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第2話「空いた部屋」

朝、目が覚めたとき、寮はいつも通りの雑音に満ちていた。食堂の椅子を引く音、廊下を走る足音、誰かの笑い声。夜に削られていた音が、何事もなかったように戻っている。


「ほら。何も起きてない」


後藤は欠伸をしながら言った。「篠原、昨日ビビってたっしょ」


「……別に」


俺は曖昧に笑った。三枝は何も言わず、黒いコーヒーを飲んでいる。目の下の影が、夜のまま残っていた。


それから数日、名前を呼ばれる夜はあった。俺の名前も、後藤の名前も、別の部屋の誰かの名前も。けれど皆、返事をしない。噂は軽口になり、恐怖は共有されて薄まっていった。


「無視すりゃいいんだよ」


誰かがそう言い、皆が頷いた。ルールが“攻略”になった瞬間、怖さは半分になる。


——その半分が、最も危ないのに。


消えたのは、四日目の朝だった。


二階の角部屋、二〇七号室。住んでいたのは一年の佐藤。無口で、食堂でも端の席に座る男だ。昨夜も俺は佐藤を見た。トレーを持って、黙って味噌汁を飲んでいた。


「佐藤の部屋、鍵開いてるぞ」


廊下で誰かが叫び、寮生が集まった。


管理人の男が渋い顔でドアを押し開ける。がらん、と音がした。部屋の中が、空っぽだった。


ベッドも机もない。布団の跡すらない。壁の日焼けが均一で、最初から家具を置いたことがないように見える。床に残るはずの埃の筋もなく、窓の鍵に触れた指紋の跡すらない。


「引っ越し?」


誰かが言った。冗談のつもりの声。


「一晩で? 荷物も全部?」


別の誰かが笑った。笑いが乾いている。現実逃避の笑いだ。


管理人は言葉少なに首を振った。「そんな届け出はない。……警察には連絡した」


寮生たちはざわついた。けれど、そのざわつきの奥に、妙な一致があった。


——返事をしたんだ。


誰も口にしないだけで、全員が同じ答えに辿り着いている。


夕方、食堂の隅で三枝に呼び止められた。


「……返事、したらしい」


三枝はそう言って、視線を落とした。


「誰が返事したって知ってるんですか」


「知ってるわけない。ただ、そういう結果だ」


「でも、佐藤は……」


俺は言いかけて、飲み込んだ。昨夜、佐藤の部屋の前で、俺は確かに“声”を聞いた。佐藤の名前だった。佐藤自身が呼ばれていた。


「篠原」


三枝が低く言った。「お前、昨夜……何か聞いたか」


俺は喉がひりつくのを感じた。言えば、現実になる。言わなければ、俺だけが知っている。


結局、言ってしまった。


「……佐藤の名前。呼ばれてました」


三枝の顔色が、ほんの少しだけ変わった。


「そうか」


たったそれだけ。なのに、背筋が冷えた。


その夜、俺は眠れなかった。寮の音が減る前から、廊下の気配が気になって仕方がない。


午前零時。


静けさが落ちる。


そして、遠くの部屋から、かすかに声がした。


「……佐藤」


もういないはずの名前が、寮のどこかで呼ばれていた。

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― 新着の感想 ―
「ルールを知ったことで生まれる油断」と「取り返しのつかない結果」を鮮やかに描いていて、怖さが一段深まりました。空いた部屋の描写が異様に具体的で、現実が静かに書き換えられていく感覚が強烈です。最後の“も…
“消える”の描写を直接見せず、空になった部屋だけで語るのが恐ろしい。 寮生たちのざわつきと、すぐに日常へ戻ろうとする姿がリアルでした。
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