第5話「守り手の声」
久保が退寮した。病院に運ばれたまま、戻らなかった。
理由は「過労」。そう処理された。誰も怪談だとは言わない。言った瞬間に、現実が歪みそうだから。
だが歪みは止まらない。
外の行方不明者が増える。
寮の電話が夜に鳴るようになる。受話器を取ると、無音。けれど耳の奥に、名前だけが残る。
そして、最悪の夜が来た。
雨。山の匂いが濃い。湿った風が窓を叩き、寮の古い木材が膨らんだように軋む。
00:00。
呼び声が一斉に来た。
廊下、階段、窓の外、壁の内側――あらゆる場所から、名前が滲む。返事をしないのに、寮生が一人、また一人と倒れる。言葉ではなく、体温が奪われる。
水野は廊下へ飛び出した。
自分の喉が勝手に息を吸う。名前が出そうになる。出したら、“本物”が混じる。久保の夜と同じだ。
「やめろ……!」
水野は口を押さえた。手のひらの下で、唇が震える。
そのとき、目の前のドアが、勝手に閉まった。
誰も触れていないのに、きい、と静かに。鍵が噛み合う音。
廊下の先でも、次々にドアが閉まる。
倒れかけていた寮生が、部屋へ押し戻されるように消える。
呼び声が、途中で途切れる。
水野は立ち尽くした。
廊下の中央に、輪郭が立っている。
顔がない。声もない。
けれど、人間だった。人間の形のまま、そこにいる。
篠原。
水野は息を呑んだ。
輪郭が一歩近づく。
声はないのに、感情だけが流れ込む。
――怖い。
――疲れた。
――でも、守らなきゃ。
水野の目から涙が落ちた。
「……あなたが、ずっと」
輪郭は答えない。
代わりに、名札が落ちた。床に転がり、裏が見える。
『ありがとう』
その文字が、雨の湿気で滲んでいる。
三枝が走ってきた。息を切らし、輪郭を見る。三枝の表情が崩れかける。けれど泣かない。
三枝は水野の肩を掴んだ。
「今だ。選択しろ」
水野の喉が熱い。名前が膨らむ。呼べ。呼べば終わる。誰かが返事をして、犠牲が出て、境界が落ち着く。
だが水野は、輪郭の疲れを感じてしまった。
犠牲を積み上げる正しさが、急に嘘みたいに思えた。
輪郭が、もう一歩近づく。
水野の胸に、第三の感情が流れ込む。
――呼ばない。
――呼ばせない。
――ただ、溶かす。
水野は理解した。
境界を「維持」しようとするから、犠牲が必要になる。
なら、境界そのものを弱め、普通の危険な世界に戻すしかない。
水野は震える声で、三枝に言った。
「……誰も呼ばない」
三枝の目が揺れる。
「それは、守るのをやめるってことだ」
水野は頷いた。
「守り続けるなら、誰かが選ぶ側になる。俺がそれになるくらいなら……」
輪郭が、静かに立ち尽くす。
賛成も反対もない。ただ、今夜の呼び声が薄れていく。
水野は、喉の奥の名前を噛み潰すように、息を止めた。
そして、雨の夜が、少しずつ“普通の夜”へ戻っていった。




