第2章
――殿が去られる。
同時に、秀吉は固く心に誓った。
――家康には、決して天下は取らせぬ。
その日のうちに、秀吉は重臣たちを集めた。
「毛利と、急ぎ和議を結ぶ」
陣中がざわめいた。
「清水宗治の自刃をもって、城と家臣の助命を条件とせよ。そして――」
秀吉は間を置き、低い声で続けた。
「知られぬよう、密かに船を出せ。武具を堺へ送り、人馬は京へ向かわせる。早馬を各宿場へ。協力した者には金子を渡せ」
官兵衛をはじめ、誰一人として理由を問わなかった。
軍議は、それだけで終わった。
天正十年五月十五日。
安土城では、徳川家康を迎える接待が行われていた。
「家康殿、武田との戦、見事でござった」
「いえいえ。あれは織田家総大将、信忠殿の手柄にございます」
「相変わらず謙遜じゃなあ。わっはっはっは」
信長は上機嫌だった。
「それにしても、駿河、三河――良い土地よの。欲しくなったわ」
「……ご、ご勘弁を」
家康は笑顔を保ちながらも、内心で冷や汗を流していた。
「まあ、うまいものでも食って、ゆっくりされるが良い」
そして、五月十七日。
「この戯けが!」
信長の怒声が城内に響いた。
「家康殿に、こんなものを食わせる気か!」
膳に並んだ魚は、明らかに傷んでいた。
「恥をかかせおって! あとで、わしのところへ来い!」
光秀は、黙って頭を下げるしかなかった。
その夜――。
「おお、来たか」
信長は笑った。
「なかなかの演技者だったぞ、光秀」
「殿……笑い事ではござりません。少々、あざができもうしました」
「すまんすまん」
信長はふっと笑みを消し、声の調子を落とした。
「まずは、計画の一つ目は終わった」
光秀は背筋を正した。
「明日、お主を家康接待役から解任する。坂本城に戻り、兵を集めよ。支度を整え、亀山城へ戻るのじゃ」
「――はっ」
翌日、光秀は解任され、坂本城へ戻っていった。
信長は秀吉の要請に応じる形で、出陣の準備を始める。
その後、信長の勧めにより、徳川家康は京・大坂見物へと旅立った。
五月二十六日。
信長は京へ向かった。
同じ頃、光秀は亀山城から愛宕山へと登り、戦勝祈願の連歌会――「愛宕百韻」を催していた。
そこに残された句。
それは後に、
「光秀に謀反の意あり」
と人々に思わせるための、信長の発案だった。
光秀は心の中で呟いた。
――抜かりのないお方よ。
定宿・本能寺には、わずかな手勢。
信忠は二条屋形に泊まったことにする。
六月一日。
茶会を開き、信長が確かに本能寺にいたと、多くの者に証言させるためだ。
そして――。
六月二日未明。
我が軍一万三千、出陣。
本能寺へ。
その時、信長殿はおろか、家臣もいない。
二条屋形も、空である。
光秀は思った。
――天才とは、信長殿のためにある言葉よ。
一方、秀吉。
本能寺の前日には、すでに半数の軍勢が姫路城に入っていた。
「半分で十分だ」
秀吉は独り言を言った。
「大将のいない軍など、あっという間よ」
天王山付近で迎え撃てば、それで終わる。
――そのころ、信長殿とは、どこかですれ違うであろう。
秀吉は、これまでの日々を思い返し、静かに涙を流した。
「殿……」
それにしても、
最後の結末が、こんな形になるとは。
六月一日 本能寺。
茶会を終え、信長は天を仰いだ。
そして、大きく息を吐いた。
「――マヌエル、もう良いぞ」
信長の低い声が、静まり返った本能寺の一室に響いた。
その言葉を合図に、柱の陰から一人の男が姿を現す。
ルイス・フロイスの弟子、マヌエル・ペレイラである。
続いて、もう一人――
信長の嫡男、織田信忠が、静かに父の傍らへ歩み出た。
すでに女中たちは、安土城へ戻るよう命じられている。
本能寺にも、二条屋形にも、人影はほとんど残っていなかった。
「わしは奥の間で支度を整える。整い次第、出発だ」
信長は短く告げた。
「マヌエル、頼むぞ」
「はっ」
信長は森蘭丸以下、わずかな供回りと信忠、
そしてマヌエルとその弟子数名を連れ、本能寺を後にした。
――その時点で、本能寺も二条屋形も、すでにもぬけの殻であった。
信長は、事前に書状を送っている。
光秀へ。
秀吉へ。
光秀はすでに出陣を開始していた。
秀吉もまた、京へ向かって動いていた。
天正十年六月二日、未明。
明智軍一万三千。
本能寺と二条屋形を、四方から取り囲む。
光秀は、命じた。
「放て」
誰もいない本能寺へ、火矢が一斉に放たれた。
闇を裂き、炎が屋根に突き刺さる。
やがて火は燃え広がり、夜空を赤く染めた。
その火の手を合図に、重臣たちは二条屋形にも火を放つ。
すべては、信長の命であった。
――本能寺に着いたら、まず四方を囲み、一斉に火矢を放て。
――火が回ったところで、突入せよ。
――わしは寝込みを襲われ、討たれたことにする。
――遺体は探せ。だが、出るはずがない。わしは、そこにはおらぬ。
――首がなくとも構わぬ。信忠の首も同じじゃ。
――もやし尽くし、勝利の雄叫びを上げよ。
――その後、細川邸へ向かえ。
――謀反の旨を伝え、身の安全を理由にガラシャを連れ出せ。
――亀山城へ送れ。
――そして安土城へ行け。誰もおらぬ。制圧せよ。
――これで、織田家は世から消える。
――首がないゆえ、お主の味方はおらぬ。
――だが気にするな。その方が犠牲は少ない。
――山崎には秀吉がおる。
――戦に紛れ、亀山城へ戻れ。
――そこで落ち合おう。
――お主の勝手知ったる道を通り、長崎へ向かう。
――長崎では、フロイスが船を整えて待っておる。
光秀は、その一つ一つを、寸分違わず実行した。
すべては、信長の読み通りであった。
徳川家康は、堺から逃げるのが精一杯だった。
やがて、山崎の合戦。
その戦の混乱の中、光秀は戦列を離脱し、亀山城へ戻った。
――これで、全員揃った。
亀山城。
信長の前に、光秀は膝をついた。
「信長様……無事、やり遂げました」
「ようやった、光秀」
信長は静かにうなずいた。
「ご苦労であった」
「ただ……ここも、ゆるりとはしておられませぬ。早く出発されるがよろしいかと……」
「案ずるな」
信長は落ち着いた声で言った。
「秀吉には、すでに触を出させておる。
亀山城、坂本城を制圧するゆえ、手出し無用とな」
信長は、ゆっくりと立ち上がった。
「今日は休め。
明日、ここを発つ」
光秀は深く頭を下げた。
こうして――
信長は、歴史から姿を消した。
だがそれは、終わりではなかった。




