第2話「故意の呼び声」
その日の昼、食堂の空気は軽かった。新入生は新しい生活に浮かれ、上級生はそれを眺めて笑っている。怪談の噂など、笑い話で済む。
「外から呼ばれた? 気のせいだろ」
上級生の久保が、水野の向かいで笑った。二年。体格が良く、声が大きい。自信の塊みたいな男だ。
「三枝先輩が変な顔してたんだよ。俺、見た」
久保は箸を止めずに言う。
「三枝さんは心配性なんだよ。昔、何かあったんだろ」
水野は、昨夜の名前の湿り気を思い出して、笑えなかった。
久保が突然、身を乗り出した。
「なあ。夜十二時に名前を呼ばれたら、返事すんなって噂、知ってる?」
周りの新入生がざわつく。
「なにそれ、怖い」
「でも今は起きてないじゃん?」
久保は口の端を上げた。
「ならさ。呼ぶのはOKだろ?」
箸が止まる。水野の胃が冷える。
「……呼ぶって、誰の」
久保は笑ったまま、低い声で言った。
「誰でもいい。返事させなきゃいいんだろ? ルールって攻略できるか試したくなるじゃん」
その夜。水野は眠れなかった。
廊下の向こうで、久保の仲間が笑っている声がする。小声だが、抑えきれない興奮が混じっている。
00:00。
寮の中の音は消えない。なのに、空気だけが沈む。水野の皮膚が、薄い氷に触れる感覚。
廊下で、久保が囁くのが聞こえた。
「……松岡」
誰の名前か知らない。だが呼ばれた瞬間、空気が応えた。冷えが走る。壁の奥の水音が、遠のく。
そして――別の声が混じる。
「……松岡」
久保の声より薄いのに、耳の奥を撫でる。優しいのに、優しいほど怖い。
水野は息を止めた。これは、誰かが“呼び出した”声だ。
廊下の向こうで、ドアがきしむ。返事をしそうな気配。水野は布団から飛び出そうとして、足が動かなかった。怖い。自分の声を出したくない。
久保が笑う。
「ほらな。返事しなきゃセーフ」
その瞬間、水野の隣室から、誰かが呻くような息を吐いた。返事ではない。ただの苦しさだ。だが、それだけで空気がざわりと揺れる。
“本物”の声が、増える。
「松岡」
「松岡」
「……松岡」
優しさの質が違う声が、重なってくる。部屋の中にまで染み込む。耳の奥で、言葉が膨らむ。返事をしたくなる衝動が、喉を押し上げる。
水野は自分の口を両手で塞いだ。
廊下で、誰かが倒れた音がした。鈍い音。続いて、咳き込む声。寮全体が、少しずつ削られるみたいに、体温が下がっていく。
久保が苛立った声を出す。
「……おい、やべぇぞ」
水野は理解した。
呼ばれた者だけが危ないんじゃない。
聞いている者、黙っている者、笑っている者――全員が削られる。
翌朝、食堂に久保はいなかった。
救急車が来たらしい、という噂だけが回る。意識を失った、と。
三枝が廊下の端で、水野を呼び止めた。
「昨夜、誰が呼んだ」
水野は正直に答えた。
「久保先輩です。……遊びで」
三枝の頬が引きつる。
「ルールは、守られるから成立してた。破った瞬間、全員が当事者になる」
水野は震える声で聞いた。
「……じゃあ、どうなるんですか」
三枝は、名札の列を見た。そこに、まだないはずのものを見つけたように、目を細める。
「境界が乱れる。外へも、漏れる」
そのとき、遠くの山側から、救急車のサイレンが聞こえた。
その音が、やけに遠かった。




