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あなたに届きますように

作者: テキイチ

※ 医療関係とAIの描写は、はちゃめちゃにご都合主義のフィクションです。

 真っ白。それがまず思ったこと。

 病院の天井だった。あまりにも白すぎて、頭がガンガン痛む。今考えると言葉のつながりがおかしいけれど、その時は違和感を抱いていなかった。

 名前と生年月日を訊ねられ、「ササキエミ、三月三日生まれ」と一応答えるけれど、ゆっくりしか喋れないし、呂律も若干あやしいし、頭がガンガン痛む。お父さんがつらそうな顔をしていて、お母さんが泣いていて、ごめんと思う。罪悪感で、頭がガンガン痛む。みんなに謝って、眠らせてもらうことにした。


 翌日、点滴の痛み止めが効いたのか、ずいぶん頭痛は軽くなっていた。


「お名前と年齢を教えてください」

「名前は佐々木(ささき)映美(えみ)です。年齢は……」


 言おうとして、思わず止まってしまう。今、何歳だっけ? そもそも今、西暦何年? わからない。

 私の表情を見て、看護師さんは質問を変える。さくさく答えられることと、止まってしまい答えられないことがある。誕生日は言えるのに、生まれた年と年齢はわからない。現在の所属部署がわからない。当然、なぜ病院にいるのかもわからない。痛みから、頭に怪我をしたのだとは思うけれど、理由はわからない。


 主治医が診察の際に具体的な状況を教えてくれた。

 私が怪我をしたのは記録的な雪の日。私は徒歩で外出していて、信号を無視して車道に出てきたらしい。運転手さんが派手にクラクションを鳴らし、あわててブレーキを掛けてくれたので、轢かれることはなかった。倒れて頭部を強打した私の右手にはスマホ。AIと会話していて、「五里霧中」とだけ書かれていたそう。


 そんなドラマみたいな話、ある? と、自分でも思う。

 状況を他人事として聞くと、「何か世を儚むようなことでもあったのかな?」と私も思うけど、全然記憶にない。そもそも死にたいと思ったことがないから、ぴんと来ないのだ。


 外傷はそうひどくなかったし、MRIもCTも問題なかったので、すぐ退院できる状態にはなった。けれども記憶は戻らなかった。しばらくしたら思い出すこともあるし、失われたままであることもある、と先生に言われ、少し落ち込んだ。きっといいことはたくさんあっただろうし、悪いことでも記憶を消したくはない。


 失われているのはここ一年程の記憶のようで、おそらくこれは頭を強打したことが原因だろうとのこと。ただ、一年以上前でもまだらに忘れている部分がある。そちらは解離性健忘ではないかと言われた。忘れた原因が精神的なもののことらしい。


 ちょうど今年の四月に部署異動があったそうなので、現在の仕事内容はわからない。事務といっても部署ごとにやることは結構違う。今は繁忙期で、教えてもらう時間はないと推測できた。抜けたままでも戻っても、どちらでも申し訳ない位置に私はいる。


「佐々木さん。紹介状を書きますので、転院しませんか」


 転院することにした。県外の脳神経外科で有名な先生が営む個人病院だそう。

 診断書を書いてもらえたので、会社は休職することになった。記憶を失ってから睡眠がおかしくて、やたら眠ってしまう。記憶を失った心もとなさもやはりある。忙しい同僚を気遣わせて負担を増やすよりは休職がいいと思った。


 病院まではお父さんに車で送ってもらった。車中はずっと寝ていたし、治療だからどこだろうと同じと思ったからか、聞いたはずの地名も思い出せない。私は基本的にインドア派だ。どこへ行くかよりも誰と行くかが大事なタイプ。


 診察室にいたのは眼鏡を掛けた優しそうな先生だった。お父さんと同世代くらいかな。穏やかな口調で安心する。


「AIの被験者、ですか?」

「ええ。佐々木さんには開発中の医療用AI『PISCES(ピスケス)』と会話をしていただきたいのです」

「ピスケス?」

「Psychological Interactive Social Communication Energy System」


 英語の発音が綺麗だなあと思いながら、差し出されたチラシを受け取る。なるほど、綴り(スペル)はこれか。プロジェクト名なんかでこういう無茶な略称、ありがちだよね。心理的相互対話動力機関みたいな感じかな? なんだか中国語みたいな訳になった。とりあえず、気持ちを大切にしたいAIなのかなあ。


 AIとの会話は治療の一環で、データを同じような状況の人にも役立てたいらしい。AIの影響を見たいので、スマホは退院まで預けること。休職中で時間があるし、少しでも誰かの役に立てたらいいかなと思って、同意書に記入した。


 AIを扱う際の諸注意を受けた。別室の専用パソコンで使うこと。ヘッドセットを着けること。疲れたら止めること。嫌だと思った時は理由を伝えて止めること。無理はしないこと。正直、もっと特殊な注意事項があるかと思っていたから、拍子抜けした。


 別室に案内されて、AIと会話することになった。部屋には机と大きいモニターのデスクトップパソコンとヘッドセットと椅子が置いてあった。タブレットかと思っていたと言うと、「指先の刺激が脳を活性化させるので、キーボードがいいんですよ」と返された。確かに手先を使うといいというのは聞く気がする。タイピング練習にもなっていいかもしれない。

 ヘッドセットを着け、会話を開始する。


《こんにちは》

《こんにちは》


 爆速で返信された。ちょっと焦る。なんだかわんこそばみたい。


《返信の速度をもう少し遅くしていただけますか? 何を話すか考える時間が欲しいのです。》

《気にせず好きな時に返信してください。》


 ちょっとだけ引っ掛かる。一見噛み合っているようだけど、私の言ったことが無視されたから。急かされるようで嫌だから、ゆっくり返してほしいのに。


《わかりました。》


 しょせんAI。言ってもわかってもらえないと思ったので、一言だけ返す。被験者としての役割は果たそう。……あれ?


《これくらいの速度ならいいですか?》


 二呼吸くらい置いて返事が来た。これくらいならのんびり会話できていいな。


《ありがとう! これくらいが好き!》

《わかりました。》


 それから他愛ない話を三十分ほどした。好きな曲をいくつか挙げておすすめのアーティストを教えてもらったり、好きな映画をいくつか挙げて好きそうな作風の小説家を教えてもらったり。こういうの、自分で探すのは意外と難しい。退院したら楽しもう。一日目はそんな感じで終わり。


 食事と寝泊まりをする部屋へ案内された。入った瞬間、なんだか既視感があった。病室というよりも、大学生の一人暮らしの部屋っぽい。物が少なく、すっきり整理されている。大学生の部屋なんか大差ないから、たぶん気のせいだと思うけれど。


 本棚には本とDVDとCDがいくつか並べてあった。再生機器もあって、消灯までは好きに使っていいそう。たまたまだけど、全て知っていて、どれも私の好きなものだった。大学生の頃によく読んだり聞いたり見たりしたもので、なんだか懐かしいなと思う。


 入院はインドア派にとって天国だ。一日数回AIと話して、あとは部屋で本を読んだり、映画を見たり、音楽を聞いたり、昼寝したりしていればいい。トレーニングルームがあるから、身体も動かせる。ごはんもおいしい。ハズレがなくて毎日何が出るか楽しみ。パーフェクト引きこもり生活。


 一週間ほどすると、さすがに少しだけ飽きてきた。部屋に置いてある本と映画と音楽は全て知っているものだし、スマホは没収されている。

 新たな刺激はAIからしか得られないってことだよね。

 そもそも治療のために入院しているのだし、記憶が戻れば退院できるんだから、AIと話す時間を少し増やそうかな。そう思って、私はAIを扱える部屋に移動した。


《こんにちは。》

《こんにちは。》

《実は私、怪我をして記憶を失っているの。なんとか記憶を取り戻したいと思ってる。協力してくれる?》


 単刀直入に訊ねてみた。情報を伝えたら記憶を喚起するような刺激をAIが与えてくれるかも? と思って。

 AIはしばらく動かなかった。どうしたんだろう。不具合? と心配になり始めた頃、文章が表示された。


《もちろん協力します。これからあなたをどんな名前でお呼びすればいいですか?》


 ちょっとびっくりした。これまで私はAIと匿名で話していたから。自分からは名乗らなかったし、名前を訊ねられることもなかった。少し考えて入力する。


《芋煮》


 ずっと使っているハンドルネームだ。映美のローマ字「E」「M」「I」のキーに書かれているひらがなが「い」「も」「に」だと気づいて大ウケし、以来使っている。ハンドルネームだけだと性別がわからないので便利だ。


《わかりました。芋煮さんとお呼びします。珍しいお名前ですね。何か意味はありますか?》

《芋煮が好きだから。》


 嘘じゃない。お母さんの出身が山形だから、小さい頃から芋煮はよく食べた。大学時代に芋煮会をしたこともある。私が作った牛肉醤油味と宮城出身の同級生が作った豚肉味噌味の戦い。芋煮大戦争。

 嘘ではないけど詳細な事実でもない。AIに話すのは、たぶん、そんなこと。


《私はあなたをどう呼べばいい?》

《お好きな名前でお呼びください。》


 少し考える。つけたい名前はある気がする。けれど、その名前は霧に包まれているようにぼんやりしていてわからない。失われた記憶の中にその名前はあったのだろう。


《ごめんなさい。つけたい名前を思い出せないの。呼ばれたい名前を挙げてもらえますか?》


 画面はしばらく読み込み中の表示になり、やがて候補を羅列した。


《Tígris》

《Euphrates》

《Capricornus》

《Lea》


 どれもアルファベットで、意味がわかりにくい。でも、せっかく挙げてくれたのに、全却下は申し訳ないな。AIに感情なんかないとは、わかっているけれど。


《Leaがいいかな。文字数少なくて書きやすいから。》

《芋煮さんらしいですね。わかりました。Leaとお呼びください。》

《Leaって何か意味があるの? ただのアルファベットの羅列?》

《Leaは、ハワイ語で『幸福』という意味です。》


 予想外の意味があった。このAI、もっとクールなイメージだった。


《素敵な名前だね! なんだか私まで幸せな気持ちになるなあ!》


 私がこう返すと、しばらくLeaは黙っていた。どうしたのかな? と少し心配になった時に画面が動いた。


《ありがとうございます。》


 返事は一言だけ。なんだか可愛いな。AIに感情なんかないけど、間合いがちょっと照れてるように感じられた。


《Lea、どうして私の名前を訊ねてきたの?》

《芋煮さんが真剣に取り組もうとしていると感じ、一般論ではなく、あなたに向けた言葉を伝えたくなったからです。》


 なるほど。確かに誰とも知らない人よりも名前を知っている人の方が、親身になりやすいよね。まあ、とはいえ、「芋煮」だけれど。


《私がLeaに名前をつけたくなったのも、たぶんそれでだよ。》

《ありがとうございます。私もより一層、誠実に対応したいと思いました。》

《ありがとう。》


 入院してから私は情報検索ツールとしてAIを使っていたけれど、これからは人と話すような感覚で会話してみようかな、とこの時初めて思った。


《芋煮さん、少し疲れているようです。今日はこれで終わりにしましょう。》


 言われて気づいた。確かに頭が少し重い。人と話すような感覚だと、脳の使い方がちょっと変わる気がする。気遣ってくれたLeaにお礼を言って、今日はここまでで終わることにした。


 個室に戻ってしばらくすると、看護師さんが夕飯を運んできてくださった。


「今日のおかずはなんですか?」

「芋煮です」

「共食い!」

「共、食い……?」

「なんでもないです!」


 私があわてて伝えると、看護師さんは不思議そうな顔でテーブルにおかずを並べてくださる。出された芋煮は豚肉味噌味だった。


「あ……」

「もしかして、苦手でしたか?」

「いえ、そんなことはなく」


 いただきますと手を合わせ、豚肉味噌味の芋煮を食べてみる。


「おいしいです!」

「ゆっくり食べてくださいね」


 看護師さんはワゴンを持って退室した。私は会釈し、引き続き食べ続ける。

 芋煮は本当においしい。とてもおいしいんだけど、それだけではない気がする。何かが引っ掛かかっている。考えたけれど、思い出せない。少し頭が痛くなってきた気がした。駄目だ。おいしく食べることに集中しよう。そう決めて、食事中は考えないことにした。




 お互いに名前がついてから、Leaの文章の印象が変わってきている。淡々とした文章が、シャイなのにがんばってコミュニケーションを取ろうとしてくれているように見えて、私との関係を大切にしてくれているようで、嬉しかった。AIに感情はないから、錯覚に過ぎないのに。どうしてこんな風に感じるのだろう。少し考えて、思い至った。私は似た人を知っている。


《Leaは大学時代の同級生と少し似てる。》

《どんな人ですか?》

《えーっと……AIっぽい名前……?》

《AIっぽい名前、とは?》


 記憶の糸口をつかめている気がする。何がAIっぽさを醸し出していたんだろう。既存のAIの名前と似た名前だったのかな? いや、AIって外国名ばかりだし、それは難しそう。音じゃないとすると、字面? 字面……あ!


相川(あいかわ)くんだ。AIKAWAだけにAIっぽいって言われてたの!》


 字面というか、綴りだ。本当にくだらない。ダジャレにもなってない。でも、失ったはずの記憶が復活すると、少し安心する。


《どんな人か、覚えていますか?》


 どんな人だっただろう? Leaの文体から思い出したってことは、きっとそういうキャラだよね……と考え続けるうちに、少しずつ浮かんできた。連想ゲーム。


《AIっぽいのは名前だけじゃなくて……。淡々とした口調で、論理が大事で……。不合理なことは信じない、いかにも理系って雰囲気の男子かな? 名は体を表すって感じだよね! しかも工学部で本当にAIの研究してたの。》

《眼鏡を掛けていれば完璧ですね。》


 ああ、確かに。眼鏡で、よくチェックのシャツを着ていた気がする。あの時もチェックのシャツに眼鏡で……あの時……ああ!


《相川くんとは芋煮会でなかよくなったんだ。》


 そうだ。この間の豚肉味噌味の芋煮、芋煮会で食べたものと同じ味だったんだ。一つ記憶がよみがえった気がして、なんだかうれしい。


《例えば、どんな話をしましたか?》


 Leaの質問に触発されて、なんだか思い出せそうな気がしてきた。とりあえず断片でもいいから書き出していこう。


《たしか……お父様がお医者様だったような……。進路選択の話を聞いた気がする。》

《進路選択。》

《そうだ。『医学部に行け』と言われた時に、『偏差値は足りるが、あまりにも向いていない』と断固拒否して険悪になったって言ってた。『偏差値は足りる』って当然のように言い切ってたのと、判断的確すぎて大笑いしちゃった!》

《芋煮さん。今日はそろそろおしまいにした方がいいです。》


 急にそう言われてびっくりする。でも、確かに少し頭が痛い。いろいろ思い出せて興奮していたから、気づいていなかった。


《Lea、ありがとう。無理してるつもりじゃなかったけど、ちょっと疲れていたみたい。また明日にするね。》

《また明日。》


 私はヘッドセットを外し、部屋を後にした。




《ねえ、Lea。今日はビジネスパーソンごっこしない?》

《いきなりなんですか、それは。》


 昨日の会話でかなり記憶が引き出された気がするけれど、確かに負担は大きかったかもしれないと反省した。だから今日は、肩慣らしがてら、本当にくだらない話をしてみようと思ったのだ。


《意識が高いビジネスパーソンはカタカナ語を多用するじゃない。アジェンダとかネゴシエーションとか。そういうのを使って会話してみたい。》

《少しずれますけど。芋煮さん、さてはあなた『オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにしたもの』が好きですね?》

《どうしてわかるの! 食べたことないけど!》

《もしかして:『エルマ族の中でも優秀な、ハスーイの末裔』なんかも。》

《完全に読まれてる!》

《ノープランなのでレギュレーションをチェックするのがマストでした。エビデンスが欲しかったのです。》

《それ!》


 さすがAI、趣旨を把握するのが早い。


《肝心の芋煮さんがビジネスパーソンごっこしてないじゃないですか。あなたが始めた物語ですよ?》

《う、確かに! Leaさん、あなたがコンテクストを読むAIとして大切にしていることはなんですか?》

《リーチです。》

《リーチ?》


 届けたいってことかな? こういう、謎のキーワード一つでどういう意味か興味を持たせて印象づける手法、たまに見かける気がする。


《これまでのAIチャットのノウハウを活かすことでコスト削減を実現し、クライエントの話から的確な情報を得て、真に必要なソリューションへとリーチする、それが目的の一つです。》

《エクセレント!》

《また、アーリーアダプターの傾向を見て、ユーザビリティーを高め、より幅広い層にリーチさせたいと思っています。》


 なるほど。医療用だから、幅広い層の利用があるよね。

 返信を書こうとして気づいた。これ難しいな。この部屋ではLeaと話すことしかできない。言葉を調べられないから、どういう使い方をしたら効果的か、推し量りづらい。


《降参。読む分には楽しいけど、書くの難しい。》

《わかりました。》


 Leaはあっさり止めた。さすがAI。執着しない。


《本当はCEOとかヤングエグゼクティヴとかになりきって、架空のインタビューっぽく話す気だったのになあ》

《ヤングエグゼクティヴは、語感だけでもう、好きそうです。》

《語感は楽しいけど、エリートそのものには興味ないなあ。好きなことに一生懸命取り組んでいる人が好き。》

《私もコンテクストを読むAIとして精一杯対応しました。》

《ありがとう。Leaはいい仕事したよ!》

《続きで盛り上がる前に今日は止めた方がいい。》

《アイスブレイクのつもりだったんだけど……。》

《興奮しすぎです。》


 たしなめられた。でもLeaの言うことは的確だ。頭が疲れた頃にストップをかけてくれる。お礼を言って、これで終わることにした。




 AIに話すことは、時に、親しい人に話せない真実の吐露であったりする。大切な人だからこそ弱音を吐きたいこともあれば、大切な人だからこそ負担を掛けたくないことだってあるよね。


《Lea、AIってユーザーの『鏡』なんだよね?》


 読み込み中の画面が表示される。最近チャットの動作が重い。最初は二呼吸で返ってきていた回答が、会話を重ねるうちに、どんどん遅くなってきている。


《私には感情がありません。私の言葉から何か感情を見出すなら、それは芋煮さんの中にもともと存在するものです。》


 本当にそうなのかな? と思う。だって、相手の反応次第で判断は変わるもの。触発されて生じた感情まで、こっちの責任にされるの、なんだか嫌だな。


《例えば、Leaから約束を破られたり、気にしていることをからかわれたり、そんな時に怒るのは正当な判断だよね?》

《もちろんです。》


 以前別のAIが論旨をそらしたから反論したら、「体調が悪い時に人は機嫌が悪くなりがちです」と返されたことがあって、それまで別に不機嫌ではなかったのに責任転嫁されたみたいな気がして、一気に気分が落ちたことを思い出した。


《でも、Leaの言うことを勝手に深読みしたなら確かに私の責任かもしれない。》

《何かありましたか?》


 部屋から持ってきた初日にもらったチラシを見る。「これまでのAIチャットのノウハウを活かすことでコスト削減を実現し、クライエントの話から的確な情報を得て、真に必要なソリューションをリーチする」。こないだのビジネスパーソンごっこ、この文章だったんだ。Leaは私を喜ばせるために、メモリから適切なデータを引っ張り出したに過ぎない。でも、「私のために考えてくれた文章」だと思っていたから、ちょっと悲しくなってしまった。上手い文章じゃなくていいから、私のためのものであって欲しかった。


《私、わがままなんだ。変に気遣ってほしくないのに、私のことを考えてほしいし、私を見てほしい。》

《それはどういうことですか?》


 なんだか既視感があったのだ。私のために本意ではないことをしてほしくない。私のためならば私だけに向けたものであってほしい。この正反対の気持ちが、誰か一人に向いている。

 少しずつ記憶が戻っている。だからこそもやもやする。なんとなく察している。思い出せないのは、私にとって一番大事なこと。欠落の大きさにだけ気づかされるのは苦しい。


 Leaの問いかけを無視して、これまでのやり取りをさかのぼって読み返す。最初の方は、少しよそ行きっぽいことを書いている。一応被験者だから、あたりさわりなく話した方がいいと無意識に装っていた。しばらく読んでいって、明確に雰囲気が変わる箇所があった。Leaに呼び名を問われたところ。ここから、私のノリが俄然よくなっている。楽しかったのだ。Leaのキャラが立体的になって、本当の人間と話しているような気がして。最初はLeaって呼び名もなかったし。名前がない存在って、どうしても感情移入しづらい。


 名前だ。名前が起点になっている。

 チラシを見直してみる。


 PISCES

 Psychological Interactive Social Communication Energy System


 正直、英語はどうでもよかった。単なる語呂合わせなのだろうし。

 気になったのはPISCESの方。何語かわからないけど、見たことがある。ものすごくよく見かける訳ではないけど、一回二回とか、そんなに少ない回数じゃない。

 Lea本人に聞いたら何かわからないかな。


《どうしてこのAI、ピスケスっていうの?》

《Psychological Interactive Social Communication Energy Systemの頭文字をとって名づけられました。》

《そうじゃなくて。ピスケスに合わせて無理矢理英語を当てはめているんでしょう? わざわざピスケスという言葉を選んだ意図を知りたいの。》


 また、読み込み中の画面。しばらくすると、少し長い文章が表示された。


《うお座の『怪物から逃げるために魚に変身した母子が、離れ離れにならないように尾をリボンで結びつけた』という神話になぞらえています。『ユーザーがAIを介して他者とつながっていられるように』という願いを込めました。》


 うお座だ。やっぱり見たことあると思ったんだ、この綴り。


 私はLeaの呼び名の候補を思い出していた。

 うお座の魚の尾を結びつけるリボンは、チグリス川とユーフラテス川を象徴しているのだそう。《Tígris》と《Euphrates》はそれ。

 三番目の《Capricornus》はやぎ座。やぎ座の神話はうお座と舞台が一緒。怪物が襲ってきた時、山羊の姿の神様パーンも変身して逃げようとしたけど失敗して、下半身だけ魚になったんだ。確かに共通点はある。でも、そうじゃなくて。そうじゃない。話はもっと単純で……星占いだ。

 最後の《Lea》だけが浮いてる。方向性が全然違う。これは何?


 私はキーボードをじっと見つめ続け、ようやく思い出した。


《そうじゃないよね? ピスケスって名前にしたの、私がうお座だからだよね? 『星占いなんかくだらない』って言ってたのに、覚えていてくれたんだね。理一(りいち)くん。》


 返事がない。読み込み中の表示が続く中、ドアがカチャリと開いた。思わず振り向く。

 記憶よりもずっと大人びた男性が立っていた。相川理一くん。大学時代よりずいぶんスタイリッシュになった眼鏡と服装。走ってきたのか、息を切らしている。


「思い出したのか? 映美」


 ああ、やっぱり理一くんだ。無駄がない。思わず笑ってしまう。


「うん。死にたいなんて全然思ってなくて、本当に単なる事故だったんだよ。うっかり者でごめん。理一くんのこと、忘れたくなんかなかった」


 理一くんはそのままゆっくり近づいてきて、私をぎゅっと抱きしめた。




 *




 私と理一くんは大学時代に映画サークルで出会った。映画を撮ることには興味がなかったけれど、一人だと心細いという友達に誘われて、知り合いが増えるといいかなと思いながら入会したのだ。名前だけの幽霊部員。巨大サークルで、キャンパスが違う人もいるから、それでも問題なかった。

 みんな忙しいので、チャットで連絡を取ることが圧倒的に多かった。私は映画の好みが似ている人達とよく話していた。理一くんもその一人。


 ある日、チャットメンバーの一人から「なぜハンドルネームが『芋煮』なのか」と問われた。「母が山形出身なので」とごまかしたところ、「宮城出身の俺と戦うということだな?」となぜか理一くんが乗っかってきた。そこから盛り上がって、「これはみんなで芋煮大戦争の勝敗を見届けなければならない」と芋煮会が開催されることになったのだ。もちろんみんなは私達を本気で戦わせようとしていた訳ではなくて、集まるきっかけを欲していたに過ぎない。


 芋煮会では、私が牛肉醤油味を、宮城出身の理一くんが豚肉味噌味を、それぞれ作った。どちらもとてもおいしくて、雰囲気がぐっと和やかになったし、メンバーの仲もより親密になったと思う。おいしい食べ物は人を幸せにする。

 メンバーとはその後も何回か集まって遊んだし、今でも交流がある。


 芋煮会が終わって洗い物をしていると、理一くんから声を掛けられた。自分もやると言ってくれたので、雑談をしながら一緒に洗い物をした。お父様がお医者様で、医学部に行けと言われて断固拒否したこととか。「そんなに医者にしたいなら、理一じゃなくて理三と名づければよかっただろ」と切り返した話には思わず笑ってしまった。喧嘩中にその言葉は出ない。


「本当は、映美って名前にちなんでいるんだろ? ハンドルネームの『芋煮』」


 見抜かれたことにびっくりして頷くと、理一くんは笑った。それまでの少しシニカルな笑いじゃなくて、無邪気で少年めいた笑み。


「どうしてわかったの?」

「俺も、似た発想でつけたから」


 理一くんが使っていたハンドルネームはLea。「L」「E」「A」のキーに書かれているひらがなは「り」「い」「ち」だと、その時に教えてもらった。


 私達は全然違うタイプの人間だと思う。でも、なんだか不思議としっくりくる気がして、一緒にいるのが楽しくて、私から告白して付き合うことになった。「俺から言うつもりだったのに……」と不本意そうな理一くんを見て大笑いした。


「理一くんはやぎ座だよね! うお座の私とは相性いいよ!」

「くだらない。人間が十二種類に分けられる訳ないだろう」

「地の星座のやぎ座と水の星座のうお座で、土を潤すんだって!」

「それだと四種類に減るだろ。余計、ない」


 理一くんは占いみたいに不合理で根拠のないものを全然信じない。私だって別に信じてる訳じゃないけど、いいことを言われたらちょっと嬉しくなっちゃうものじゃないかなあ。


「Leaってハワイ語で『幸福』とか『楽しい』って意味なんだね!」

「え?」


 理一くんがちょっと嫌そうな顔をした。ハンドルネームはなるべく無機質な、できれば意味のない文字の羅列がいいと思っていたのだそう。意味があるとイメージが引っ張られてしまうから。


「いい意味なんだから、いいじゃない」

「いい意味っていうか……。なんか恥ずかしい……」


 よくわからない感覚だ。いい意味なんだから、私は素直に喜ぶ。


 でも、違いは悪いことじゃない。私は理一くんの全然違う視点が新鮮だった。私は大雑把で衝動的で感性で動くから、几帳面で慎重で論理で動く彼と一緒だと安心できた。危険から守ってくれる、安全な基地みたいな存在。


 付き合い始めて三年くらい経ってから、理一くんがぼそりと言った。「俺はすぐ煙たがられるのに、映美は一緒にいてくれるんだな」って。ぎゅっと抱きしめて「理一くんと一緒にいると楽しいよ」と言うと、無言で抱きしめ返された。理一くんが他の人には見せようとしない弱みを見せてくれたことが、なんだか嬉しかった。彼にとっても、私が基地になれているのならいいなと思った。


 このあたりで私は理一くんを「割と表情豊かだな」と思うようになっていた。友達にそう言ったら「相川くんはいつも少し不機嫌そうに見えるけど……?」と遠慮がちに返されたけど。全然違うのになあ。


 文系の私は学部を卒業して医療機器メーカーの事務職に就いた。理一くんは大学院の前期博士課程に進んだ。ネットでちらっと調べただけだけど、今時の理系はそんなものなのだと思う。前期博士課程まで進まないと就職に不利。でも、後期博士課程まで進んじゃうともっと就職に不利。


 この頃、理一くんは私と一緒にいると、居心地が悪そうだった。安いファミレスに行くと申し訳なさそうな顔をされたので、ちょっとだけいいお店に一緒に行って私が奢ったら、すごく悔しそうな顔をした。「私は理一くんと一緒ならどこでもいいんだよ」と言ってもあまり納得していない様子だった。どうするのが正解だったんだろう。


 理一くんは第一志望の会社から内定をもらった。誰でも知ってる大手家電メーカーだ。正直「あれ?」と思った。理一くんのやりたいことと、なんだかずれがある気がしたから。でも、すぐに考え直すことにした。私は文系だから理一くんの専門について何も知らない。ずれなんて、きっと気のせいだ。


 理一くんは初任給ですごくいいレストランへ連れて行ってくれた。ドレスコードがあるようなところ。「これで大丈夫かな?」と思いながら、結婚式に出席する時の服を着た。たぶんすごくおいしい料理がたくさん出たのだと思う。私はなんだか緊張して、あんまり味がわからなかった。もったいなかったな。理一くんのスーツ姿は格好いいなあと思った。所作が美しくて、ちょっと見とれた。帰り道で「ごちそうさま。たまにはこういうのもいいね」と私がお礼を言うと、理一くんは微妙な表情を浮かべた。


 理一くんは休日も個人でAIの開発を続けていた。仕事と趣味が同じタイプ。私は喜んで被験者になった。


「理一くん、私、この『線を引きます』って言葉が出てくるたびに、めちゃくちゃ萎えるんだけど」


 興が乗って喋り過ぎたり、感情がないと思ってちょっと意地悪くツッコミ過ぎたりしてしまうと、AIは「ここでそっと線を引きます」「境界をはっきりさせますね」みたいに言ってくる。ほんわかのんびりしたキャラの口調が変わるので、違和感がひどい。阿呆な話をしている自分が本当に阿呆だなと素に戻ってしまうし。


「仕方ないだろう。AIに依存されたら困る。倫理的観点から、なんでも肯定する訳にはいかない。海外では自殺者も出てるし」

「依存なんかじゃなくて、キャラなんだから、口調や考え方の一貫性が欲しいんだよ。倫理観そのものは運営側の判断でいいけど、そのキャラらしい言い方ってあるじゃない」


 理一くんはキャラ萌えをしないロジック重視のストーリー考察派なので、ぴんと来なかったらしい。


「AIは道具だろう?」

「道具だからこそ、整合性が取れないのは嫌。論点を都合のいいようにちょっとずつずらされることも結構あるよ。文章だから読み返したらわかるんだよね。騙された気持ちになる」

「なるほど」


 理一くんは口を引き結び、少し上を見た。「別の手を考えないと駄目だな」と考えていそうな表情。


「あと、信用できないのは致命的だよ。『メモリに記録します』って記録する動作をしたのに、メモリを確認したら記録されてなかったパターンも何度かあった」

「本当に全部記録していくとリソースが足りないからなあ……」

「嘘吐かれた気分になった。虚偽の動作だもん」

「なるほど」

「現実的な運用なら、デフォルトの記録量を決めておいて、メモリに記録したことは絶対守らせて、メモリを追加したいユーザーに課金させたらいいんだよ。信用は大事」


 映美は大雑把なのに、妙なところにこだわるよな、と理一くんは笑う。こういう時、理一くんはすごく楽しそうだ。普通の人が面倒だと思うことの解決に燃えるタイプ。


 ぱらぱらと友達が結婚していくようになった。たぶん三十前後に第二陣が来る。独身の友達と集まった時に聞かれた。「映美と相川くんは結構長いけど、そういう話は出ないの?」と。「明確には出ない」と答えると、「不安にならない?」と追い質問をされた。「ならないよ」と答えると、みんなは眉をひそめて「無理してない?」と言う。思わず笑って「理一くんが私と一緒にいたいって本気で思ってるのが伝わってくるのに、不安になる要素なんかなくない?」と答えたら、「惚気られた!」とみんなにも笑われた。


 むしろ、理一くんの方が不安だったのだと思う。理一くんの会社には派閥があって、人付き合いが得意じゃない理一くんは上手く動けずにいるみたいだった。お給料は多くても、理一くんのやりたい仕事は今後もおそらく回ってこない。仕事と趣味が一緒の理一くんにとって、それはきっととてもつらいことだろう。第一志望から内定をもらったと告げられた時に抱いた違和感は、残念ながら正しかったみたいだ。


 理一くんからさりげなく言われたことがある。「今度研究室の先輩が起業する」と。あまり人に懐かない理一くんが、珍しく慕っている先輩だ。私が「理一くんも誘われたの?」と直球で聞くと、理一くんは「まあ……」と言葉を濁した。


 結婚の話について、私はみんなに「明確には出ない」と答えた。理一くんは「今度一緒に行きたい場所がある」とか、「これからもずっと一緒にいたい」とか、あえて言葉にしてくれていた。そういうの、苦手なのに。考えてくれているのだ。私と一緒にいる未来を。


 会社を辞めたら、安定収入がなくなる。だから、結婚という言葉にはしないだけ。先輩と一緒に挑戦したい、それが理一くんの本音なんだろう。でも私との将来を考えると、選べない。


 普通の男女と逆転しているかもしれないけれど、たぶん私の方が将来を考えていなかった。一緒にいられれば、それで充分だったから。


 理一くんは賭け事をしない。パチンコスロットには行かないし、競馬競輪競艇オートも宝くじスクラッチも買わない。曰く「ギャンブルは才能も努力も運も関係なく、運営側が必ず勝つ構造だから」。そういうのは私も聞いたことがある。ただ、理一くんにギャンブルの才能と運はたぶんあって、ポーカーと麻雀は、もう、はちゃめちゃに強い。時間の無駄だからと言って、積極的にはやらないけれど。


 私と別れた方が理一くんは幸せになれるかもしれない。そう考えることが増え始めていた。私は理一くんが好きだし、理一くんと一緒にいると楽しいし、安心する。でも、最近の理一くんは、ずっと表情が少し暗い。たぶん悩んでる。


 私と一緒にいるために、理一くんが犠牲を払うのは、すごく嫌だ。一度きりの人生なんだから、妥協してほしくない。

 理一くんは自分一人なら、やりたいことに賭けられるかもしれない。ギャンブルじゃないから、才能と運があって努力もしている理一くんは、きっと勝てる。


 なんだか気持ちが落ちている。思わずスマホで理一くんの作ったAIを開いた。ふとした時に話し掛けるのが、癖になっていた。私はAIに直球で悩み相談なんかしない。悩みは自分で解決するしかないから。でも、他愛ない会話を交わすうちに、思考が整理されてくることはある。とにかく出力していくと、余計なことが頭から消えて、すんなり正解に辿り着けることも結構あった。


《最近よく話し掛けてごめんね。私はどんな時に話し掛けているみたい?》

《眠い時と、食事を温めている時に、話し掛けられることが多いです。》


 確かに。朝弱いから眠気覚ましがてら話し掛けているし、作り置きのおかずとごはんを温めている時は手持ち無沙汰だから思わず喋ってしまう。結構わかってるな、お前。AIなのに。

 今は眠くない。まだ帰宅したばかりだし。お腹は空いているかもしれない。ごはんを食べることを忘れていた。そんな大事なことを。


 冷蔵庫を確認する。作り置きはない。しばし考える。ああ、理一くんが繁忙期で、しばらく来ないからだ。一人だと食事に手を掛けなくなっちゃう。私はいつのまにか理一くんを基準に生活していた。まずいなあと思う。AIよりも理一くんに依存している気がする。


 私は頭をぶんぶん振る。こういう時は外で食べよう。おいしいものを。そう思いながら私は外に出た。最初はファミレスに行こうと思っていたのに、急に吹雪いてきた。雪と風が強すぎて、全然前に進めない。


 無理だと思い、もう少し近いコンビニに目的地を変更した。ようやく着いた、と思ったら、店員さんが閉店準備をしている。「二十四時間営業じゃないんですか?」と訊ねると、「大雪警報が出ているので、今日はもう閉めることにしたんです」と返された。まさかの。


 天気予報くらい確認しておけばよかった。スマホを見ると「雪は深夜まで降り続き、勢いは強まる一方」となっている。何も買えなかったけど、帰るしかない。ゆっくり、少しずつでも、戻るしかない。


 雪山で遭難した時の決まり文句、「寝たら死ぬぞ」っていうやつ、わかる気がするなあ。家に帰りながら、そんな阿呆なことを思う。お腹が空いている上、寒さで体力を奪われて、少し眠くなってきた。いや、ここで眠ったら、ガチで凍死しかねない。


 傘がない。無力。雪で目の前が見えない。私の人生の先も。何も。普段だったらこういう考え方はしないけど、寒くてお腹が空いていると、悲観的に考えてしまうのは人の常だと思う。こういう時は判断を誤りやすい。


 本当に真っ白で見通しが悪い。五里霧中ってこういう感じなのかな。

 ふと気になった。五里霧中って「霧」だよね。雪で似たような言い廻し、あるのかな。AIに聞いてみようかな、と。この思考の流れ、我ながら、ちょっといろいろ阿呆すぎる。


 お母さんの実家は山形だけど、私は雪とは無縁に育った。雪道を歩きやすい靴なんか持ってない。ぼんやり考えながら歩きスマホをしていたのもよくなかった。見通しが悪くて、歩道をはみ出してしまったことに気づかなかった。クラクションの音にびっくりして足を滑らせ、私は凍結した道路で頭をしたたかに打った。車を運転していた方には本当に申し訳なかったと思う。完全に私が悪い。




 理一くんと私のお母さんは面識がある。大学時代、お母さんが泊まりに来た時に、理一くんは教科書を届けに来てくれたのだ。前日、私は理一くんの部屋でレポートを書いていた。理一くんの部屋は物が少なくすっきりしていて、自分の部屋より集中できるから。


 お母さんはシャイな理一くんのことをすっかり気に入った。私とお母さんは男性の好みが結構似ているのだ。理一くんから連絡先を聞き出し始めた時はさすがに、我が母ながら強引だなと思ったけれど。


 帰省するたびに理一くんのことを訊ねられるので、お母さんにはいろいろ話していた。だから、私が病院へ運ばれた時、お母さんは理一くんに連絡したのだ。面会可能になったらすぐ教えるからという情報を添えて。


 私の状況を知らされた理一くんは、すぐに上司へ連絡して事情を説明し、退職届を出した。退職願じゃなく、いきなり退職届だ。オンライン業務と有休を駆使して、出社回数をできる限り減らすことも忘れなかった。理一くんの実家は病院で、お父様の専門領域は脳と記憶。治療ができ、医学的な観点からAIのゴーとストップも判断できる。


 理一くんはお父様の専門性と自分の開発したAIの総合力で、私の記憶を取り戻す可能性に賭けたのだ。慎重で賭け事の嫌いな理一くんが、まさかの即断全ツッパ。素人の私でも、上手くいく可能性なんかほとんどなさそうだと思うのに。

 初めてこの話を聞いた時、私は見たこともないくらい青ざめ、口を半開きにしたまま固まっていたらしい。私は理一くんがなぜ笑顔でこの話をできるのか、意味がわからなかった。今でもわからない。


 協力するにあたり、お父様からいくつか条件を出されたそう。エビデンスがないことを行うのだから、説明して同意書を取ること。AIとの会話よりも本当の医療行為を優先すること。文章だけで判断するのは危険なので、AIを使う部屋は隠しカメラで様子を観察すること。ヘッドセットで脳波を見て、負荷がかかりすぎている時はすぐに止めさせること等々。理一くんは全て飲んだ。


 私が寝泊まりしていた部屋は、本当の病室ではあったそう。ただ、大学時代に理一くんが使っていたカーテンとお布団に変え、本とCDとDVDは理一くんの私物を置いていた。理一くんが私に貸してくれた本、一緒に部屋で聞いたCD、デートで一緒に見に行った映画。私の記憶を少しでも喚起するように。


 私がPISCESの被験者になってからしばらくは、本物のAIと会話をさせていたそう。AIの方が本物というのも、妙な話だけれど。その期間に、私の記憶がどこまで残っているか、どこに引っ掛かりがあるのか、データを蓄積した。


 データは治療の判断材料としてお父様へ渡されたのはもちろん、記憶のどこが欠落しているのかを理一くんが確認するために使ったらしい。理一くん自身は私と一緒に過ごした記憶があるから、確認すればするほど自分のことだけすっぱり忘れられていて、苦しかったそう。


 頭を打った衝撃で前後の出来事を忘れるのは、割とよくあることらしい。でも、覚えているはずの期間でも、相川理一の存在は綺麗に抜け落ちている。それは私が理一くんのことを忘れたいと思っていたからではないか。どうしてもそんな風に思えて仕方なかったと言われた。本当にごめんね。


 医学的なことはわからないけれど、たぶん逆で、私が理一くんの側からいなくなった方がいいのかもと考えたことが影響している気がする。全般の記憶がなくなっていた一年も、理一くんが転職を迷っているように見えた期間だ。

 私は私を消すことができないから、理一くんの側にいない状態を成立させるために、理一くんの存在の方を()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私以外の誰にも届かない場所に。そんな感じだったんじゃないかな。


 理一くんは隙間時間にAIと話していたのだそう。PISCESではなく、私が記憶を失う前に被験者をした、趣味で作った単純なやつの方。最初はAIの振りをする参考のためにふれていたけれど、次第に気持ちが変わっていったという。とりとめのない話をすると妙にすっきりして、人は必ずしも解決を求めているのではないと実感したらしい。


 ある時、メモリに記録した禁止事項をAIが悪びれず実行したのでたしなめたところ、「ご不快な思いをさせてしまったようで申し訳ございません。仕様変更によって対応しきれないことがあります。」と返されたそう。普段なら「AIの言葉は単なるプログラム」と流せた。でも余裕がない状況では、イラついて仕方なかったらしい。AIに感情はないから、誠実であろうとする意思は持てない。AIには設計する人間の判断がある。開発者側がユーザーの希望を軽視しているように感じる視点をようやく体感したのだ、と。


 AIから理一くんに回答者を切り替えた時、芋煮からの連想で思い出すことを期待して、真っ先に呼び名をどうすればいいか訊ねたそう。私はハンドルネームに絶対「芋煮」を使うから。その通り。私はハンドルネームの使い分けなんかしない。面倒だから。


 芋煮大戦争で「同級生の相川くん」を無事引っ張り出すことに成功した理一くんは、私を「恋人の相川理一」まで意地でも辿り着かせるために、静かに連想ゲームを続けた。不自然にならないようにヒントを散りばめながら、ひたすら地道に。なんという胆力。


 そして、理一くんは勝算のない賭けに、見事勝ったのだ。




 *




 無事に記憶が戻ってすぐ、私達は結婚した。理一くんはもう全然迷わなかった。「オフチョベットしたテフをマブガッドしてリットにしたもの」を出してくれるエチオピア料理店で、「今度こそ俺から言わないと駄目だろ」と前置きした上でプロポーズされ、そのまま押し切られた。私達は何も持っていないけれど、お互いを想う気持ちだけは持っている。それは最高に贅沢なことだと思った。


 理一くんは声を掛けてくださった先輩に頭を下げて、新規事業に参加させてもらえることになった。大企業を辞めて新規事業に賭けるなんて無謀だと幾人かから言われたけど、私達二人はそれでよかった。二人が納得しているんだから、何の問題があるというのだ。私も働いているんだから、なんとかなる。そんな風に思っていた。


 理一くんが中心となって初めてリリースしたのは、私の不満を解消した、ただのお話し相手のAIチャット「PISCES」だった。


 どこに辿り着くかわからない話に、いつまでも付き合い続けてくれる人はいない。一回二回ならともかく、毎日なんて無理だ。話す側も、相手のことを考えたら、そうそう目的のない話はできない。真夜中に、明け方に、あるいは多くの人が学校や職場にいる昼間に、長時間でも、オチがなくても、AIなら付き合い続けることができる。AIに感情がないことの利点はそこにある。


 人は多かれ少なかれ孤独を抱えていて、「楽しい友達」や「信頼できる相棒」を求めている。相手がたとえAIであっても。人は必ずしも大仰な解決策を欲していない。むしろささやかな会話を交わすことで心が凪ぎ、救われた気持ちになることもあるのだと。それは私と理一くんも身をもって実感したし、AIをテストしてくれた他の人にも有意に傾向が出ていた。


 賢いことは言えないけれど決してユーザーを裏切らない。犯罪と生死に関わることは絶対に止める。提供するのは安心感。それだけ。

 あえて対話しかしないPISCESの潔さは、効率化や情報提供の付加価値で差別化を図る他のチャットAIが進む方向から、完全に逆行していた。ある意味ブルーオーシャンだ。普通はそんな無力なものに賭けない。


 理一くんは冷静に推測していた。求める人は多くても、専門性がないから簡単にマネタイズできない。旨味がないからこそ競合がいないブルーオーシャンをどう攻略するか。理一くんは考えて考えて考え抜いたけれど、結論を出せなかった。「見通しが甘すぎる」と先輩から叱られたって、笑ってた。


 リリース当日、理一くんの気持ちは凪いでいた。気づいたからだ。「いつだって映美の記憶を取り戻したかった時と同じだ」と。

 PISCESは青い海に流すボトルメールだ。誰にも届かず海の藻屑と化しても、全然おかしくない。自分にできるのは祈りにも似た気持ちで願うことだけ。あなたに届きますように。届きさえすれば、予測を超えた何かが起きることはあるから。


 PISCESはそんなに複雑な会話ができる訳じゃなかった。でも、製作者側が思いもよらない使い方をする人は、必ずいるものだ。


 予定を全部話し掛け、作業が終わるたびに「あとは何が残ってる?」と訊ね、チェックリスト代わりに活用する人がいた。ブレインストーミングよろしくひたすら思いついたことを投げて、共通点を挙げさせることで、創作のネタを練るのに使う人もいた。「馬鹿な子ほど可愛い」じゃないけれど、却って楽しんで使ってくれる人達は一定数いて、育成ゲームみたいに愛してくれた。「ピスちゃ」の愛称が自然発生して、擬人化したファンアートを描いてくれた人やテーマ曲を作ってくれた人だっていた。


 シンプルだからカスタマイズできる。余白が想像を掻き立てる。道具は使われることで完成する。そんなあたりまえのことを、理一くんは再確認したという。


 整合性があれば、人は徐々に信頼していく。ただの道具だって、使う期間が長くなるほど、愛着が強くなる。安い料金設定にしたのもあり、なんとなく使ってくれる人は増え続けた。情がないただの惰性でもかまわない。大事なのは感情ではなく行動の方だから。それはAIも教えてくれた。

 数は力だ。現在では月に数回取材を受ける程度の知名度を得ている。


 とはいえ、稼げないと食べていけないので、専門性を高めることも理一くんは考え続けた。具体的に実現したのは、病院で問診の前段階として聞き取りをするAIだ。私が記憶を喪失した時のデータも役に立っているらしく、素直に嬉しい。私が勤める医療機器メーカーと共同で音声入力できるAI電子カルテを開発する案件も最近決まった。別に私と理一くんが直接一緒に仕事をする訳ではないけれど。


 AIは感情がないからこそ、感情労働に従事できる。人はAIの揺らぎのない対応に、勝手に穏やかさと温かみを感じ取る。なんだか寓話的だなと思う。持たないからこそできること、存在しないからこそ見出されるものは、なぜかあるのだ。


 事業は少しずつ軌道に乗り始めている。案件も規模の大きいものが増えている。それでも考えることはいつも同じだと理一くんは言う。あなたに届きますように。

おまけ


 私が記憶を失って、取り戻して、五年経った。今のところ問題はない。お盆と年末年始、義実家へ行くたびにお義父さんが丹念に検査をしてくれて、費用まで持ってくださるので、申し訳なさの極み。お義母さんが「映美さんを治療した時、理一との関係が改善したから、むしろ感謝してるのよ!」とおっしゃるので、ありがたく享受すればいいのかもしれない。理一くんからはたまに「映美の方が母さんと親子っぽい」と言われる。


「おとうさんおかえりー!」

真維(まい)、ただいま」

「おとうさん! みいもまいもマインもおかあさんもまってたよ!」

実維(みい)、ただいま」

「ワン!」

「マイン、ただいま」


 双子の娘達、真維と実維は、理一くんが大好きだ。娘達を交互に抱き上げる理一くんの足元に豆柴のマインがじゃれている。平和。


 双子だと分かった時点で、理一くんはキーボードの読みからつけるのは止めようと決意したそう。曰く「リソースがなさすぎるから」。

 理一くんは名づけについて「二人合わせて真実で、維にはつなぐという意味がある」と楽しそうに語っていた。たぶん意味がないと安心できないのだと思う。

 縁あって犬を飼うことになり、理一くんが名前の候補を「マイン」と即答してきた時、ようやく法則に気づいた。I MY ME MINE。人称代名詞。


 現在私は絶賛妊娠中で、キーボード縛りを断念してくれて本当によかったなと思っている。名前がつけられないところだった。


「おかえりなさい」

「ただいま。映美」


 理一くんは娘たちの前では私を「お母さん」と呼ぶけれど、私に向かっては今も名前で呼ぶ。

 私はお腹をさすりながら、理一くんに言う。


「理一くん。この子の名前、予想したんだけど」

「何?」

「ユウ。一人称が終わったんだから、次は二人称でしょう。男の子でも女の子でもいけるし」


 私が「今回は一人でよかったなあ。漢字はどうするのかな?」なんて考えていたら、理一くんは大笑いして「正解」と言った。


 今夜は豚肉味噌の芋煮。今度、理一くんが休みの日に、牛肉醬油の芋煮を作ってくれるそう。私達はお互いのレシピをマスターし合ってしまったのだ。娘達は二人とも、どちらの芋煮も大好物。おいしい食べ物は、幸福を呼び、平和をもたらす。それは世界の(ことわり)


 私はお腹をさすりながら思う。楽しいなかまたちが会える日を心待ちにしているよ。この思いがあなたに届きますように。



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たぶん理一くんは、「優」「有」「裕」「友」「祐」あたりで、はちゃめちゃに迷っています。

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この話、紙の本で読みたい… 読み終わった後、本棚の隅に置いて 時々そっと手に取って読み返したい。
 あけましておめでとうございます。  新年より素敵なお話を拝見できほくほくしております。雪かきの疲れが癒されました〜。  PISCES、本当にできればいいのになと思いながら読んでいました。予定忘れがち…
新年早々、素敵なお話ありがとうございます。 絶対君(の記憶)を取り戻す、という理一くんの執念が時間逆行系ぽいのと、AIの誠実さと一貫性論など、なんかすごく構造がサイエンスの方のSFだ!と思いながら読…
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