11.最後の異変
その日のラウラは、朝から総毛立つような思いがして落ち着かずにいた。
窓から外を見ると雲一つない真っ青な空が広がっていて、気持ちのいい朝のはずだが気分が晴れない。
のそのそと部屋から出て行くと、母親に天気がいいからと洗濯物を干すのを頼まれた。父親の上着や母親の前掛けを飛ばないように布挟みで留めて、空っぽになった洗濯物の籠を部屋に戻す。
「お母さん、干し終わったよ」
台所に行る母親に声をかけるため、ことさらに明るい声を出してみるがどうにも気重なままだ。
「まあ、早かったわね。ありがとう」
心臓の拍動が身体中に響き渡るほどに、どきどきと激しく音を立てている。暑くもないのに嫌な汗がラウラの背中を伝っている。
これがまた未来を視る前兆であることはすぐに分かった。
「またあれを視るの?」
ラウラが視る未来はいつも辛く悲惨なものばかりだ。大切なものが不幸になる瞬間を視ても、何もできずただその無力さを思い知らされるだけ。
半ば呆然と立ちすくんでいたラウラ視界を、辺りが重たい霧が包んでいく。
驚いて目を瞬いたラウラの前には見知らぬ光景が広がっている。
木々が所狭しと生い茂り、道という道のない山中だ。地面には滑りやすい苔や草木が生えており、足場が悪く傾斜もきつそうだ。
突然大きな獣の声が聞こえたかと思うと、牛ほどもある真っ赤な鬣を持つ獣が、跳躍してラウラの目の前におり立った。
大きく開けた口の中には、鋭利な歯が並んでいる。恐ろしさに震えながら、襲われることを覚悟したラウラだったが、当の獣はラウラには目もくれず何かを追いかけて行った。
自分のことが見えていないのことに安堵したラウラは、立ち去った赤い獣を目で追いかける。
暗い山の中でもはっきりと見える赤の色。おおよそ自然界にいるとは思えない派手な色の獣は、山道を駆け巡って大きな岩に着地すると、狙いを定めたようにじっと一点を見つめていた。
あれは普通の獣なのだろうか。
通常獣は外敵から身を守るために、できるだけ自然界に溶け込めるような色をしている。葉っぱや岩に擬態して、捕食から免れようとするものもいるくらいだ。
だが、あの赤の色は目立ちすぎる。
もしかして、あれが魔獣なのだろうか?
その時ラウラが耳にしたのは、何年離れていても聞き間違えることのない愛しい声だった。
考えるよりも先に、声のした方向へ首を巡らせたラウラの目に映ったのは、今まさに赤い鬣の獣がセストに襲いかかろうとしている瞬間だった。
獣はセストの背後に向けて鋭い爪を振りかざすと、そのまま素早い動きで狙いを定めた。
どうにか身をよじり獣の爪から逃れたセストだったが、すぐに獣はセストに向けて飛びかかり、大きな口を開けてその喉元に噛みついた。
しばらくは獣に抗っていたセストだったか、やがてくぐもった声をあげてそのまま動きを止めた。
喉元を食いちぎってセストから跳び去る獣。
弧を描きながら飛び散る鮮血。
糸が切れた人形のように、苦悶の表情を浮かべたまま崩れ落ちていくセスト。
――だめ!
――セスト!!
――死なないで。
「ラウラ、この味はどうかしら?」
ラウラの母親が娘のいる部屋に顔を出したが、そこにラウラの姿はなかった。先ほどまでは確かに声がしていたのにと、母親は首を傾げる。
玄関の扉を開けて外を見るが、そこにもラウラの姿はなかった。しかし、さして心配する様子もなく、その内帰ってくるだろうと考えながらラウラの母親は扉を閉めた。
◇
「セストっ!!」
ラウラの頭を過るのは、町をセストが出ることになったあの日の光景だ。
冷たく接するラウラに傷ついた顔をしていたセスト。
どうして怪我をしないでと、きっと無事で帰って来てと言えなかったのだろうか。
後腐れなく愛する人と幸せになれるようにと言い訳をして、自分が愛してもらえないから、捨てられるような気になってセストを遠ざけただけだった。
もう何も望まないから、どうか死なないで。
誰を愛してもいいから生きていて。
涙を流しながら、何かに掻き立てられるように飛び出したラウラだったが、頬を掠めた冷たい空気にはっと我に返った。
「寒い」
ラウラの吐く息は白く、自宅にいたはずの薄着のラウラは寒さでガタガタと震えている。
「ここはあの山?」
さっき視た白昼夢の続きなのかもしれないとも考えたが、先ほどは感じなかった凍えるほどの寒さが、ラウラにこれは現実だと知らしめていた。
ラウラは自宅庭で洗濯物を干していた。そして、セストが赤い鬣の獣に殺されるところを視て、セストに駆け寄ろうとして。
それからはもう夢中でどこを走ったのかも覚えていない。気がついたらこの場所にいた。
数歩進むと泥濘んだ斜面で足が滑って尻餅をついた。強かに打った場所を撫でながら立ち上がると、白い息を吐きながら少しでも明るい場所を目指して歩き出す。
「セストを探さなきゃ」
ここがセストが襲われた山であれば、もしかしたら助けることができるかもしれない。
空回りするだけで何もできなかった、セストの母親やギーと同じ過ちは繰り返さない。
足下を見ながら慎重に歩を進めていたラウラだったら、平らな足場に下り立って顔を上げた。すると、木々の隙間から見える大きな岩が目に入った。大きな獣が飛び乗ってもびくともしないような巨岩だ。
「あの岩だ!」
あの獣が足場にしてた岩と同じ形をしている。
ラウラはすぐに岩に向かって駆け出そうとしたが、斜の激しい山道の泥濘んだ地面を進むのは容易ではなく、転ばないようにと木の枝を掴みながら先へと急いだ。
ラウラの腰ほどもある段差を上るために木の蔦を掴んで引っ張ると、蔦はラウラの重みに耐えきれず途中でプツンと切れた。
支えとなっていたものを失ったラウラは、そのまま山肌を滑り落ちていった。




