4.運命を歪める者(2)
少しずつギーの死から立ち直りつつある頃に、再びそれは起こった。
寝付きの悪いじめじめとした夜に、セストの母親が事故で死ぬ未来が視えたのだ。
そこは町の中心部に位置する大通りだった。石畳の広い道沿いに、食料品や衣料品、細々とした日用品を売っている店が立ち並んでいる。
大通りの突き当たりにある広場では、大きな天幕を張った演劇や、音楽隊が野外で演奏を行うこともある。
たくさんの人々が行き交う土砂降りの道を、暴れ馬が雨水を跳ね上げながら爆走している。危ないと叫ぶ声、右往左往に逃げまどう人々と町は混乱に陥っていた。その中にセストの母親と姉の姿もあった。
ふたりは暴れ馬から離れた軒下に避難して、肩についた雨粒を払いのけている。人心地ついて顔を見合わせると、無事であることに安堵の笑顔を浮かべていた。
雨で視界は悪く果たして先が見えているのかすら分からない状況の中、馬はまるで獲物を見つけた獣かのように向きを変えて一直線に駆けていく。
馬の向かう先にいるふたりは、まさか方向を変えて向かってくるなどとは思っていなかったのだろう。雨の音に話し声が遮られるのか、耳元に顔を近づけて何かを話しかけている。
近くで聞こえてきた蹄と水を跳ね上げる大きな音に、顔を上げたセストの母親は驚愕に目を見開いた。
近づいてくる恐ろしいものから娘を庇う格好で前に踊り出たところで、何かがぶつかるような大きな音と、少し置いて何かが叩きつけられるような水音が辺りに響き渡った。
その後に響くたくさんの悲鳴と怒号。走り去る馬の蹄の音。
一瞬にして人だかりができ、その中心に倒れているのはセストの母親だ。
倒れたセストの母親の周りには鮮血が流れている。石畳の溝を伝って赤い水がどんどん広がっていく。
母親に縋り付いて泣いている娘と、心配そうに周りを取り囲む町の人々。人垣をかき分けて現れた町医者らしき老人は、セストの母親を一目見て首を振った。
血に染まって色を変えたブラウスは、彼女が好んで着ていた襟元に刺繍の入ったブラウスだった。
動かなくなった身体を抱き上げ、母親を呼び続けている娘の腕からがくりと頭が垂れた。衝撃で目が開き、虚ろなその視線がラウラを見据えた気がした。
「きゃああっ!」
ラウラは叫び声をあげて、自室の寝台から飛び起きた。
その情景はあまりにも鮮明で、ギーの時に見た夢ととてもよく似ていた。飛び起きたラウラのどこにも血の跡はないのに、血の臭いが鼻の奥に残っている。
「いやぁぁっ!」
「ラウラ! どうしたの?」
娘の声を聞いた両親がラウラの部屋の戸を開けて駆け寄ってきたが、ラウラは泣くばかりで何も口にしない。
泣きじゃくる娘を母親がぎゅっと抱きしめて、震えている背中を何度もさする。父親もラウラに隣に腰かけると、優しく頭を撫で始めた。
「ラウラ、大丈夫よ。怖い夢でも見たのね?」
「ゆ……め?」
「そうよ。ただの夢よ。なにも怖いことは起きないわ」
たとえ両親であっても、夢の話してはならない。未来が視えることが知られると怖い人がやって来る、知られることで周りの人を不幸にしてしまうと祖母が何度も言っていた。
大切な人を巻き込むことはできない。
ラウラは決して人に話してはならないという、祖母との約束を忠実に守ろうとしていた。
「ラウラちゃん、悪夢を見て飛び起きたんだって。それから少し気持ちが不安定らしいわよ」
「夢?」
ラウラが悪夢を見て飛び起きたという話を、セストの母親が世間話の流れで聞いてきた日から、ラウラのおかしな行動が目立つようになった。
「おばさん、今日はどこにも行かないで」
ラウラが普段は言わないような無理を言いながら、出かけようとするセストの母親の足止めをする。それはなぜか、雨の日に集中していた。
「今日は雨が降りそうだから、出かけない方がいいよ」
「おばさん、今日はお家にいようよ」
「大通りのお店の方には行かないでね」
ラウラは出かけようとするセストの母親を、強引に何度も引き留める。
いたずらをしているようには見えず、ラウラがセストの母親を見る時、なぜか何かに耐えているような泣きそうな顔をしていた。それは、申し訳なさそうな、無茶を言っていることを詫びるような表情だった。
困惑した表情を浮かべながらも、セストの母親はラウラの言うこと聞いて何度も出かけることを中止した。
「ラウラちゃん、何かあったのかしらね?」
セストの母親がそう言う心配するくらいに、ラウラの行動は不自然だった。それからも、ラウラのおかしな行動は増えていく。
「ラウラちゃん何かあったの? セストに言いにくいことでもあるならおばさんに言ってごらん」
産まれた時から見ている少女が明らかにおかしな行動を取っている。ラウラに温かい飲み物を出しながら、セストの母親は優しく問いかけた。受け取ったコップは温かく、じんわりをラウラの心を温めてくれる。
「何もないよ」
「そうなの? 年頃になると色々悩みもあるわよね。うちのお姉ちゃんはあんな性格だから、何でも自分で解決しちゃうのよね。ラウラちゃんに何か心配事があるならおばさんに言ってみてね。一緒に考えて解決できるかもしれないわ」
「私おばさんのこと大好きよ」
「ありがとう。おばさんもラウラちゃんが大好きよ」
夢を見てからひと月ほど経った頃、夕食の席で両親が町に暴れ馬が出たと話していた。
パンを食べようとしていたラウラの手が不自然に止まった。それに気づかずに、両親の話は続いていく。
「怖いわね。ちゃんと手綱を捕まえてて欲しいわ」
「誰か怪我したの!?」
「いや、すぐに捕まえたから怪我人は出てないらしい」
固唾を呑んで父親の話を聞いていたラウラは、誰も怪我をしていないと聞いて、緊張を解いた。
「よかったぁ」
町に暴れ馬が出ることなど、そう頻繁に起こることではない。
暴れ馬によって起きる悲惨な未来は回避できたのかもしれない。
そうラウラが考え少しの油断が生まれた頃、やはり未来は訪れた。
◇
その日は暑いくらいによく晴れた日だった。洗濯物がよく乾くと朝からご機嫌な母親に見送られて、ラウラはセストの家へ向かった。
「ラウラ、がらくた屋のおじさんのところに子猫が産まれたらしいぞ。見に行くか?」
「ええ! 見たい」
いつもどおり顔を出したセストの家で、子猫の誕生を伝えられる。ぱあっと顔を綻ばせて笑顔になるラウラに、セストも口元を緩める。
ラウラは動物が好きだ。その中でも子猫が特別なことをセストは知って誘っているのだ。
「猫は構いすぎると嫌われるから程々にね」
「お姉ちゃんも行く?」
まさか誘われると思っていなかったのだろう。姉は目を丸くしたが、すぐにその目は三日月に形を変えた。
「私はいいわ。お母さんとお芝居を観に行くの。王都で流行ってる一座らしいわ」
「おばさんも出かけるの?」
「ラウラは心配性ね。私もいるし大丈夫よ」
「……うん」
今日はあのブラウスは着ていない。少し迷ったラウラだったが、こんな晴れた日であれば大丈夫だろうとセストと遊びに行くことに決めた。
ふたりを見送ったセストの姉は、のんびりと座ったまま動き出そうとしない母親に出かける準備を促す。
「ほら、お母さんそろそろ出かけるわよ」
「もう、せっかちね。ちょっと待って、鞄を取ってくるわ」
母親が奥の部屋へと向かいかけた振り向きざまに、コップを持ったセストの姉と母親がぶつかった。姉のコップから茶が零れ、母親のブラウスがぐっしょりと濡れている。
「あー、ごめん。濡れちゃったね」
「このままじゃ出かけられないわね。着替えてくるわ」
そうして母親は別の服に着替えて、部屋から出てきたのだった。
そのブラウスの襟元には刺繍が施されていた。
その頃、ラウラたちはがらくた屋と呼ばれる日用品屋にいた。
家業を引退して道楽で営んでいるがらくた屋の店主は、朗らかな性格の老人だ。町の子供のことを孫のように可愛がっていて、ラウラやセストも幼少の頃から可愛がってもらっている。
「ちっちゃくて可愛いね」
「三匹も産まれたのか」
「茶ぶちと白の子がいる」
可愛らしい子猫を見ていると、嫌な夢のことを忘れられた。うまく歩くことすらできない、よたよたとした子猫の額を人差し指でそっと撫でながら、この幸せな日常が続くことを願った。
しばらくすると、青空が暗い雲に覆われていくのが小窓から見えた。嫌な予感が脳裏を過るが無理矢理に、気のせいだろうと不安な気持ちに蓋をした。
はっきりと発声できない子猫が掠れた鳴き声を発しながら、ラウラの足を這い上がろうとしている。
ふっと心が癒やされたラウラは老人から渡された山羊の乳を口に含ませる。
そんなゆったりとした時間が流れるその店に、暴れ馬によって犠牲者が出たことを近所の人が告げに来た。
「じいさん、ひどい事故が起きたぞ」
セストも知るその人は、セストの顔を見た途端顔色を変えた。
その顔を見てラウラは起きて欲しくなかったことが、現実となったことを悟ったのだった。
「セスト! こんな所にいる場合じゃないぞ!」
思わず子猫を抱いていた手に力が入ると、子猫は逃げ出すようにラウラの膝から飛び降りた。
◇
セストの母親の葬儀は、新緑の眩しい暖かい日に営まれた。町にあるたったひとつの教会に、母親と親交のある町中の人が参列していた。世話好きで温和な女性だったため慕っている人は多く、誰もが涙を流しながら花を手向けている。
故人を悼んでいる人々を目にすると、ラウラは自分の無能さを目の前に突きつけられるような気持ちになった。
母親の死を受けて、セストが泣いていた。
何でも知っているつもりだったラウラだったが、母親の葬儀の場でセストは今までに見たことがないくらい泣いていた。
「セスト……」
ラウラが泣きながらセストの腕に触れると、苦しいくらいにすがりついてくる。堪えきれなくなったラウラもセストと一緒に声をあげて泣いた。
ラウラにとっても産まれた時から傍にいる、もう一人の母とも言える人だ。ラウラを娘のように可愛がってくれた情の深い人だった。
娘を庇っての死だったため、姉の憔悴は見ているだけで胸が張り裂けそうだった。気心知れている相手であるが故にかける言葉が見つからず、ラウラはふらふらと歩く姉の手をそっと引いた。