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神の招く山  作者: 日戸 暁
第3章 その最奥に潜むもの
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彼方より呼ばうもの


 8月の今、大学は夏休みに入ったけど、僕はアルバイトで佐倉ゼミの書庫へ来た。

今日は、データ入力の前にしっかりお掃除をしよう。

最近、書庫にいると嫌な臭いがするのだ。

古い紙の埃っぽい臭いと、部屋干し臭みたいな。

本の埃と、夏の湿度のせいかな。

書庫の、ドアのない三方の壁は上から下まで本棚になっていて、ぎゅうぎゅうに本が詰まっている。表の埃はたまに拭いてるけど、一回本を出して棚をきれいにしたほうがよさそうだ。

そういえば、数日前にも横向きに突っ込まれた本を直してたら、表紙が赤茶けた染みで汚れた本があってちょっと気味悪かったんだよね。

でも、今は見当たらない。どこに行ったんだろう。


僕がお掃除の手を休めて書庫を出ると、

佐倉教授のゼミ生5人が、ゼミ室でくっちゃべっている。エアコンなんてものは初めからなく、おととい、とうとう扇風機が壊れてしまったこの部屋にどうして集まるんだ、この院生達は。部屋の景色が暑苦しい。

 いくら窓を開けたところで入ってくる風はちっとも涼しくないけれど、この暑さを何とかしたくて、僕は部屋の窓を全開にした。

「おい、この山、面白そうだぜ。特急でZ市まで行けば、すぐだ」

「山ん中に旅館があるのか。泊まれるのも便利だ。モトも行くか?」

このお盆休みに、皆で登山に行く計画を立てているらしい。

茹だるような暑さをものともせず、ゼミ室のテーブルに身を寄せて集まり、誰かが古本屋で見つけたというマニアックな登山ガイドブックを開いて、楽しそうだ。

二木さんは、高校の時は登山部だったらしく、今も近場の山に時々登っているそうだけど、他の皆がいきなり登山って、大丈夫なんだろうか。

と思いつつ、山の中の旅館に興味を惹かれ、僕もお菓子を摘みながら会話に加わった。せっかく八戸さんが声をかけてくれたのだし。

「僕も行っていいんですか? ……変わった名前の山ですね、あまばり山?」

冷水筒ごと麦茶を持ってきた津田さんが、ぴたりと止まった。奄隠あまばり山の写真を凝視して立ち尽くしている。

ひゅう、と鳴ったのは風の音か、津田さんの喉か。

「津田さん?」

「おい、津田?」

そのまま津田さんが昏倒した。冷水筒の蓋が外れ、床に麦茶が溢れる。冷たい麦茶の水溜りの中で、津田さんは目を閉じて痙攣している。

「きゅ、救急車呼べ! モト、電話! 119!」

「え、どうしよう、繋がらない!」

119番に通じない。110番にも。スマホで電話が発信できなくなっていた。

皆が各々のスマホで緊急通報を試したけど、だめだ。

全員のスマホに同じ現象が起きている。

顔を見合わせる。ごくりと唾を飲む。

部屋を出て人を呼びに行こうと、教授室のドアノブに手をかける。開かない。

がちゃがちゃと、いくらノブを回しても、何かに押し戻される。

登山のガイドブックを開いて、津田さんが倒れた。

電話が通じなくなって、扉が開かない。

つまり、いったい、何が起きているんだ。

「内線電話はどうだ⁉ 3号館6番会議室!」

十郷さんの指示に、僕は大慌てで佐倉教授の居る会議室に内線をかけた。

呼び出し音が鳴る。プルルル、プルルル、プルルル、プルルル、……

『はい、こちら36M会議室―、』

ようやく、女性の声が出た。良かった、繋がった。狂ったように僕は電話口で佐倉教授を呼んだ。

『どうした、誰だ、落ち着け、丹波か?』

「津田さんが、津田さんが、突然倒れて……救急車が呼べなくて、部屋から出られません! 助けて!」

『すぐに行く』

内線が切れる。

そこから5分もしない内に、僕のトークアプリに佐倉教授からメッセージが入った。外部への電話は不通でも、アプリのテキスト送信は何故か活きている。訳は分からないけど一安心だ。

でも、文面はちっともいい知らせではなかった。佐倉教授の携帯も、緊急通報に繋がらないという。

『もういっぺん、部屋の扉開けてみろ』

佐倉教授からのメッセージを受けて、もう一度ドアノブに手をかける。やはり押しても引いても、何なら蹴っても開かない。なにかが、邪魔をしている。なにかが、このドアを目一杯押し返してくる。気味が悪い。

『開きません』

と僕が教授に返信すると、

がちゃり。急にドアがあっさり開かれた。

廊下側からならば開くのか。それはそれで、なぜ。

佐倉教授が引き攣った顔で扉と右薬指の指輪を交互に見ては、何度もかぶりを振っている。

何か、ありえないものを見たようだ。

……念のためドアを開けたままにしておくことにした。

閉じてしまったら、もう開かない気がする。

「佐倉先生、こっちです! 津田が……」

「津田、どうした」

熱中症を疑って衣服を緩め、ソファに寝かせた津田さんの顔を優しく撫で、佐倉教授は囁きかける。

呼吸と脈を確かめる教授の表情は、真剣そのものだ。

津田さんは顔色も悪いし、唇も乾ききっている。

「丹波、津田の水筒と湯呑持ってきてくれ」

佐倉教授が、湯呑に移した水筒の水を少し垂らして津田さんの唇を湿らす。

それでも津田さんはぴくりとも動かない。いや、もう胸が動いていない。

津田さんの瞼を上げて瞳孔を確認し、教授が青褪めた。

「津田、おい、返事しろよ! みつとじ、みっ君」

喚きながら、湯呑に残った水を津田さんの顔面にぶち撒ける。

「みっ君、おい……帰ってこいよ、馬鹿たれぃ」

教授は津田さんの胸ぐらをつかんで揺すり、その額を引っ叩く。

「何やってるんですか、教授⁉」

僕らが止めに入っても、佐倉教授は錯乱したのか、津田さんをべしべし叩き続ける。

可哀そうに、津田さんの頬も額もすっかり赤く腫れている。

「教授、教授、落ち着いて下さい!どうしちゃったんスか」

八戸さんが佐倉教授を後ろから羽交い絞めにする。それでも教授はなおも津田さんを引っ叩く。

不意に、誰かが教授の手をがっしり受け止めた。

「津田さん⁉」

津田さんが何事もなかった顔でソファに起き上がっていた。

佐倉教授がへなへなと床に座り込んだ。

 津田さんは、掴んだ教授の手をぽいっと放して、呆れたように軽く肩をすくめた。そして、びっくりしている僕らをよそにシャツの前とベルトをてきぱきと直し、身支度を整える。教授が深く安堵の息をつき、津田さんを抱き締めた。それを迷惑そうに、肩肘でぐいと押し退けて津田さんが口を開いた。

「僕が突然落ちた時は、あの水で清めた手で、柏手2回。次に指弾3回。それでも戻らなければ諦めろ。……十年一緒に暮らしたのに、まだ覚えてない……いや、もう忘れた? 千萱」

ものすごく馬鹿にしたような口ぶりだ。それに対して佐倉教授が吼える。

「ンなもん咄嗟に出てくるわきゃねぇだろ、ばかやろう」

二人のそんなやり取りを、ゼミ生の皆と僕は、ぽかんと口を開けて見ていた。

十年一緒に暮らした……?いったい、二人はどんな関係なんだ。

「津田は教授の何なんだ」

やがて、十郷さんがぽつんと呟いた。

「それはともかく、」

津田さんが律儀に十郷さんへ返事をし、件の教授室の戸口に立った。

「ウチアワセルワガタナゴコロソノオンジョウヲモテアッキオンリョウメッキャクセン」

津田さんが清々しい柏手を2回打つ。

さぁっと夏の生温い風が通った。

そこで初めて、この部屋の空気が淀んでいたことに気づく。

いつから風が止んでいたんだろう。

「これが噂に聞いた、津田マジック?」

二木さんが興奮している。台拭きで床の麦茶を拭き取りながら、津田さんが訊く。

「つる、噂って何」

院生に対して砕けた調子の津田さん。滅多にないことだ。今日は変なことばかり起こる。ちなみに〝つる〟は二木さんの愛称だ。

「苅田教授と姫井先生が講義でよく言ってるんだって、弟から聴いたぞ、“つかれた時は癒やしのみっ君”」

「あの一般教養組、べらべらと…」

ぶつぶつ文句を言いながら津田さんは、雑巾になってしまった台拭きをごみ箱に捨て、空になった冷水筒を拾って給湯室へ行く。また倒れやしないかと心配になった僕は、そうっと後ろから様子を窺った。

津田さんが右脇腹を押さえて呻いている。

僕はさっき、見てしまった。津田さんの下腹部から胸元までうねる赤い傷痕を。

声をかけようとした時、津田さんが僕を振り返った。

「何も訊くな」

津田さんは険しい顔で言った。でもすぐに、いつもの感情の読めない顔に戻り、黙々と麦茶を作り始めた。

ポットのお湯と麦茶のパックをやかんにぶちこむ。濃い目に作った麦茶を、冷水筒に移して水で薄めながら粗熱を取り、冷蔵庫で冷やすのだ。

お湯が麦茶になるのを待つ間に、津田さんはシンクに置かれたままの誰かのコップを全て洗ってくれた。さっき床に落とした冷水筒もきれいにスポンジでこすり、水切りかごに伏せる。新しい布巾で蛇口とシンクの周りを丁寧に拭き、布巾を濯いで干す。一連の片付けを済ませ、予備の冷水筒に麦茶と水を注ぐ。

そこまで手際よくこなしてから、ふと思い出したように、津田さんはゼミ室の方へ声をかけた。

「僕の電話が鳴っても出ないで下さい」

直後、黒電話の音が鳴り響いた。津田さんのスマホの着信音だ。

じりりりーん、じりりりーん、じりりりーん……。

いやに不気味に聞こえる。

部屋に戻ってきた津田さんは、息を3度吹きかけた手でスマホを持ちあげた。

掲げたスマホの画面は真っ黒だ。普通、着信画面が表示されるはずなのに。

……いったいなにがどこから電話をかけているのだ。

「マレビトオクリテフキトザセヨミノカヨイジ」

津田さんが早口に唱える。

けたけたけたけたけた…………

と耳障りな笑い声が部屋中に響いて、やがて消えた。

「またまたぁ……夏だからって心霊マジックやめろよ」

ヘラヘラ笑っているのは、こちらも修士2年の三堀さん。たった今、目の前で見聞きした怪現象が怖すぎて受け入れられないのだろう。そんな三堀さんを冷たい視線で睨み、

「盆の時期に、神隠し伝説のある山に行こうとするな。君たちの念が、禍々しいものを呼び寄せた」

さも当然のように言う津田さん。

「どうして、その……お前が狙われたんだ」

佐倉教授がひどく緊張して問いかける。それに対し、津田さんがさらりと答える。

「僕が自分で奴らを受け入れたからですね」

「何だと⁉」

目を剥いて怒ったのは十郷さんだ。

「じゃぁお前は、そのなんかヤバいのを、分かってて、わざと危ない目に遭ったって……、おい、そういうことか⁉」

すぐに助けを呼ぶからな!と津田さんに繰り返し呼びかけながら、この人は繋がらない電話をかけ続けていた。涙目になって、必死に、何度も何度も……。

十郷さんは、津田さんと話している姿をよく見かける。もしかしたらゼミ生の中では一番、津田さんと親しいのかもしれない。

津田さんは、憤る十郷さんの唇にちょんと触れ、黙らせる。

「僕でさえ、連れて行かれかけた。君ならどうなっていた?」

 それって、つまり。部屋の温度が一気に20度くらい下がった気がする。

皆が凍りついているのを横目に給湯室へ消えた津田さんは、粗熱が取れた麦茶のポットを持ってきた。

「皆様、涼しくなったようで。……本日の津田マジックはこれにて終演です」

津田さんは、いつもと変わらぬ淡々とした調子で言いながら皆にぬるい麦茶を配ると、自分は部屋の隅っこの定位置に戻って行った。

取り残された僕らと佐倉教授は、麦茶の温さにやっと人心地ついた。

 結局、佐倉教授のゼミ生達は、冬の修論提出後あるいは、春の修了式後に登山に行くことにしたようだ。

 あの登山ガイドブックは、たった数日のうちに他の資料に紛れてしまい、どこを探しても出てこなかった。

それから、消えたものがもう一つ。

――ゼミ室の妖精さんが忽然と姿を消した。

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