第1話「ルール」
熱がこもった坂道を上りきると、白く濁った息が胸の奥でほどけた。山の中腹に建つ男子寮〈青嵐寮〉は、昼間はただ古いだけの建物に見える。けれど夜になると、ここは“音が減る”場所になる。
自動販売機の低い唸り。遠い国道を走る車のタイヤ音。換気扇の回転。そういう生活の雑音が、午前零時を境に、すっと引き抜かれていく。代わりに残るのは、壁の奥で水が動くような、ぬるい気配だけだ。
「新入り、篠原だっけ」
引っ越し初日の夜。相部屋の先輩・三枝が、ベッドに腰をかけたまま言った。痩せた指で、枕元の時計をとん、と叩く。
「ここはな。夜十二時以降、名前を呼ばれても返事をするな」
同室の後藤が笑った。「怪談っすか。令和ですよ」
三枝は笑わない。「信じなくていい。守れ」
「返事したらどうなるんです」
俺が聞くと、三枝は一瞬だけ視線を逸らし、乾いた声で言った。
「翌朝、その部屋が空く。荷物ごと。最初から誰も住んでなかったみたいに」
冗談にしては、言い方が妙に正確だった。
「……そんなの、あり得ない」
後藤は肩をすくめ、布団に潜った。三枝も「消灯だ」とだけ言って、灯りを消した。
暗闇が落ちる。古い木材の匂いが鼻に残る。外は風の音がしていたはずなのに、いつの間にか聞こえなくなっている。音が減る。減った分だけ、寮が“近く”なる。
スマホの時計が、23:59から00:00へ変わった瞬間。
——すっと、空気が薄くなった。
耳が詰まる。呼吸の音が大きく感じる。遠くの生活音が消え、壁の奥の水音だけが、ゆっくりと動く。
そのときだった。
「……篠原」
呼び声がした。
ドアの外から、ではない。ドア一枚の向こうに“息”がある距離。言葉が湿っている。名前の後ろに、吐息が続いている気がした。
反射的に喉が動く。「はい」と返しそうになる。自分でも驚くほど自然に。名前は、自分の存在を確認する合図だ。呼ばれたら応える。それが人間の癖だ。
——返事をするな。
三枝の言葉が、氷みたいに脳裏へ落ちた。俺は歯を食いしばり、喉の反射を噛み止めた。
「……篠原」
もう一度、優しく呼ばれる。優しいのに、優しいほど怖い。返事をしたら、こっちへ来ていいよ、と言われているみたいだ。
後藤の寝息が止まった。三枝の布団が小さく軋む。誰も動かない。動けない。
俺は掌に爪を立て、痛みで自分をつなぎとめた。呼び声は、数秒続いて、ふっと消える。
音が戻らない。静けさだけが残る。
目を閉じても、ドアの向こう側に誰かが立っている気配が、消えなかった。




