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最終話「名を返す」

その夜、俺は廊下に出た。

確かめるためだ。自分がどこまで“呼ぶ側”になったのか。


午前零時。寮の音は減らない。代わりに、壁の奥の水音が遠のく。

俺は息を吸い、囁く。


「……後藤」


自分の声。小さい。なのに、空気が冷えた。

床を這うように、気配が広がる。


後藤の部屋のドアが軋み、眠そうな声が返る。「誰だよ」


「見るな。返事もするな」


「は? 意味わかんねぇ」


その瞬間、廊下の奥から、別の声がした。


「……後藤」


俺じゃない。薄いのに耳の奥を撫でる声。

“本物”が混じる。


後藤の喉が動く。返事をしそうになる。

俺は反射的に駆け寄り、後藤の口を手で塞いだ。


「っ……!」


掌の下で、後藤の息が熱い。生きている温度がある。

それだけで、俺は現実に引き戻された。


声がもう一度呼ぶ。「後藤」


後藤は必死に頷いた。返事をしない。

声はやがて消えた。


俺は、はっきり分かった。

俺が呼べば、本物が反応して湧く。

俺が止まれば、向こうも止まる。


なら、終わらせ方は一つしかない。


翌日、俺は三枝に言った。


「“受領”の対象を変える。俺が……俺の名前を呼んで、俺が返事をする」


三枝の顔色が変わる。「お前、それ……」


「毎年一人は消える。なら、俺で終わるなら……」


三枝は歯を食いしばった。「代償は消えるだけじゃない。忘れられるかもしれないぞ」


「分かってる」


忘れられる。誰にも呼ばれない。

消えるより怖い。


その夜。

三枝が紙袋を差し出した。甘いパンと、熱い缶ココア。


「体温が下がると判断が鈍る。飲め」


建前だ。でも、その建前が俺を支えた。


零時。


廊下に出る。三枝が端に立つ。眠っていない目で俺を見る。


俺は息を吸い、静かに言った。


「……篠原」


廊下の奥から、“本物”が返ってくる。


「篠原」


喉が勝手に動く。返事をしろ、と。

三枝が首を振る。震える目で、止まれ、と言う。


でも今夜は、動く。


俺は一歩前に出て、はっきり言った。


「——はい」


返事をした瞬間、音が消えた。

呼吸の音すらなくなる。世界が一段沈む。


三枝の手が伸び、俺の腕を掴む。

「篠原!」叫ぶ口が動く。だが音は届かない。


俺の輪郭が溶ける。記憶が剥がれる。

顔が、声が、名前が——誰かの頭から抜け落ちていく感覚。


最後に見えたのは、ドアの名札がひらりと落ち、文字が砂みたいに崩れる瞬間だった。


朝。寮はうるさかった。

当たり前の雑音が戻っている。

それが怖い、と三枝は後で言った。


名簿の最後のページは空白になった。丸印も、名前も、最初からなかったみたいに。


でも三枝の手だけは覚えていた。昨夜、確かに誰かの腕を掴んだ温度を。


三枝は管理人室で、もう一冊の帳面を見つけた。


『境界補記』

『名を差し出した者は、呼ばれぬ者となる。

呼ばれぬ者は境界の外には出られぬ。

だが境界の内では、声なき守り手となる。』


消えたのではない。境界の内側に残った。

声なき守り手。


その夜、三枝が廊下を歩くと、誰もいないはずの床が、わずかに軋んだ。

見回る足音。守る足音。


三枝は落ちた名札を拾い、裏に小さく刻んだ。


『ありがとう』


届くかは分からない。けれど、音じゃなくても届くものがあると、三枝は信じた。


春。

夜十二時を過ぎても、名前を呼ぶ声はしなくなった。

新入生は「この寮、静かで住みやすい」と笑う。


三枝は笑えないまま、名札の裏を指でなぞり、そっと呟いた。


夜は怖い。

でも、夜はもう、奪うだけじゃない。

——守る夜になった。


「救われたのは、俺たちの方だ」

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― 新着の感想 ―
篠原が自ら「呼ぶ側」の役割を引き受け、恐怖と犠牲を終わらせる決断を描く、静かで深い締めくくりです。消えるのではなく「声なき守り手」となるラストは、恐怖が救済に変わる余韻を生み、寮の世界観とルールの重み…
自分の名前を差し出すという選択に、英雄的な高揚はない。 ただ静かに、確実に終わらせる覚悟だけがある結末でした。 「消えたのではない。残った」というラストが、あまりにも重く、美しいです。
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