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【アップ】2025年9月7日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります☕️

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(星のカケラ)

https://www.youtube.com/@%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B1%E3%83%A9-v5x/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782



【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪



【本日のメッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=cuJHx3DLeiw


聖書


『使徒行伝』(第二三章六〜一一節)

『詩篇』(第一一〇篇一〜七節)


讃美歌〜♫


讃美歌298番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=oMf5Mrw8ibA&pp=ygUP6K6D576O5q2MMjk455Wq


讃美歌163番

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=zJ2Q5ijpzuU&pp=ygUP6K6D576O5q2MMTYz55Wq



2025年9月7日 礼拝説教 聖書箇所


「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」

使徒言行録23章6節


主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。

詩編110編2節


はじめに

神の平和は、わたしたちの心と考えを主によって守る(フィリピ4章7節)を知る。

「さらにパウロは、議員の一部がサドカイ派、他がファリサイ派であることを認めながら、議会の中で呼びかけた。」ローマの官憲(千人隊長)により、最高法院での弁明の機会が与えられ、誠実に自身の証をしようとしたパウロを大祭司アナニアがその口を封じるように命じながら、パウロもその偽善を明らかにした。パウロは、ここで、これ以上の弁明を求めることを避け、かえって、議会からの脱出を求める言動を取る。その一つの手段が、以前の自分と同じ立場であったファリサイ派の者たちに訴えることであった。「諸君、兄弟たち、わたしは、ファリサイ人であり、ファリサイ人の子です! わたしは、死者が復活するという希望のために、裁判を受けているのです!」と。「パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間で論争が生じ、会議(の一群)に亀裂が生じた。なぜなら、事実、サドカイ派は、復活も、天使も、霊も存在しないと言い、一方、ファリサイ派は、そのいずれをも認めているからである。」主イエスは、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種(教えの事)に注意しなさい」(マタイ16章11節)と命じられた。復活の主イエスを知ることは、復活の希望を確証する。あえて、この時は、パウロは、主の復活ではなく「復活の希望」と伝えた。

「そのとき、叫び声はさらに大きくなり、一部のファリサイ派の律法学者たちが立ち上がって、切り込んでいった。『この人には、何の危険も見当たらない! さもなくば、おそらく、霊か、天使が、本当に彼に話しかけたのだ!』」ファリサイ派の律法学者たちが、突如、パウロを擁護した理由は、サドカイ派への対抗心ゆえに、同調者とみなす者を大きく扱いたかったものと思われる。もしくは、一見すると、パウロの教えが、自分たちの教えを同じなので、自分たちの身を守るためにそうしたのかもしれない。いずれにしても、復活の教えの有無は、ファリサイ派とサドカイ派にとっては、決定的で根本的な教えの相違であったので事態は更に動く。「これに対して、大論争が生じたので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれるのではないかと危惧し、兵卒たちに、降りて行って彼らの間からパウロを力ずくで捕らえ、兵営に連れて入るように命令した。」官憲によって監視された会議は、官憲の手によってパウロを再び兵営に連れて入ることによって終結する。

「夜になって、主が、パウロに臨みそばに立って言われた。『しっかりしなさい。あなたは、エルサレムでわたしについて一貫して証言したように、ローマでも証言しなければならない。』」使徒パウロにとって、かつてのファリサイ派の教えを引き合いに出すことは、ある屈辱を伴ったことが想像される。しかし、復活と昇天(着座)の「主」は、パウロに臨みそばに立って力づける。主は、パウロのエルサレムでの証言を受け入れられた。それは、パウロの思いからすれば、言葉足らず、不十分であったかもしれない。しかし、「主」は、それを十分とされ、ローマでの証言に至る道を備えられる。不一致の中で守られたものは、事実、パウロの命であり、さらなる、主の選びの器とされた、パウロの召命を果たすためであった。

おわりに

詩編110編により、主は、ファリサイ派の人々に「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのか」と問い(マタイ22章43節)、使徒たちは、聖霊降臨の日に、十字架のイエスを「神は主とし、メシアとされた」と証言した(使徒2章34節)。わたしたちは、ここに、生ける主の証言を聞く。復活の主を証言する根拠は、ただ御言葉の内にある。



(Mynote)


二〇二五年九月七日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

※本日は聖餐式の日である。

(子供メッセージ)

『スコットランド教会新カテキズム』

「キリストに結ばれて居る、選ばれた一つの群れを、あなたはどの様に呼んで居ますか」

「聖なる公同の教会と呼んで居ます」

イエス様はこの事に就いても全ての人に教えた。羊飼いの話。羊飼いは門から群れ呼ぶと、羊はその羊飼いに付いて行く。その羊飼いの声を知って居るからである。だが、その羊飼いではない他の人が同じ様に呼んでも、羊は付いて行かない。その人の声を知らないからである。この「違う声の人」とは邪教を崇拝する者であり、正しい信仰の門ではない。イエス様こそが唯一、正しい信仰の門である。

(公同礼拝)

『使徒行伝』(第二三章六〜一一節)

『詩篇』(第一一〇篇一〜七節)

この『使徒行伝』の箇所では、パウロの信仰が試される場面と経過が示される。同じく『詩篇』のこの箇所では、神様が信仰を正しく持つ者に対し、どの様に信仰の道を守るかを確約する形で示される。

パウロが裁判に掛けられたその議場には、パリサイ派とサドカイ派の人々が居た。共にパウロの裁判に携わり、パウロのその後すぐの定めを現実に於いて決める立場に在る。

そしてサドカイ派の人々は、復活とか天使とか霊とかは、一切存在しないと言い、パリサイ派の人々は、それ等は、みな存在すると主張して居る。

そこでパウロは、

「兄弟達よ、私はパリサイびとであり、パリサイ人の子である。私は、死人の復活の望みを抱いて居る事で、裁判を受けて居るのである」

と言った。これはおそらく場面の流れから、パリサイ派の人々に向けた言葉で、弁護と寛容を望んだ故の言葉だったか?

そのパウロの言葉を承けてパリサイ派の人々は、

「我々は、このパウロには何も悪い事が無いと思う。或いは、霊か天使かが、彼に告げたのかも知れない」

と応える様に言った。この言葉を当然サドカイ派の人々も聞いて居り、こうして、争論が激しくなった。これを見て千卒長は、パウロが彼等に引き裂かれるのを気遣って、兵卒共に、降りて行ってパウロを彼等の中から力づくで引き出し、兵営に連れて来る様に、命じた。

パウロはそれ迄に、大祭司アナニヤから「パウロの口を打て」と言われ、何も言う機会を与えられなかった。そこでパウロは、

「白く塗られた壁よ、神があなたを打つであろう。あなたは律法に従って、私を裁く為に座に就いて居るのに、律法に背いて、私を打つ事を命じるのか」

とそれでも語り、そばに立って居た者達から、

「神の大祭司に対して無礼な事を言うのか」

とやはり叱り付けられた。この時のパウロには、公式な証言をする権利が与えられず、この時の言葉も殆ど聞いて貰えなかっただろう。

この流れから見るサドカイ派とパリサイ派に別れた議場の経過であり、パウロはどうしようも無いその状況から「何とか逃れなければ」と言う衝動が人として働いた可能性は大いにある。詰りパウロも人であり、唯一、救い主であるイエス様ではないと言う事。どの預言者や福音者(信仰者)でも、その信仰の歩は、唯一誠の救い主であるイエス様に付き従う事に在る。

しかしこの時パリサイ派の人々が主張する「復活」とは、正しい信仰から出て居ない可能性も窺える。それは人の思考から出た復活で、即ち、罪人である人の罪の内から出た「理想付きの復活」(夫々のパリサイ派の人々の主観により脚色された復活の在り方)である可能性は否めず、又、この様な合理・理屈により誰かを裁く議場である為、人なりの説明・解釈による「復活」への主張にり変えられる経過と見取れる。

次の箇所に在る、

「その夜、しゅがパウロに臨んで言われた、『しっかりせよ。あなたは、エルサレムで私の事を証した様に、ローマでも証をしなくてはならない』」

と言う神様、イエス様からパウロに語られた内容を見る限り、やはりこの場面でパウロが、パリサイ派の人々に寄り添う事で許容を求め、人の疲れによる信仰への鈍りがあった事も認められる。

パリサイ派の人々は「復活とか天使とか霊はみな存在する」と言う点でパウロに同調しただけで、その他の信仰の内容・在り方に就いてパウロに同調した訳ではない、この点にも注目が必要である。パウロはパリサイ派の人々に同調する形で、その場の争い(自分に降り掛かった難儀)を納めようとした。これに対する、神様、イエス様からの箴言が(その夜に)パウロに臨んだ。

『詩篇』の箇所を読むと、常に正しい信仰に歩み、神様の事、イエス様の事を大胆に伝え、必要な事だけをして居れば、あとは神様がその信仰者クリスチャンの周りを全て整えて、その信仰者を守る、事を教えて居る。

この「しっかりせよ」の言葉には「勇気を持て」と言うイエス様からの励ましが含まれており、エルサレムで大胆にイエス様(唯一の救い主)の事を多くの人々に伝え歩いて居たその時のパウロを、もう一度思い出し、その通りに信仰に歩む事を教えて居る。

今でもイエス様は、全ての信仰者にとって唯一の救い主として、共に居て下さる。無論パウロだけでなく、同じく福音に生かされた(遣わされた)イエス様の弟子達だけでなく、聖書に登場する全ての預言者だけでなく、現代(今)を生かされる全ての信仰者と共に居て下さり、この時パウロを励ました様に、力強く励まして下さって居る。この真実を、全ての信仰者は憶えねば成らない。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?v=MCyjy8BuIIw&t=2s


「SEIZE THE DAY / 今を生きる」

https://www.youtube.com/watch?v=A7Aobi9nmWM


イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)

https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin


星のカケラ

https://www.youtube.com/@%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B1%E3%83%A9-v5x/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)


少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


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