1.存在の消滅
酒場の続く目抜き通りは多くの人でごった返していた。
これから酒を飲む人、すでに酔っ払った人。すっかりと日の暮れた街の一帯は喧噪で溢れている。
ラウラは大勢の行き交う通りを人々の間を縫って歩きながら、歌を歌っていた。最初は小声で歌っていたが、興が乗ってきて気づけばそれなりの大声で歌っていた。しかし、誰もラウラの歌声に振り返ることも、顔を顰めることすらしなかった。
誰にも存在を認めてもらえない寂寥感に襲われたラウラは、立ち止まって煌々とした繁華街に目を遣った。
ラウラの前には店の光でできた建物の影が落ちている。灯りに照らされ影は黒々と、まるでラウラと他者のいる場所とを分断する境界線のように見えた。
その一方でラウラ自身の影は同じ灯りに当たっていても、薄ぼんやりとして輪郭をなしていない。
きゅっと口を引き結ぶと、ラウラは俯いて小さなため息をついた。
「あんた存在が消えかけてるね」
かけられた声にハッとしたラウラは、声のした方向へと首を巡らせた。
そこにいたのは、頭のてっぺんからすっぽりとフードをかぶった、老婆らしき人物だった。小さな机に何枚かのカードを並べて、じっとラウラの方を見ている。どうやら街の占術師のようだ。
「驚いた。私のことが見えるなんて、おばあさん本物ね」
声の主の元へ駆け寄ると、ラウラは老婆に勧められるまま対面の椅子に座った。硬い木の椅子は、長く座っていると尻が痛くなりそうだ。
もっと人のいる場所の方がいいのではと尋ねると、占術師に頼りたいような人は人の目を避けたがるのだと老婆が笑っている。
「今はすっかり耄碌してしまったけど、昔はそれなりの占術師だったんだよ」
マントのフードから見える目尻には大きな皺がいくつも寄っている。
久しぶりに人と話すことに心弾んだラウラは、まじまじと目の前の老婆を見つめながら一体いくつなのだろうかと考えていた。
「あんた、禁忌を犯したね?」
問いかけの体ではあるが、確信した声で老婆がラウラに言った。そこまで分かるとは、やはりこの老婆は本物だ。
「ふふ、正解」
占術師や呪術師など、世界の理に触れることがある者には、決して手を出してはいけない領域がある。
死者を甦生させること、命を創造すること。そして、定められた未来を違えること。
「私ね、未来が視えるの。だから未来を変えようとした」
「運命の狭間を覗く魔女。まさか実在したとは……」
ラウラの言葉を聞いて顔色を変えた老婆は、ラウラをじっと見つめながらぼそりと独りごちた。
占術者の中で真偽不明のまま、言い伝えられてきた未来視のできる魔女の一族。
かつてその能力を恐れた時の権力者によって、一族は迫害され血は絶えたと口伝えされていた。
「もう血は薄まっていて、視たいものが視えるわけじゃない。たまに断片的な未来が視えるだけ」
ラウラが視たのは望んだ未来ではない。視ようとして視たものでもない。
やがて訪れる未来として、突如その光景が目の前に現れるのだ。
「未来視ができる魔女の末裔が、禁忌を犯したのか」
老婆は少しばかり責めるような目をしてラウラを見つめていた。能力ある占術師だからこそ、ラウラが犯したことの重さを正確に理解している。
禁忌とは世界の理を歪めるだけではない。
老婆はこれからラウラが辿る未来を悟ったのだろう。痛まし気な表情をして、ラウラに諭すように言葉を紡ぐ。
「理を歪めた報いは己に返ってくるものだ」
「うん。絶対に運命を歪めてはならないって言われてたの。でも、私は彼のために彼の家族を助けたかった」
後悔は少しも感じさせない、むしろ晴れ晴れとした表情でラウラは微笑んでいた。
「ねえ、おばあさん。私の話を聞いてくれる?」
◇
ラウラにはセストという幼馴染みがいた。
同じ町に生まれて、同じ町で育った一つ年上の少年だ。
小さな町なので年齢に多少の差はあれど、子供は誰もが遊び相手だった。年齢も性別も関係なく皆で転げ回って遊んでいる中で、セストはラウラにとって特別だった。
セストもラウラが一緒にいることが当然と思っている節があり、いつでもラウラを傍らに置いていた。
ラウラはずっとセストに恋をしていた。そして、いつかはセストと結婚するのだと思っていた。人口の少ない町のため、本人だけでなく周りの町人たちもそう扱っていたように思える。
ラウラは町の森近くに、両親と父方祖母の四人で暮らしていた。
矍鑠としていた祖母だったが、ラウラが十歳になる頃には頭の働きが鈍くなってきたのか、ラウラに取り留めのない話や不思議な話をすることが増えてきた。
「ラウラに秘密の話をしてあげようか」
普段よりも言葉のはっきりとした祖母が、ラウラを手招きしている。
祖母はすっかり足腰が弱くなり、日がな一日寝台の上で編み物をしている。たまに思い出したようにラウラを呼ぶと、同じ話を何度も繰り返すのだ。
両親が働きに行っている間は、祖母の世話はラウラの役目だ。かといって嫌々ということではなく、生活の知恵やラウラの知らない楽しい話を教えてくれる祖母のことをラウラは慕っていた。
その中にセストが混じることもある。祖母にとってセストも孫のようなもので、ラウラと分け隔てなく可愛がっていた。二人でいたずらをして怒られたことは数え切れない。
「秘密のお話ってなぁに?」
ラウラは寝台で上半身を起こしている祖母の隣に座ると、祖母の次の言葉を待った。
「これからする話は、おばあちゃんとラウラの秘密だからね」
ラウラはごくりと喉を鳴らすと、何度も頷いた。それを見て満足そうに目を細めた祖母は、左右を警戒するように視線を巡らすと密やかな声で続きを話し始めた。
「ラウラには魔女の血が流れているんだよ。その血は、おばあちゃんにもお前のお父さんにも流れているんだ。でもね、魔女になれるのは一族の女だけ」
「私、魔女なの?」
「そうだよ。ラウラには、運命の狭間を覗く魔女の血が流れているんだ」
魔女と聞いてラウラが思いつくのは、絵本に出てくる真っ黒なフードを被った老婆だ。お菓子をあげると言って子供を攫ったり、お姫様に魔法をかけて王子様に退治されるのだ。
「魔女って何ができるの? 空を飛んだり?」
「いいや、それよりもっと凄いことができるんだよ。未来が視えるんだ。おばあちゃんも若い頃に何度か視たことがある」
「明日のお天気とか分かるようになる?」
「未来は漠然とした形で現れるから、明日のことは分からないんだよ」
「ふうん?」
幼いラウラには祖母の話は少し難しかった。
「でもね、どんなに意に添わない未来でも、決められた未来を、運命を歪めることは決してしてはならないよ」
運命が何かを問うと、あらかじめ定められた未来なのだと教えてくれた。
「歪めたらどうなるの?」
「恐ろしい報いが自分に返ってくるんだ。それから、この話は誰にも言ってはいけないよ。怖い人たちがラウラを捕らえにやって来てしまうからね」
そう言うと祖母はかつて先祖たちが辿った、凄惨な歴史について語り始めた。
運命の狭間を覗く魔女と呼ばれる一族の女は、自由自在に未来を覗くことができた。
最初は小さな町で占いをして生計を立てていたが、占いの的中率の高さが評判を呼び、視察中の魔術士の目にとまった。魔女の能力を知った王家が一族の中でもより魔力の高い魔女を王城へと招き、水害や魔獣の被害を防ぐために魔女を重用した。
やがて、世代交代し次の王が玉座に着くと、魔女の未来視を頼りにすぐさま隣国へと戦争をしかけ、領土を拡大していった。
王のやり方に疑問を抱いた次代の魔女が未来視することを拒絶すると、王は魔女の未来視による王位の簒奪を恐れ、一族の血を絶やすように布令を出した。
小さな町で暮らす同胞たちは、王からの追っ手から逃れるために、命からがら国中へ散らばった。しかし、執拗に追い続けられるにつれ互いに疑心暗鬼になり、家族や恋人を密告する者も現れた。
または、愛する魔女の娘を匿って、捕らえられる者もいた。その者は見せしめのために、魔女の目の前で火刑に処された。
捕らえられた魔女、匿った者、捕まった者の末路はそれは悲惨なものであった。
祖母の話を聞いた夜、ラウラは恐怖で眠れなかった。
ラウラが魔女の末裔だと知られたら、殺されてしまうかもしれない。誰かに密告されるかもしれない。
きっと両親はラウラを守ってくれる。だが、そのせいで命を落とすかもしれない。
両親に話すこともできず、布団の中で震えながら夜が明けるのを待ち続けた。
それから数日後、祖母は拗らせた風邪が原因で静かに息を引き取った。
祖母が語ったおとぎ話のような話は真実だったのか、それとも、年寄りの妄言だったのか。問うことができないままの別れだった。