第3話「例外」
佐藤が消えてから、寮の空気は変わった。ルールは“攻略”ではなく、“選別”に近いものになった。守れば助かる。破れば消える。そんな単純な話なら、まだ安心できる。
安心できないのは、単純じゃなくなる瞬間だ。
「呼ばれたら無視。全員徹底。これで終わりだろ」
後藤は言い切った。強がりではなく、自分を守るための理屈だ。俺も、その理屈にすがりたかった。
次の週、五人が呼ばれた夜があった。
二階の廊下に、名前が順番に響く。後藤、俺、三年の松岡、別の一年、そして三枝。呼び声は同じ湿度で、同じ距離で、同じ優しさで。
全員が返事をしなかった。
翌朝まで、誰も返事をしていないことを、互いの目で確認した。夜明けの廊下で、まるで戦友みたいに頷き合った。
「ほらな」
後藤は笑った。「やっぱり無視すりゃ——」
言葉が止まる。
松岡の部屋が、空いていた。
二〇三号室。昨日までベッドがあった。洗濯物の匂いがあった。松岡の笑い声があった。
なのに朝、そこには何もない。空気だけがある。空気が、最初からそうだったみたいに整っている。
「……嘘だろ」
誰かが呟いた。後藤の顔から血の気が引いていく。
「俺たち、返事してない。全員」
「誰か、したんじゃないの?」
「してねぇって!」
疑心暗鬼が走る。誰かが嘘をついている、と疑うことでしか、理屈を保てない。
三枝が、廊下の中央でぽつりと言った。
「……誰かが返事をしなきゃ、終わらない」
言葉が落ちた瞬間、寮の壁が一段薄くなった気がした。
「どういう意味ですか」
俺が聞くと、三枝は名札の並ぶドアを見たまま答えた。
「返事が“受領”なんだよ。返事がないと、受け取れない。受け取れないと……勝手に取る」
「勝手に?」
「誰かを、適当に」
後藤が叫ぶ。「そんなの、ただの理不尽じゃねぇか!」
「理不尽に見えるだけだ」
三枝は乾いた目で言った。「“本物”の声が混じってる。だから誰か一人が返事すれば、そいつで終わる。でも返事がないと、声は帰れない。帰れないと……境界が乱れる」
境界。初めて聞く言葉だった。
その夜、俺は呼ばれた。
俺と、後藤と、知らない一年生。
廊下の奥から、声が三つ同時に滑ってくる。
「篠原」
「篠原」
「篠原」
距離が違う。湿度が違う。優しさの質が違う。
どれが本物か分からない。
分からないのに、喉だけが答えを求めて震える。
俺は息を殺し、布団の中で耳を澄ませた。
すると、廊下の床が、ゆっくり軋む音がした。
——誰かが立っている。
ドアの前。
見えないのに、そこにいる。
その気配が、こちらへ寄ってくる。
「……篠原」
声が、今度は一つになった。
一つになった瞬間、喉が勝手に開く。
俺は歯を食いしばった。
返事をしたら終わる。
返事をしなければ、誰かが取られる。
息を止めたまま、俺は思った。
——俺じゃなくてもいい。
その瞬間、胸の奥で何かが、冷たく笑った。




