問いかけた。
言葉の習得も早かった。
信忠や光秀は、その理解の速さに舌を巻くばかりだった。
だが、航海は順風満帆ではなかった。
幾度も嵐に遭い、船は激しく揺れた。
難破しかけたことも一度や二度ではない。
海賊船と遭遇したこともあったが、その都度、あっけなく退けた。
そして――長い旅の果てに、ついにポルトガルの港が見えてきた。
しかし、そこに掲げられていたのは、見慣れぬ紋章だった。
赤い鷲。
新しい幕が港に垂れ下がり、異国の甲冑に身を包んだ兵士たちが警備に立っている。
港町の喧騒は変わらぬように見えたが、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
マヌエルだけが先に下船し、商人と話を交わす。
戻ってきた彼の顔は、険しかった。
「……この港町は、ことごとくアウレリア帝国の支配下にあります」
船は一度、岸に着いた。
しかし、長居は許されなかった。
すぐに帆を上げ、再び沖へと出る。
着岸できる港を見つけられぬまま、船はさらに東へと進んでいった。
信長は甲板に立ち、遠ざかる港を見つめていた。
世界は、思っていた以上に広く、そして――
すでに誰かの手によって塗り替えられつつあった。
信長一行を乗せた船は、さらに東へと進んでいた。
ある日、右舷の彼方に、まるで花弁を散りばめたかのような島影が現れた。
海の青に浮かぶその島は、不思議なほど静かで、美しかった。
「あの島は、なんじゃ?」
信長が問いかけると、マヌエルが即座に答えた。
「セレーネス島と申します。別名、“平和の島”。
ただ……接岸が非常に難しく、この船では近づくことは難しいかと」
信長はしばらく島を見つめていた。
言葉はなかったが、その胸に何かが引っかかったのは確かだった。
(いつか……行ってみたいものじゃ)
数日後、船はようやく一つの港町に辿り着いた。
そこには、あの赤い鷲の紋章は掲げられていなかった。
桟橋は短く、潮に洗われた木材は古びている。
小さな家々が肩を寄せ合うように並び、町には活気というものがほとんど感じられなかった。
明らかに、アウレリア帝国の港町とは違う。
一行は下船した。
マヌエルは町の者に声をかけ、事情を聞いて回っている。
その様子を眺めながら、信長がぽつりと言った。
「わしも、異国の言葉を話せたらのう。
なぜ、これほどまでに言葉が違うのじゃ」
それに応じたのは、ガラシャだった。
「信長さま。
私の学んでいる聖なる書の初めの方に、似た話がございます」
「神が、人の言葉をばらばらにしたという話か?」
「……よくご存じで」
「一応な。船の中で、かなり読んだからな。
信じてはおらぬが、ははははっ」
その笑い声に、ガラシャは思わず微笑んだ。
信じていなくとも、信長が自分たちの書に目を通し、考えようとしていることが、ただ嬉しかった。
「信じてはおらぬが……」
信長は続けた。
「おまえにしても、ルイスにしても、マヌエルにしても、皆、正直者じゃ。
妙に爽やかになる。
あの戦国の武将どもとは、えらい違いじゃ」
一瞬、間を置いてから、苦笑する。
「……まっ、わしも人のことは言えんがな。光秀」
「そうでございまするな」
「おっ、お主も言うようになったな」
そう言って、信長は豪快に笑った。
やがてマヌエルが戻ってきた。
「この町には、皆さまが泊まれる宿はなさそうでございます」
「では、作ればよい」
「……はっ?」
マヌエルは思わず声を裏返した。
「この人数で、宿を作るのですか?」
「雇えばよい。
この地の通貨は、使えぬのか?」
「この地方は“ザファリア”と呼ばれています。
かつては王国で、ソリドという通貨が使われておりました。
王国は滅び、今は荒れ果てておりますが……
我らの国のドネと両替すれば、この一帯の半分ほどを手に入れられる蓄えがございます」
「なに?」
信長は目を細めた。
「では、わしらは大金持ちではあるまいか。
……いや、しかしそれは、お主の国があっての話ではないのか?」
「アウレリア帝国は貿易拠点を押さえただけで、内陸部はほとんど手付かずです。
帝都アウリシア以外は、統治が及んでおりません」
「なるほど……」
信長は腕を組み、しばし考えた。
「その帝国の王も、まず貿易拠点を押さえるとは、なかなかの策士じゃ。
……では、だ」
信長は顔を上げ、はっきりと言った。
「この貧しい町を、我らの手で栄えさせようではないか」
その日から、信長はソリドで物を買い、値切ることもしなかった。
地元の若者、大工、職人を集め、港の近くに広い宿を建てさせた。
数日後、形になり始めた宿を前に、マヌエルが尋ねた。
「これは宿ですが……なぜ、宿を?」
「ここが栄えれば、人は集まる。
旅人が来れば、まず宿が要る。
人を雇えば、その者も潤う。
そして――」
信長はにやりと笑った。
「我らも、うまい飯が食える。
それで良いではないか。わっははははっ」
一行は、誰も口には出さなかった。
だが、心のどこかで同じことを感じていた。
――信長は、この地方を、
いずれ“治める”つもりなのだ、と。




