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夜十二時、名前を呼ばれても返事をしてはいけない  作者: 百花繚乱


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8/12

第2話「故意の呼び声」

その日の昼、食堂の空気は軽かった。新入生は新しい生活に浮かれ、上級生はそれを眺めて笑っている。怪談の噂など、笑い話で済む。

「外から呼ばれた? 気のせいだろ」

上級生の久保が、水野の向かいで笑った。二年。体格が良く、声が大きい。自信の塊みたいな男だ。

「三枝先輩が変な顔してたんだよ。俺、見た」

久保は箸を止めずに言う。

「三枝さんは心配性なんだよ。昔、何かあったんだろ」

水野は、昨夜の名前の湿り気を思い出して、笑えなかった。

久保が突然、身を乗り出した。

「なあ。夜十二時に名前を呼ばれたら、返事すんなって噂、知ってる?」

周りの新入生がざわつく。

「なにそれ、怖い」

「でも今は起きてないじゃん?」

久保は口の端を上げた。

「ならさ。呼ぶのはOKだろ?」

箸が止まる。水野の胃が冷える。

「……呼ぶって、誰の」

久保は笑ったまま、低い声で言った。

「誰でもいい。返事させなきゃいいんだろ? ルールって攻略できるか試したくなるじゃん」

その夜。水野は眠れなかった。

廊下の向こうで、久保の仲間が笑っている声がする。小声だが、抑えきれない興奮が混じっている。

00:00。

寮の中の音は消えない。なのに、空気だけが沈む。水野の皮膚が、薄い氷に触れる感覚。

廊下で、久保が囁くのが聞こえた。

「……松岡」

誰の名前か知らない。だが呼ばれた瞬間、空気が応えた。冷えが走る。壁の奥の水音が、遠のく。

そして――別の声が混じる。

「……松岡」

久保の声より薄いのに、耳の奥を撫でる。優しいのに、優しいほど怖い。

水野は息を止めた。これは、誰かが“呼び出した”声だ。

廊下の向こうで、ドアがきしむ。返事をしそうな気配。水野は布団から飛び出そうとして、足が動かなかった。怖い。自分の声を出したくない。

久保が笑う。

「ほらな。返事しなきゃセーフ」

その瞬間、水野の隣室から、誰かが呻くような息を吐いた。返事ではない。ただの苦しさだ。だが、それだけで空気がざわりと揺れる。

“本物”の声が、増える。

「松岡」

「松岡」

「……松岡」

優しさの質が違う声が、重なってくる。部屋の中にまで染み込む。耳の奥で、言葉が膨らむ。返事をしたくなる衝動が、喉を押し上げる。

水野は自分の口を両手で塞いだ。

廊下で、誰かが倒れた音がした。鈍い音。続いて、咳き込む声。寮全体が、少しずつ削られるみたいに、体温が下がっていく。

久保が苛立った声を出す。

「……おい、やべぇぞ」

水野は理解した。

呼ばれた者だけが危ないんじゃない。

聞いている者、黙っている者、笑っている者――全員が削られる。

翌朝、食堂に久保はいなかった。

救急車が来たらしい、という噂だけが回る。意識を失った、と。

三枝が廊下の端で、水野を呼び止めた。

「昨夜、誰が呼んだ」

水野は正直に答えた。

「久保先輩です。……遊びで」

三枝の頬が引きつる。

「ルールは、守られるから成立してた。破った瞬間、全員が当事者になる」

水野は震える声で聞いた。

「……じゃあ、どうなるんですか」

三枝は、名札の列を見た。そこに、まだないはずのものを見つけたように、目を細める。

「境界が乱れる。外へも、漏れる」

そのとき、遠くの山側から、救急車のサイレンが聞こえた。

その音が、やけに遠かった。

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