【第二部】 ルールが破られた夜 第1話「破られた静寂」
春。坂道を上り切ると、男子寮は相変わらず古いまま、けれど妙に“綺麗”に見えた。古さが馴染んだ、というより、危険な角が削られている。人が住み慣れた建物の顔だ。
「ここ、静かだよな」
新入生の水野は、段ボールを抱えたまま息を吐いた。隣で同じく荷物を運ぶ同期が笑う。
「山の上だし。夜とか、虫の声しか聞こえなさそう」
水野は頷くしかなかった。虫の声――それすら、どこか遠い。耳の奥に残るのは、換気扇の弱い回転と、階段の軋みと、誰かの笑い声。ごく普通の寮だ。
案内役の上級生が言った。
「二つだけ守れ。消灯後は騒ぐな。あと、廊下は走るな」
水野は拍子抜けした。もっと怪談めいた注意が来ると思ったのは、入寮前にどこかで見た噂のせいだ。夜十二時、名前を呼ばれる、とか。
夕方、食堂で席を探していると、廊下の奥からひときわ目立つ上級生が出てきた。痩せていて、目が疲れている。なのに背筋が折れていない。
彼は水野の前を通り過ぎ、名札の並ぶドアの列を一つずつ目で追った。まるで点検するように。
「……三枝先輩だ」
同じ班の同期が小声で言う。「有名。夜に見回りしてる人」
「見回り?」
「怖がりの新入生がいるから、って。優しいよな」
優しい。そう言われても、水野は頷けなかった。三枝の目は、優しさより先に、何かを数えている目だったからだ。
初めての夜。灯りが落ち、山の闇が窓に貼りつく。水野は布団に潜り、スマホの時刻を確認した。23:58。まだだ。
噂は嘘だった。そう思うのに、なぜか心臓だけがせわしない。自分の呼吸が大きく聞こえる。耳が詰まるような感覚が、じわりと広がる。
23:59。
廊下の向こうで、床がきい、と小さく鳴った。誰かが歩いた音。見回りか。三枝だろうか。
00:00。
――その瞬間、寮の中は何も変わらなかった。
音は減らない。換気扇も回る。どこかの部屋で誰かが寝返りを打ち、布団がこすれる。普通だ。普通であることが、逆に不気味だった。
水野は息を吐こうとして、止めた。
窓の外。山側から、かすかに声がした。
「……みずの」
自分の名前。音は遠いのに、距離だけが近い。呼び声に吐息が混じっている気がする。返事をしたくなる。呼ばれたら応える。それが癖だ。
「……水野」
もう一度。今度は少しだけ強い。
水野は布団の中で、唇を噛んだ。なぜだか分からないのに、返事をしてはいけないと、本能が叫んでいる。
廊下で、誰かが止まった気配がした。足音がぴたりと止まり、空気が一段重くなる。
次の瞬間、隣の部屋のドアが静かに閉まる音がした。誰も触れていないのに、鍵が噛み合う乾いた音。
――守られている。
水野の背中を冷たい汗が伝う。
外からの呼び声は、しばらく続いて、ふっと消えた。
布団の中で、暗闇に目を開いたまま、水野は理解した。
この寮は安全になったのではない。
誰かが、毎晩、当たり前みたいに危険を押し返している。
そしてその“誰か”は、さっき廊下で止まった人だ。
翌朝、水野が廊下に出ると、三枝が階段の下に立っていた。眠っていない目で、水野を見た。
「……昨夜、聞いたか」
水野は喉がひりつくのを感じた。言えば現実になる。それでも、嘘はつけない。
「……外から、呼ばれました」
三枝の顔が、ほんの少しだけ硬くなる。
「外に、漏れてる」
それだけ言って、三枝は名札の列へ視線を移した。そこに、まだ貼られているはずのない“何か”を探すように。
水野は、背中に見えない風が通るのを感じた。




