第4話「沈黙の選択」
呼び声が止んだのは、いつだったか分からない。
時計を見る余裕もなく、ただ喉を押さえつけるようにして夜を耐えた。
朝。
消えたのは、知らない一年生だった。
名前は、確か——高橋。
入寮の挨拶で一度だけ聞いた。笑うと目が細くなる、あの子。
彼の部屋は空で、彼の存在は薄くなり、寮生たちは不思議なほど静かだった。
泣き声は出ない。怒号もない。
代わりに、安堵だけが漂っていた。
「……俺じゃなくてよかった」
誰かが小さく言った。
その言葉は、誰も否定しなかった。
後藤は俺の肩を掴んだ。「な? 返事しなかったの、正解だろ」
俺は頷けなかった。
“俺じゃなくてもいい”と考えた瞬間、あの一年生が消えた。
偶然じゃない。そう思ってしまう。
その日の夕方、管理人が廊下を歩き、空いた部屋の名札を付け替えた。
その作業は、妙に事務的で、日常の仕事みたいに見えた。
俺は自分の部屋のドアを見て、心臓が止まりかけた。
名札が貼られていた。
黒い文字で。
「篠原」
「……は?」
俺は自分の部屋にいる。荷物もある。布団もある。
なのに、名札だけが“空いた部屋”のものみたいに、冷たく俺の名前を掲げている。
「おい、篠原。これ……」
後藤が声を震わせた。
三枝が廊下の奥から現れ、名札を見て、短く息を吐いた。
「……来たか」
「来たって、何が」
俺の声が裏返る。三枝は俺を見ず、名札だけを見つめて言った。
「呼ばれなかったんじゃない。呼ばれなくなったんだ」
「意味が……」
三枝は、初めて俺の目を見た。
その目は、疲れているのに、逃げていない。
「お前はもう、“返事する側”じゃない」
背中が冷える。
「じゃあ俺は、何なんですか」
三枝は言葉を選ぶように、ゆっくり言った。
「……呼ぶ側だ」
その瞬間、喉の奥に、言葉が溜まる感覚があった。
誰かの名前を、今すぐ呼びたい。
呼ばなければ、胸が裂ける。
俺は唇を噛み、震える息で言った。
「冗談……だろ」
三枝は首を振った。
「冗談ならよかった。でも名札は嘘をつかない」
廊下の向こうで、新入生がはしゃぐ声がした。
現実の音。
それがやけに遠く聞こえる。
その夜、寮の音が減る前から、俺の喉は勝手に息を吸っていた。
そして午前零時。
静けさが落ちた瞬間——
声が外から来ない。
代わりに、俺の中から、言葉が出ようとした。
「——」
俺は両手で口を押さえた。
それでも、胸の奥で膨らむ“名前”が、止まらなかった。




