序章
「おはようございます。朝食は皆さま、もれなくお召し上がりいただけましたでしょうか?」
濱嶋刑事一課長は、観光バスの最前列に立ち、マイクを握りしめて声を張り上げた。
「それでは、これより――柊部長、そして吉川刑事の古巣であります横浜・鶴見台署へ表敬訪問に向かいます。訪問後は本日一日、自由行動となります。どうぞ皆さん、横浜を満喫してください」
車内には軽い拍手が起こった。
「……課長、やけに張り切ってるな」
後部座席で吉川がぼそりと呟くと、隣の白石舞が小声で返した。
「なんでも今夜、横浜スタジアムで野球観戦するらしいですよ。大の横浜ファンなんですって。関西人なのに」
「どこのファンだろうが本人の自由だろ」
「まあ、そうですけど……」
いつもと変わらない、他愛もないやり取り。
バスは国道を走り、やがて横浜の街並みへと入っていった。
江ノ島から一時間後、バスは鶴見台署の前に滑り込む。玄関には既に多くの署員が並び、二人を迎える準備が整っていた。
特に吉川は――。
「吉川さん!」「お久しぶりです!」
次々に声をかけられ、気がつけば女子職員に囲まれていた。中には、甲高い歓声すら混じっている。
横浜勤務時代から変わらない。
女性たちに囲まれ、吉川はどこか締まりのない、だらしない笑みを浮かべていた。
――その時だった。
「痛っ!」
鈍い衝撃が足元を走る。
囲みを割るように、白石舞が吉川の足を、思いきり踏みつけていた。
「痛てててて……!」
「どうしたんですか? 吉川先輩」
顔をしかめて見下ろすと、舞が澄ました顔で言った。
「覚えとけよ……」
女子職員たちが心配そうに吉川を見つめる中、舞はつかつかと署内へ歩き出す。
「白石さん!」
呼び止める声に、舞が振り返った。
「あ――沖田くんと……美奈代さん」
沖田悟の腕には、赤ん坊が抱かれていた。美奈代が、その小さな体を大切そうに支えている。
「生まれたんだ。わあ、かわいい……ちっちゃな手」
舞は屈み込み、目を細めた。
「男の子なんです」
「名前は?」
「未来。みらいです」
「沖田みらい、いいじゃん、いいじゃん!」
一人ではしゃぐ舞の横で、吉川がようやく人の輪から解放されて歩み寄ってきた。
「……久しぶりだな」
「はい」
「良かったな。二人とも」
その一言で、沖田と美奈代の目に、じわりと涙が浮かんだ。
吉川は何も言わず、ただ静かに頷く。
――その涙の意味を、彼は知っていた。
「僕たち、あそこの喫茶店にいますので」
「分かった。すぐ行く」
カラン、と軽い音を立てて、吉川が店の扉を開けた。
当然のように、舞も後に続く。
「おまえ、さっき足踏んだから付いてくんなって言っただろ」
「ふん。みらいちゃんの顔、もう一回見たかっただけですぅ」
「気持ち悪い」
ぎゅっ。
「痛っ! また踏みやがったな!」
そのやり取りを、沖田と美奈代はくすくすと笑って見ていた。
「やっぱり……お似合いだね」
「うん」
二人は顔を見合わせて笑った。
「そうでしょ!」
舞は胸を張る。
「なのにこの人、全然素直じゃないんですよ。私の胸で泣いたくせに――」
「コラ。余計なこと言うな」
舞は不満そうに頬を膨らませた。
「……で、見てほしいものって?」
沖田は一瞬だけ視線を落とし、静かに原稿を差し出した。
「次の作品です。最初に、吉川さんに読んでほしくて。もちろん、舞さんにも」
テーブルの上に、二冊のコピーが置かれる。
その表紙には、はっきりと書かれていた。
――『信長物語』。
「――『信長……物語』?」
吉川は、少し間を置いてからそう繰り返した。
「はい。以前から僕の中に構想があって……信長という人物を、性格から分析していくうちに、これが案外面白いなと思ったんです」
悟はそう言って、控えめに笑った。
「それで、京都出身の吉川さんなら、どう感じるのか聞いてみたくて。最初に読んでほしいと思いました。もちろん……舞さんにも」
「私にも?」
舞は思いがけない言葉に、少し頬を赤らめた。
「ありがとう。でも、私、歴史はあまり詳しくないし……良いコメントなんて出せないかもしれないけど」
「それでいいんです」
悟は首を振った。
「専門的な意見より、“どう感じたか”が聞きたいんです」
「楽しみだね」
沖田が笑いながら言った。
「本能寺を回ったって言ってたし、その辺の話が中心かな?」
「ええ。まあ……時間のあるときで構いません。お忙しいでしょうから」
それからしばらく、話題は自然と横浜時代の事件へ移った。舞は、吉川の過去の出来事を聞き、静かに耳を傾けていた。
「……そうか」
舞が小さく息を吐く。
「大変だったんだね。でも……かおるさんの分も、これからは未来に向かって歩いていきましょう」
そう言って、照れくさそうに笑った。
「ははは」
その言葉を聞きながら、吉川はふと、自分なりに悟と美奈代が子どもに「未来」という名前をつけた意味を理解した気がした。
四人はしばらく談笑し、やがてそれぞれの場所へと戻っていった。
「あの二人……すごいですね」
舞がぽつりと言った。
「幼なじみで、いろんなことを乗り越えて……」
「ああ。良かった。ほんとに良かった」
吉川の横顔は、舞の目にはとても穏やかに映った。
そのとき、吉川が突然言った。
「……あの観覧車、乗りに行こうか」
舞は一瞬驚いたが、すぐに素直な笑顔になった。
「……うん」
その夜、温泉の大広間で夕食を済ませたあと、皆それぞれの部屋へ戻った。
吉川は部屋に入ると、鞄から一冊の小説を取り出した。悟から手渡された原稿――『信長物語』。
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