第3話「境界の外」
週末、寮の掲示板に貼り紙が増えた。
「夜間の外出禁止」「山道立入注意」。管理人名義だ。
だが噂は、貼り紙より早く広がる。
近くの登山道で、行方不明者が出た。
夜釣りの若者が戻らない。
山の下の集落で、夜に“名前を呼ばれた”と騒ぐ人がいる。
水野は食堂で、三枝に声をかけた。
「……外の人まで、呼ばれてるんですか」
三枝はコーヒーを一口飲んでから、低く答えた。
「押し返してただけだ。寮の中から外へ追い出してた。完全に消したわけじゃない」
「じゃあ、今は……」
「行き場が変わった。境界が歪んだ分だけ、外へ滲む」
水野は拳を握った。
「久保先輩が……」
「久保だけじゃない。誰だって、攻略したくなる。安心したくなる。ルールを“仕組み”だと思うと、人は試す」
三枝の目が、疲明の奥で揺れる。
「それが、一番危ない」
その夜、水野は夢を見た。
廊下。古い木の床。
誰もいないのに、足音がする。見回る足音。守る足音。
水野が振り向くと、そこに“輪郭だけ”が立っていた。顔がない。声もない。けれど、確かに人間の形をしている。
そして名札が落ちている。
裏に小さく刻まれた文字。
『ありがとう』
水野がそれを拾おうとした瞬間、輪郭が指を伸ばす。音はないのに、言葉だけが流れ込んだ。
――ルールを壊すな。
水野は飛び起きた。口の中が乾いている。喉が痛い。自分の名前を誰かに呼びたくなる衝動が、一瞬だけ胸をかすめた。
気配が、まだ部屋の隅に残っている。
水野は布団の中で震えながら、呟いた。
「……あなた、篠原先輩ですか」
返事はない。
ただ、廊下の方で、床が小さく軋んだ。
翌日、水野は管理人室の前で立ち止まった。鍵はかかっている。けれど、扉の隙間から、紙と湿った土の匂いが漏れている気がした。
背後から三枝の声。
「入るな」
水野は振り返る。
「……夢を見ました。足音と、名札と……」
三枝は少し黙り、それから小さく頷いた。
「見たか。なら、もう逃げられない」
「何があるんです、ここに」
三枝は鍵束を握りしめた。指が白い。
「境界の帳面がある。ルールの“本体”がある」
水野の胸が冷える。
「……篠原先輩は、どうなったんですか」
三枝の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「消えたんじゃない。残った。声を失って、境界の内側に」
言葉が終わるより先に、水野の喉が乾いた。
呼びたくなる。誰かの名前を。理由もなく。
水野は息を飲み、指を喉に当てた。
三枝が言う。
「今夜、また来る。外からも、中からも。ルールが壊れたから、“本物”は自由になる」
水野は震えながら頷いた。
その瞬間、山側から風が吹き、窓が鳴った。
風の音が、まるで誰かの笑い声に聞こえた。




