第6話「返事のない名前」
翌朝、寮はうるさかった。
椅子を引く音、笑い声、食器のぶつかる音。生きている音だ。
倒れた寮生たちは、軽い貧血みたいに青い顔で起きてきた。誰も死んでいない。誰も消えていない。
代わりに、空気の“膜”が薄くなった気がした。
山の気配が、寮の中まで入り込む。安全と危険の境目が曖昧になる。
三枝は管理人室で帳面を閉じ、静かに言った。
「境界は弱くなる。外も、内も、同じくらい危険になる」
水野は頷いた。
「……でも、誰か一人が毎年消えるよりは」
三枝は苦い笑みを浮かべた。
「正しさの話じゃない。選択の話だ。お前は、お前の選択をした」
夜が来た。
水野は自室で、布団に入った。喉が乾く。名前が浮かぶ。だが、呼ばない。呼べないほどの恐怖と、呼ばないという決意が、せめぎ合う。
00:00。
寮の音は、少しだけ減った。完全には消えない。
遠い換気扇の回転が残る。どこかで誰かが寝返りを打つ。普通の夜だ。
窓の外、山側から、遠くで枝が折れる音がした。
それが動物なのか、風なのか、分からない。分からないことが、普通だ。
水野は目を閉じ、耳を澄ませた。
――呼ばれない。
昨夜まで確かにあった、名前の湿り気がない。
代わりに、廊下で床が小さく軋んだ。
見回る足音。守る足音。
けれど弱い。遠い。薄い。
水野は布団の中で、心の中だけで言った。
(……終わるんですか)
返事はない。
ただ、胸の奥に、音にならない感情が落ちてきた。
――ありがとう。
水野は涙をこぼした。
声のない誰かが、いま、やっと休めるのだと思った。
数日後、寮の掲示板から「夜間外出禁止」の紙が外された。代わりに「山道注意」の紙だけが残る。普通の注意喚起だ。
新入生は笑って言う。
「この寮、静かで住みやすいっすね」
水野は、笑えなかった。
静けさが戻ったのではない。
静けさの“理由”が変わっただけだ。
夜は怖い。
でも夜はもう、誰か一人を選んで奪う夜ではない。
水野は廊下に出て、名札の列を見た。
落ちた名札は、もうない。けれど、そこに確かにいた。
水野は小さく呟く。
「救われたのは、俺たちの方だ」
そのとき、廊下の奥で、床がほんの少しだけ軋んだ。
まるで、笑ったみたいに。




