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第1章

――信長物語――


「信長殿、お呼びでございますか?」


「おお、ルイス。待っておったぞ。さあ、一杯やろう」


「ありがとうございます」


酒を注ぐ音が、静かな室内に響いた。


「本来ならな、桜でも眺めながらが良いのじゃが……今日は、誰にも聞かれてはならぬ話でな」


ルイス・フロイスは、わずかに表情をこわばらせた。


信長が「二人きりで話したい」と言うことは、滅多にない。しかも“誰にも聞かれてはならぬ話”。


胸の奥に、嫌な予感が走る。


そして――その予感は、次の一言で現実となった。


「ルイス。わしは――お主の国に行きたいのじゃ」


ルイスは思わず目を見開き、椅子の背に身を預けるようにのけぞった。


信長はその様子を見て、腹を抱えて笑った。


「わっはっはっは! 冗談じゃ、冗談じゃ」


「……」


「お主、目の玉が飛び出るような顔をしおって」


ルイスは、ようやく息をついた。


「……驚かせないでください」


すると信長は、笑みを消し、ゆっくりとルイスの方へ身を乗り出した。


そして、ほとんど囁くように言った。


「――と言いたいところじゃが」


信長の目が、鋭く光る。


「わしは、本気じゃ」


その瞬間、ルイスは背筋に冷たいものを感じた。


冗談ではない。


これは、思いつきでも、酔余の戯れでもない。


世界を見据えた男の、決断の眼だった。


信長は、驚きを隠せずにいるルイスの顔をじっと見つめたまま、静かに言った。


「何を驚いておる。ただ、お主の国に行きたいと申しておるだけじゃ。」


そう言うと、手にした盃の酒を一息にあおった。


「……私どもの国へ、でございますか。」


ルイスは言葉を選びながら続けた。


「それは、この国をお離れになるということ。信長殿は、もはや天下を手中に収めておられるも同然。その今、なぜ……。」


「天下?」


信長の声が低く響いた。


鋭い眼光でルイスを睨み据えたかと思うと、信長はすっと立ち上がり、背後へと振り返った。床の間に置かれていた地球儀を手に取り、ためらいなく日本の位置を指差す。


「お主の言う天下とは、この、ちっぽけな日本のことか?」


信長は地球儀を掲げたまま続けた。


「初めてこれを見せられた時、わしは信じられなんだ。だがな、お主は嘘をつくような人間には見えんかった。何度も裏切られてきたこの目が、そう告げておった。」


沈黙が落ちた。


やがて、ルイスが静かに口を開く。


「……いつから、お考えで?」


「この地球儀を見せられた、その時からじゃ。」


信長はゆっくりと言葉を重ねる。


「最初は急ぎこの国を平定し、お主の言う“世界”に打って出ようと思うておった。だが、思いのほか手こずった。気がつけば、もう四十九。」


少し間を置き、信長はふっと笑った。


「ならば、寿命が尽きる前に、この目で世界を見定めたい。……もう、この国に、わしの為すべきことはない。」


信長は地球儀を元の場所に戻し、振り返る。


「わしにとっては――『是非に及ばず』、というところじゃな。」


そう言って、豪快に笑った。


ルイスは深く頭を下げた。


「……分かりました。このルイス、これまで信長殿には幾度となく助けられてまいりました。そのご恩、必ずお返しいたします。」


その夜、二人は誰にも知られぬよう、綿密な計画を練り上げた。


――そして一週間後。


信長は明智光秀を呼び出した。


向かい合うと、信長は盃を手に取り、何気ない調子で言った。


「わしは、ルイスの国へ参る。」


「……は?」


光秀の声が裏返った。


「ははははっ。お主も、さすがに驚いたか。」


「ルイス・フロイスの国……遥か彼方の異国と聞いております。なぜ、いつ行かれるのですか。この国は……。」


「まあ待て。いつも冷静なお主にしては、珍しく動揺しておるな。」


「……ご冗談ではございますまいな。」


「本気よ。」


光秀は目を見開き、思わず身を引いた。


これまで幾度となく信長に驚かされてきた。しかし、今回は違う。光秀は直感していた。


信長から発せられる熱は、野望のそれではない。もっと澄んだ、希望に近い熱だった。


「光秀。」


信長は静かに言った。


「わしは、この国を去る。そして――お主もじゃ。」


「……私も、でございますか。」


「そうじゃ。お主の娘も喜ぶであろう。ガラシャ殿もな。キリシタンであろう?」


「しかし……」


「良いではないか。」


信長は言い切った。


「お主は十分働いた。みかどの相手も、さぞ疲れたであろう。お主も歳じゃ。もう良い。」


一拍置き、信長は鋭く言葉を重ねる。


「ただし、最後にもうひと働きしてもらう。お主に断ることは許さぬ。」


光秀の胸に、複雑な思いが去来した。


だが、元より光秀に野望はなかった。


信長の言葉を受け入れる以外の答えなど、最初から存在していなかった。


光秀は、重い足取りのまま安土城を後にした。


 琵琶湖から吹き上げる風は初夏の気配を含んでいるはずだったが、彼の胸の内は晴れなかった。


 ――信長様は、どこへ向かわれようとしているのか。


 道中、光秀は進路を変え、京の細川邸へと馬を走らせた。


 会わねばならぬ者がいた。娘、玉――後の細川ガラシャである。


 細川邸の奥座敷で、ガラシャは静かに光秀を迎えた。白い装束に身を包み、祈りを終えたばかりのようだった。


「私が……ルイス・フロイスの国へ、ですか?」


 驚きを隠せぬ声で、ガラシャは問い返した。


「信長様が、そうおっしゃったのですか?」


「そうじゃ」


 光秀は低く答えた。


「何をお考えなのか、わしにも分からぬ。だが、もとよりあのお方は、我らの及ばぬところをご覧になっておられる」


 ガラシャは一瞬、視線を伏せた。


「私は、細川家の嫁にございます。たとえ父上の言葉であっても、簡単に従うことは……それに、キリシタンの掟に背くこともできませぬ。離縁など、考えられませぬ」


 光秀は、娘をまっすぐに見つめた。


「玉よ。離縁ではない。しばし、離れるだけじゃ」


 そして、声を落として続ける。


「細川家では、そなたは良く扱われておらぬと、侍女から聞いておる。信仰のこともあろう。わしにはその教えの深奥は分からぬが……」


 ガラシャの胸に、静かな波が立った。


 沈黙ののち、彼女は顔を上げた。


「父上……分かりました」


 その声には、迷いと決意が同時に宿っていた。


「私も、皆が同じ思いを持てる国に行きとうございます」


 光秀は、わずかに目を細めた。


「そうか。ならば詳しいことは話せぬが、五月中には準備を整えておけ」


「はい」


 それだけの言葉を交わし、光秀は細川邸を後にした。


 坂本城へ戻る馬上、彼は胸の奥に奇妙な予感を抱いていた。


 これは逃避ではない。


 終わりでもない。


 ――何かが、大きく動こうとしている。


 一方その頃、備中高松城。


 梅雨を迎えようとする湿った空気の中、豊臣秀吉は陣中にあった。


「信長様より、密書が届きました」


 使者の言葉に、秀吉は一瞬、表情を強張らせた。


 高松城攻めは、想定よりも長引いていた。


 水攻めは進んでいるが、決着には至っていない。


 ――お叱りか。


 秀吉は額の汗をぬぐい、恐る恐る密書を開いた。


 そこには、信長の筆跡がはっきりと記されていた。


秀吉、毛利攻略のこと、労多とする。


まず最初に申す。


大事であるがゆえに、他言は無用である。


 秀吉の喉が鳴った。


来る六月二日未明、


光秀が、わしの京の宿――本能寺を……


 その先を読み進めるにつれ、秀吉の背筋に冷たいものが走った。


 ――これは、叱責ではない。


 ――これは……。


 秀吉は、密書を握りしめたまま、しばし動けずにいた。


 歴史が、大きく折れ曲がろうとしていることを、彼は本能的に悟っていた。


信長の最後の言葉は、静かで、そして重かった。


「――わしらは、去る」


 「天下は、秀吉。お主に託す」


 秀吉は思わず息を呑んだ。


 確かに、野望はあった。


 天下を夢見ぬ武将などいない。


 だが、信長なき後の世を思うと、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような寂しさが込み上げた。

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