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その最奥に潜むもの(旧題 神の招く山)  作者: 日戸 暁
第3章 その最奥に潜むもの
8/15

結べぬ想いに絡むもの

登山道の入り口で小さな祠に手を合わせ、道中の無事を祈願した

 整備された登山道を歩いていたはずが、進むにつれて、道が細く険しくなっていく

 ――本当にこの道でいいのか

 心配になってきた頃、道が二股に分かれた

 朽ちかけた木の階段が見えるほうがきっと登山道だ

 やがて霧が出てきて、肌がしっとりと湿る

 疲れ、一足ごとに重くなる体を叱咤し階段を登る

 濃い霧に隠されて、道の先は見えない

 ――この階段はどこへ続いているのだろう


 あの祠に祀られたものが神であるとは限らない

 朽ちたきざはしの、いざなう先に待つものが 人に寛容とは限らない


******



そうして、8月も半ばに入ったある日。

僕がゼミ室でアルバイトをしていると、学会発表で来週まで地方へ出張している佐倉教授から、部屋の固定電話に着信があった。

「おー、丹波、元気かぁ? 津田に、俺達と合流するよう、急いで伝えてくれ。二木の弟が下山しないってんで、2年生引き連れてこれから向かうんだけどよ、何で彼奴ぁ、電話に出ねぇんだ」

ぶつり。ツーツーツー。通話が切れた。待て、どこで合流するんだ。

慌てて折り返しても、電波が届かないという音声が流れるばかり。

トークアプリにメッセージを送っても既読がつかない。背筋が寒くなる。

教授とゼミの皆さんに、なにか良くないことが起きたんだと、直感した。

津田さんに伝えろと言われても、そして、教授たちに連絡がつかないことを津田さんに伝えたくても。その手段がない。悲しいことに僕はまだ、津田さんの連絡先を教えてもらえていないんだ。

休暇に入る前、トークアプリのIDを交換したいと津田さんに思い切って言ったら、うやむやにされた。津田さんの電話番号もメールアドレスもどれも知らない僕は、どうしたら津田さんと連絡が取れるだろう。事態は急を要するというのに。

僕は頭を抱えて室内を歩き回った。何か、何かいい方法は……。

でも、いくら考えたところで、津田さんがここに来ない限り連絡ができない。その事実は変わらない。

かれこれ十日、津田さんの姿を見ていないけれど、それでも、今日明日にでも津田さんがここに来る可能性に一縷の望みをかけるしかない。

倒れた当日は「早く家に帰って休め」と佐倉教授にしつこく言われ、津田さんは渋々従っていた。その後、一度もゼミ室に来ず、連絡も絶えたので皆で心配していた。

ただ、佐倉教授だけは、「彼奴だって仕事で家を空けるし、いちいち連絡もしねぇよ」と寂しそうに笑っていた。

倒れて以来会っていない津田さんを気にかけながら、教授が学会のため出張に出たのは7日前。いまだに津田さんは行方不明だ。

僕は佐倉教授からの伝言を付箋に残すことにした。あの人が居るのは、古い備品の三段チェストの裏。その近辺に貼っておけば気付くだろう。

津田さんのスペースにそっと立ち入る。私物は思った以上に少なかった。チェストの上に置かれた籐の籠の中に、照れた津田さんが包まっていたブランケットが几帳面に畳まれている。僕はその籠に黄色の大きな付箋をぺたりと貼った。津田さんがこれを見てくれることを願いながら。

壁に立て掛けられたマットレスがふと目に留まる。ほんの出来心で、僕はそれを広げて横になってみた。……津田さん、いつもこうやって寝ていたのか。

あのブランケットを自分の体に掛けると、何だかほっとした。真夏なのに、このところ手足が冷えるのだ。少し頭も痛い気がする。頭痛の原因は絶対、佐倉教授と津田さんだ。目の前に居ないのをいいことに、僕の体調不良を二人の所為にする。

佐倉教授、たかが学生アルバイトの僕には、こんな重大なミッション、荷が重いです。

津田さん、何処にいるの。連絡ぐらい寄越してよ。

文句を言った途端――急に目の前が真っ暗になった。



****

ふと気が付くと、僕は知らない場所に立っていた。

何も見えない。一面の闇。

自分が目を開けているのか閉じているのかも分からない。

見えない地面から、芯まで凍るようなひんやりした空気が立ち昇ってきた。

異様な冷気は、足の裏を刺し、体を這い上がって来る。

じっと立っていたら冷え切ってしまいそうだ。

 

 おいで……おいで……はやくおいで……

 

ひたひたと、声が寄ってくる。


 おいでよ……一緒に行こう

 お山に一緒に行こうよ、ねぇ、モト……

 

僕を呼ぶのは誰だろう。

そこへ行けば、ここから出られるかな。

ここは、独りで居るにはあまりにも気味が悪い。

誰でもいい、誰かに会いたい。

ふらりと声のする方へ行きかけた。

 

戻ってこい、早く! 僕の許に戻れ!

 

 うに‼


聞き慣れた声に呼ばれ、はっと目が覚めた。僕はブランケットに全身を包んだまま眠ってしまったようだ。とても暑い。ぐっしょりと汗をかいている。

「帰ってきたか、うに、……良かった」

津田さんが僕に覆いかぶさって、こちらを見下ろしている。

面と向かって“うに”と呼ばれたのは初めてだ。

「本当に、“うに”って呼んでるんですね、僕のこと」

「え、あ……」

視線をうろうろと彷徨わせ、津田さんは突然、勢いよく立ち上がった。

今、チェストにぶつかったよね? 結構すごい音がしたけど大丈夫かな。

「えっと、あぁ、その……テーブルで待っていて」

そう言って津田さんはそそくさと出ていった。

言われた通りにゼミ室のテーブルで待っていたら、津田さんが一抱えのペットボトルを持って戻ってきた。スポーツドリンクと麦茶だ。僕に飲めという。ペットボトルが全部で5本。全部飲むのはさすがに多すぎる気がする。

「熱中症で、岸の渡殿わたどのに来てしまうなんて、キミは本当に……肝が冷えた」

分からない単語が出てきた。僕が首を傾げると、津田さんは言い換えた。

「向こう岸に行く前に、間に合って良かった」

向こう岸って、何? 三途の川とかそういう……?

でも、川など無かったと思う。水の音も聞こえなかったし。冗談のつもりでそう言ったら、

「単に、キミの場合は、岸まで遠かったんだろう」

津田さんは自分もスポーツドリンクを飲みながら至って真面目に答えた。

三途の川って本当にあるの? 僕の場合はって、それって、つまり? 

僕が訊ねると

「自分のも他人のも、知らないほうがいい」

ペットボトルの蓋をきゅいきゅいと回し、ため息混じりに津田さんは言った。

ってことは、津田さんは自分のも他人のも、三途の川を知ってるってことか。 ……数々の津田マジックといい、貴方、いったい何者ですか。

津田さんはまったりと指なんか組んで、その手をテーブルの下におろした。恐らくは膝に手を置いて、実にのんびりと椅子に座っている。

「あの、」

僕が、教授からの伝言を言おうとしたとき、津田さんが僕を遮って口を開いた。

「そういえば、付箋は見た」

え、それだけ? もっと詳しく教えろとか、他に言うことないの?

それに、そういえばって、何さ。今、思い出しました、みたいな。そんな軽い調子で言わないでよ。

……僕が体調崩したせいで後回しになった節もあるから、あまり強く言えないけど。

付箋には

“佐倉教授からの伝言です。ゼミの皆と一緒に、二木さんの弟さんを迎えに山に行くので合流してほしいとのことです。場所を聞く前に通話が切れてしまい、繋がりませんでした。教授から津田さんに既に電話をしたそうなので、早く折り返して下さい。”

と書いたけど、これを見て、ハイ、分かった電話すりゃいいのね。としか思わないの?

「それに、付箋じゃなく電話でいいのに」

何を言ってるんだ、津田さんは。

「連絡先、教えてくれなかったじゃないですか⁉」

「アプリは苦手だから断わった。あとは訊かれていないから、僕は教えなかった」

「じゃあどうやって津田さんに電話かければいいんです⁉」

僕は両手をテーブルに叩きつけて、津田さんに喚いた。

「千萱に訊け」

いつもの、平板な口調で津田さんは応える。

「だから、先生に電話繋がらないんだってば」

あ、思わず丁寧語を使い忘れて、津田さんにタメ口をきいてしまった。まぁ、津田さんは僕の口調なんて、特に気にしていないようだけど。

「繋がるまでかけろ」

さらりと返ってきた言葉に僕はますます苛立った。あんまりだ、なんて言いぐさだ。

「そもそもね、先生からの電話に出ないアンタガ悪インダ」

勝手に口から言葉が溢れる。妙に体が重くて、自分で動かそうとしても指一本曲げられない。それなのに僕の意思に反して右手が持ち上がり、津田さんを指さす。

いや、なんで僕こんな失礼なことをしているの。やめろよ、僕。何をしているの。

「僕ニ連絡先教エテクレナイ、アンタが悪イ」

違うそうじゃない。ちょっと腹は立ったけど、そんなこと言うつもりは全く無い。

「僕ニ教エタクナインダ」

口が止まらない。落ち着かなきゃと思うのに、そう思えば思うほど、口も手も勝手に動いてしまう。

僕が僕じゃないみたいだ。あるいは僕がもう一人いて、僕の体を操っているような、変な感覚だ。津田さんを指さして喚く別の僕がいるのを、俯瞰しているような……。

「僕ノ連絡先、聞カナインダ。知リタクナインダ。僕ノコト、知リタクナインダ」

そこまで思ってない。ただ、連絡先を教えてもらえなくて、聞いてもくれなくて……、

悲しかったんだ。

「僕ヲ嫌イダカラ」

違うって言ってよ。僕のこと、嫌いじゃないって、嘘でも言ってほしい。でも津田さんは何も言ってくれない。

僕の目が勝手に動いて、部屋中を忙しなく見回す。視界がぐらんぐらん揺れる。

「僕ノコト、嫌イナクセニ。コンナノ、要ラナイ」

僕の手が、それに伸ばされる。やめて。

津田さん、見てないで止めてよ。どうして助けてくれないの。僕のことが嫌いなの。僕なんかどうでもいいの。

このままじゃ、本当に成ってしまう。

頭が、心が、締め付けられて、今にも砕けそうだ。

……もういい、もう、考えるのをやめよう。

僕に無関心な、この人のことなんか。

「津田さんなんか、どうでもいい。連絡先も何も要らない!」 

がちゃん。

僕は、山吹色のマグカップを割っていた。

津田さんの目の前で。


……ふっと、体に感覚が戻ってきた。

カップをテーブルに叩きつけた指が震えている。

そっと自分の両手を握りこむ。動く。僕の動かしたいように、体が動く。

さっきまでの金縛りみたいなのは何だったんだ。

「そうか。キミが僕のことをそう思うなら、それで良い」

津田さんは、表情は全く変えずそう言って、組んだままの手をテーブルに乗せた。何やら複雑な形に指を絡めている。その指をあっさり解いて津田さんは立ち上がり、僕の書き置きの付箋、集めたマグカップの破片、それからポケットから出した小さな紙片をまとめて新聞紙に包む。

それを無造作にゴミ箱に放り込んで、津田さんはあのスペースに入って行った。

ばっさばっさ、ばったんと派手に音を立てながら、ブランケットとマットレスを片付けているようだ。続いて、掃除機をかけ始める。

念入りに自分のスペースを清掃して、津田さんが戻ってきた。

あまりのショックに、未だに椅子から立ち上がれずにいる僕を、目を眇めて睨む。

「どうでもいいだろうが、言っておく。千萱と五人のゼミ生、それから二木の弟を迎えに行ってくる。当分戻らない」

肩からかけた馬鹿でかい鞄にブランケットを押し込みながら、津田さんは僕を置き去りにして出て行こうとする。

「待って!」

僕は手を伸ばし、津田さんの鞄を掴もうとした。

爪が僅かに掠めただけだったけど、津田さんは足を止め、此方を振り返ってくれた。

「津田さん、本当に違うんです、どうでもよくない‼」

津田さんは、言い募る僕の真正面に立ち、睥睨してくる。

「最後の言葉は、紛れもなくキミの本心だ」

「違う、違う違う‼ 信じて‼」

「いいや。……少なくともあの瞬間のキミの」

津田さんは難しい顔をして、揃えた人差し指と中指を僕の額に突きつけた。

 ――胸の最も奥深くに潜ませた、本心だ

どこまでも感情のない声に告げられる。体の内側がすぅーと冷えていくのを僕は感じた。

津田さんが僕の額から指を離す。あぁ、津田さんが僕から離れていく。

「う、あ、あぁ……‼」

言いたいことが沢山あるのに。言葉にならない。感情が荒れ狂い、恥も外聞もなく、しゃくり上げながら津田さんにしがみつく。

「僕を離せ」

津田さんは僕を無理やり引き剥がすと、半ば駆け足で行ってしまった。

目の前で扉が閉じるなり、急に日が翳った。真っ昼間だというのに部屋が暗くなる。足元を、覚えのある冷気が這う。頭痛がぶり返してきた。体が金縛りにあったように動かせなくなった。

 怖いよ。僕に何が起きているの。こんな時に、どうして居ないの、津田さん。

いいや、津田さんが居ないのは、僕のせいだ。

僕がひどいことを言ったから、津田さんは僕を置いていった。それだけだ。

お前なんかどうでもいいって言ってくる奴を助けてくれるわけがない。気にかけてくれるわけがない。

不意にゴミ箱が、がたんと揺れた。

――ヨバウモノニコタエシハカレニアラズソノナハカレニアラズ

僕しかいない部屋で、津田さんの声が聞こえる。

――トラエシモノヲトキハナテ、コノメイコバミシトキ、スミヤカニイッサイヲメッキャクセン

突如としてゴミ箱の中で仄白い焔が揺らめき、あの新聞紙の包みだけを燃やし尽くした。体がふっと軽くなる。僕の頭痛も完全に治っていた。 

 

 窓の外は、真夏の日差しが照っていて、ぎらぎらと明るかった。


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