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神の招く山  作者: 日戸 暁
第1章 つかれた時は癒やしのみっくん
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つかれた時は癒やしのみっくん


 今朝、僕が書庫に来ると、本棚のフックに紐で吊るした壁掛けカレンダーが床に落ちていた。

フックは壁にちゃんとくっついているし、紐もほどけていないのに、なんで落ちたんだろう。

僕はカレンダーを吊るし、まだ6月のページなのに気づいた。

もう7月に入ったのに替え忘れていた。


僕がここでバイトを始めてもう2ヶ月になるのか。

随分と業務には慣れたけど、この書庫の汚さには慣れたくないな、と思う。

書庫といっても、独立した部屋じゃない。

ゼミ室の右奥を扉のついたパーティションで仕切ってるだけ。そこに事務机と椅子を入れ、研究作業用の小部屋として使っている。


時々、たぶんなにかがぶつかっただけなんだろうけど、仕切りの壁がガタガタっと揺れて周りに積んであるものがバサバサ落ちる。

たいていゼミ室では講義中で、誰も立ち歩いてないのに、不思議だ。

よっぽど建て付けの悪いパーティションらしい。


ほかにも、仕事中に突然資料の山が崩れたり、本棚の本が落ちてきたりするんだよね。何か生き物がガサゴソするような気配を感じるから、ねずみでもいるのかもしれない。

嫌だな、ねずみ。


僕は軽く伸びをして、……少し机に突っ伏した。バイトの就業時間までの10分ほど、軽く目を瞑る。


梅雨も明けてじわじわと暑い日が増えてきたこの頃。

季節の変わり目のせいか、あるいは期末試験が近いせいか、体には疲れが残り、気持ちも重くだるい感じがする。授業中に起きているので精一杯な日すらある。何なら今日の午前中も。


「ふわぁ、……」

僕が書庫であくびをしていたら、津田さんが戸口に来て言った。

「目を閉じ耳を塞ぎ、意識すらも朧にする。……初めて出会ったときと同じだな、君は」

津田さんは妙なこと言う。

何だよ、いきなり来て。出会ったときって、2ヶ月前だし。

「どういうことですか?」

僕が聞き返すと、津田さんはひょいと肩を竦めた。

「なに、今日の、苅田教授の講義も、寝かかっていたとみえる」

え?確かに今日のお昼前の講義は苅田教授だったけど。

「そして、君が眠れないのは、苅田教授の講義の前夜だ」

津田さんはそう言いおいて、ふらっとゼミ室を出ていってしまった。

言われるまで、僕はその法則に気付いていなかった。

振り返れば、確かに、眠れなかった翌日は苅田先生の授業があって、その日の中で一番眠いのも苅田先生の講義中だ。……眠い日があるのはあくびでバレるかもしれないけど。……なんで僕の講義スケジュール、知ってるんだろう、津田さん。

やっぱり変な人だ。


苅田かんだ教授というのはうちの学部の名物教授で、僕の学年にもゼミ希望者が多い。

学部1年次や教養科目の講義も数多く受け持っていて、苅田教授を知らぬ学生はこの大学にはいないだろうと僕は勝手に思っている。


 かく言う僕は3年次から姫井ゼミに行くつもりだ。姫井揚照ひめい のぶとし先生は、ゼミ担当教員になって3年目の若い先生だ。気さくな性格で、面倒見も良いので学生からの人気は高い。僕に、佐倉教授の研究補助の話を持ってきてくれたのも姫井先生だ。学内でのアルバイトは大学規則すれすれの危ういものだけど、どこをどうすり抜けたのか大学院側の了承も得ているので、実はあの優しい笑顔の下は、相当な策士なのかもしれない。


話が逸れた。

苅田教授は若手の先生、特に姫井先生が気に食わないのか、機嫌が悪くなるにつれて、自分の講義で姫井先生を悪し様に言うようになった。あんな若い奴の薄っぺらな講義など聞かなくていいとか、そんな類いのことを自分の講義の中で何遍も言う。

苅田教授は、僕ら一年次の必修科目の色んな講義によくお出ましになるから、しょっちゅう姫井先生の悪口を聴く羽目になる。

ただでさえ人を悪く言う言葉を聞くのも疲れるのに、自分の将来の指導教授の悪評なんて聞かされて、僕は気が塞いでいるんだ。


学科教員達によるオムニバス形式の講義でも、苅田先生のご威光には逆らえないようだ。他の先生方も名指しこそしないものの、姫井先生を見下すような物言が増えてきている。そのせいか、講義で姫井先生が担当する日は、空席が目立つようになってきた。



そして7月半ばを過ぎたある日。

僕はキャンパスの購買で姫井先生とすれ違った。一瞬、確かに目があった。

「あ、あの! 姫井先生」

僕の呼び止めにも答えず、姫井先生はそそくさと歩き去った。


来週からは前期試験が始まり、それが終わると今度は長い夏期休暇に入る。2ヶ月近く、講義がない。だから今週のうちに少しでもいいから姫井先生と話したかったのに。


入学してすぐにゼミ希望を姫井先生で登録した僕を、先生はバイトのことも含めて何かと気にかけて下さって、構内で僕を見かけるといつも笑顔で立ち止まってくれた。廊下のベンチや、先生の講師室で相談や近況報告、他愛のない雑談までした。


その先生が会釈もせず、無言ですれ違った。完全に無視された。


苅田教授のせいで風当たりが強いのか、最近、姫井先生は学生を避けがちだとは思っていたけれど。流石に、ここまで露骨に避けられると傷付く。


僕は肩を落として、佐倉教授のゼミ室へと向かった。給湯室のテーブルで、購買で買った市販の惣菜パンにかぶりつく。見た目以上にぼそぼそして、あんまり美味しくない。喉に残るパンの嫌な感触を洗い流そうと、僕は、あの黄色のマグカップになみなみと注いだ冷たい麦茶を一気に飲み干した。


 ここで働き始めた時、水回りの掃除も自分がやりますと教授に申し出たら「うちには妖精がいるから、放っとけ」と言われた。要は、教授室に半ば住んでいる津田さんに任せておけということだ。


確かに、お茶やコーヒーのストックが尽きることはないし、シンクや蛇口も定期的に磨かれている。本格的に暑くなってきたある朝から、突如として冷蔵庫に麦茶の入った冷水筒が鎮座するようになって、あぁ、本当に妖精さんが居るんだな……と、しみじみ思ったっけ。


この麦茶をがぶがぶ飲んでいるのは佐倉教授で、相変わらず、津田さん自身はホットコーヒーを毎朝1杯。それ以外に津田さんが何を飲んでいるのか、僕はまだ知らない。


 僕がもそもそとお昼ご飯を食べていたら、教授室の戸が開いて、誰か入ってきた。


「すみません、佐倉教授……お昼休みにお時間もお部屋もお借りして……津田くんも、わざわざ有難う」


あれ? この声……。


「いえ。お気になさらず。ゼミ生達は居ないし、むしろ好都合……千萱とのぶ先生はソファでお待ちを」


誰かの声に応えつつ、津田さんだけが給湯室へ入ってきた。僕を見るや、津田さんは唇に人差し指をあて、黙っているようにと僕に示した。そして、2個の硝子のコップに麦茶を、自分の織部色の湯呑にミネラルウォーターを注いで運んで行った。


「あ、ありがとうございます」


「で、姫井センセ、相談ってのは?」


佐倉教授の声。酒焼けしていない時はなかなかのバリトンボイスなんだよな。


それはともかく。やって来たのはやっぱり姫井先生だったのか。


「いえ、あの……丹波くんは、元気ですか」


「おぅ、この部屋にもめげずに元気でやってるぞ。ちょこまかとマメに働くし院生にも気に入られてる」


何か照れるなぁ……。五人いる修士二年の皆さんは特に僕を可愛がってくれる。7つ年上の兄がいた僕にとっては、院生は兄も同然で、構ってもらえて嬉しい。


「津田くんが肯いているから、本当に大丈夫ですね」


佐倉教授の百の言葉より、津田さんの肯き一つの方が信頼できるのか。


「何より、こいつがモトを気に入ってるんだ。人嫌いで無愛想でクール通り越して感情無さそうなこいつが」


この歳になって、家族以外から下の名前で呼ばれることは滅多にないし、佐倉教授が僕の名前を覚えてくれていたことに驚いた。でも津田さんは、僕の名前どころか、苗字すら覚えていないだろうな。いつも“キミ”と呼びかけられるだけだから。


それにしても津田さん、酷い言われ様だけど、ちょっとそんな感じがするのも確かだ。本人を前にしてずけずけ言えちゃうあたり、さすが、佐倉教授、津田さんと長い付き合いだ。


「おおむね、否定しない」


 津田さんが間を置いて答え、


「否定しなよ」「否定しろよ」


姫井先生と佐倉教授が異口同音にツッコむ。


「誰が僕をどう思おうと、一向に構いませんし、人嫌いで愛想もないのは自覚があります。初めの部分は、むしろ積極的に肯定します」


津田さんが一度にこんなに喋るのを、僕は初めて聞いた。


……それに初めの部分って? 津田さんが僕を気に入っているってところ? 全然、そんな素振りは……。もしかして、マグカップとか高級ココアとかは、僕を気に入ってくれてるっていう津田さんなりのメッセージなのかな。だとしたら嬉しいな。


「あと、姫井さんのご相談ごとですが。僕が思うに何も功を奏していませんし、事態は悪くなる一方です。そもそも、その程度のことで、う……、丹波君がゼミ登録を修正するとは思えません。彼が、そんな理由で簡単に意思を変える人間だとお思いなら、それは彼を軽んじているようにも聞こえる。彼を思ってのことだとしてもこのやり方は改めるべきです」


津田さんの長台詞。こんなに口の回る人だったのか。でも、何で僕の名字だけつっかえたのさ。やっぱり僕の名前どころか苗字すら、咄嗟に思い出せないんだな……。


それに、先生たちの話がとても気になる。僕が姫井先生のゼミに履修登録していることが問題になっているみたいだけれど、事情があるならちゃんと教えてほしい。


「どうして、佐倉教授に相談したいことが、そのことだって分かったんだい」


姫井先生が驚いている。


「貴方が佐倉教授を頼る時点で、……丹波君のことだと、見当がつくでしょう。最近、彼も佐倉教授に愚痴をこぼしていたし」


 なんか素っ気ない受け答えだな。津田さんらしいや。いや、その前に。僕が佐倉教授に愚痴ってたの、何で知ってるの、津田さん。


佐倉教授に愚痴を聞いてもらったのは、他に誰もいない時だった。内容が内容だから。佐倉教授も、姫井先生以外には他言しないと約束してくれたのに。


え、佐倉教授、津田さんに話しちゃったのかな……。


「俺から言うことじゃないでしょ。俺、ただの雇用主。大学のゼミとか関係ねぇし。まぁ、姫井センセから言っておやりなさい。それが筋ってもんでしょ」


口調は相変わらず軽いけれど、珍しく、諭すような声音で佐倉先生が人に話している。


「……すまない、津田くん。君からそれとなく、丹波くんに言ってくれないか」


「それは、」


「僕からは言いたくないよ」


渋る津田さんに姫井先生が縋っている。学生に言いたくない事情って一体何だ。


「……まぁ、良いでしょう。立場としては僕が適任だ。たとえ上手く行かなくても、彼の、僕に対する印象が一段と悪くなるだけで済む」


津田さん、何だよその言い方。給湯室の壁に貼り付いて聞き耳を立てながら、僕は腹を立てた。


「何だい、お前、丹波に嫌われてるのか」


「僕は他人に好かれる類の人間ではありません。彼とて例外ではないでしょう」


教授に答える津田さんの言葉を聞いて、ますます僕はむっとする。


僕がいつ、津田さんを嫌ったって言うの。ひどいや。勝手に決めつけないでほしい。


「カップ買って、好きな飲みもんストックして、せっせと手懐けてるのに?」


「手懐けるだなんて、人聞きの悪い。……安物の白い紙コップで飲んでいるのは味気ないと思っただけです。第一、あの子は物で懐柔される子ではないッ!」


津田さんが怒鳴った。佐倉教授と姫井先生がおろおろして、謝ったり宥めたりしている。……津田さん、あんな大きな声も出るんだ。ちょっとびっくりした。


 話を聞いている限り、津田さんの中での僕に対する評価はかなり高い。他人が自分に好感を抱き、信用してくれている。それは素直に喜ばしいことだ。僕はモノで釣られないって言ってくれたのも嬉しい。僕だって、場合によってはモノであっさり釣られるかもしれないけど、プレゼントをくれた人の頼みだからといって、事情も聞かずに進路をホイホイ変えやしない。もしそれを目論んで、姫井先生が津田さんに僕の説得を依頼しているのなら、かなり不快だ。


「そもそも、彼にゼミを変えさせれば済む問題じゃない。根本の原因は苅田教授だ」


 いつもの淡々とした声に戻って、津田さんが再び口を開いた。


「今、大学院と大学のゼミ再編の話が持ち上がるなか、退任が近い苅田は来年を最後に新たなゼミ生を迎えられない可能性が出てきた。さらに、若手教員に任せたゼミの希望者数調整で、来年の自分のゼミの新入生数が前年度に比べて半減しそうだと分かった。今までなら毎年、学内最多のゼミ生がいたのに。自分の最後のゼミになるかもしれないのに。彼の矜持はいたく傷つけられた。そこへ、先月の学部新入生オリエンテーション期間に行われた教員評価調査の結果がでた。学生からの人気が、まだ年若い姫井先生に負けた。……姫井先生といえば、各ゼミの学生数を調整した教員じゃないか」


ん? それはつまり。


「大学院の古株である佐倉教授との繋がりも気になっているのだろう。そこへ姫井先生が将来の自分のゼミ生をバイトとして送り込んだ。自分は学内での立場もぐらついているのに、若手の先生のせいでゼミ生が集まらず、一方、奴は大学内では学生から自分よりも人気があり、大学院にもややグレーなコネがある。もう黙っていられない。姫井先生を潰してやろう。……つまり嫉妬と逆恨み」


ですよね。すごくざっくりいうと、その二言に尽きる。


「この大学の内部事情と教授の私的な感情を隠したまま、彼にゼミ選択を姫井先生から苅田教授に変更しろと迫る方法などありません。ましてや、姫井先生、自分が彼と距離を取って嫌われてしまおうという考えは非常に幼稚すぎて、全くもって話にならない」


場がしんと静まり返る。うん、とっても子どもっぽいやり方だな……津田さんの言い方に思わず同意してしまった。姫井先生も、ちゃんと言ってくれたらよかったのに。


「まぁ、姫井先生も、教員と学生の立場の差を利用した圧力をかけたくなくて、どう彼に話したものか考えあぐねて距離を置く内に、ますます話しづらくなっただけだと承知しています。伝えなければならない大事な話があるのに、他愛もないお喋りだけするわけにもいかないし」


姫井先生、そういうことだったんだ。僕に苅田先生とゼミのことを話せなくて、僕と雑談をする余裕もなかっただけなんだ。


「そうなんだよ、津田くん。僕は、ただ」


「ですが、どんな理由があれ、彼にきちんと謝罪をして下さい。僕から見ても姫井先生が、大いに語弊はありますが、う……、丹波君をいじめているように映ります。本人が思っているだけでなく」


 津田さんが最後に付け足した言葉に、僕はハッとした。


つい先日、佐倉教授に、姫井先生の僕に対する態度のことをぼやいた時。僕は確か、「姫井先生が僕のこと、わざと避けて……いじめ? シカト? って言ったら、語弊がありますけど、それに近いというか……そんな気がして。僕、姫井先生に嫌われてるんでしょうか」とかなんとか言った覚えがある。


僕の言った言葉をそのまま知ってるってことは、津田さんはどこかで直に聞いていたのか。もしかして、今の僕みたいに。


「いじめか……そうだね、丹波くん、傷ついているよね」


姫井先生がそう言うのが聞こえた。


「で、今日のところは、どうするんだ。どう、丹波に伝えるんだ?」


佐倉教授が話を進めに口を挟んだ。伝えるも何も、僕はもう知ってしまったんだけどね。


今、給湯室に僕がいることを、津田さんだけが知っている。そして、ゼミと苅田教授の揉めごとについて、学生に安易に教えてはいけない内情を、状況の整理として姫井先生と佐倉教授に語りながら、津田さんは陰で聞いている僕にも理解できるように説明してくれたのだ。しかも僕がどう感じているかを先生にそれとなく伝えてくれた上、姫井先生の態度が変わった理由も僕に教えてくれた。


津田さんがこうやって教えてくれなければ、僕はあのまま姫井先生に対して誤解し続けるところだった。津田さん、凄いや。


……でも、やっぱり許せないことがある。もう我慢できない。


「津田さん! 何ですか、さっきから! 僕のことはベタ褒めするくせに、どうして僕が津田さんを、嫌いみたいな、ええと、そうだ、津田さんに対する印象が悪いって決めつけるんですか⁉ それに、僕の名前! いちいち、つっかえて! まだ名前覚えてくれてないんですか、ねぇ、つだ・みつとじさん‼」


給湯室の入り口に仁王立ちして叫ぶ僕を佐倉教授と姫井先生が呆気にとられて見つめる。津田さんも僕の剣幕に少し驚いたようだけど、すぐにいつもの無表情に戻ってしまう。


いや、あんたに言ってるんですよ、僕は。自分には関係ないって顔しないでよ。


「いつから、そこに? 津田くん、部屋には誰も居ないって言ってたじゃない」


「僕がお茶の支度をしに入った時には既に。僕は、ゼミ生達は居ないと言っただけ」


おたおたする姫井先生に、津田さんがしれっと答える。待て、僕の質問を無視すんな。


僕はつかつかと津田さんの真ん前まで歩いて行って、返事を求めた。


「津田さん‼」


「たんば、もと君だろ、……知ってる」


さっきまで滑らかに語っていたのが嘘のように、もごもごと答えて、津田さんは口に右の手の甲を押し当てて黙り込んだ。


……あれ? 津田さん、頬が赤い。


「あとで、苅田教授をここにお呼びして下さい……一時間後に」


気の抜けた声で佐倉教授に言うと、津田さんはふらふらと立ち上がり、いつものスペースに閉じこもった。途中、段ボール箱でつまづきかけている。


普段、散らかり放題のこの部屋で猫のごとく障害物をよけ、物音一つ立てずに行き来する津田さんが。


「策士め。まぁ、そんなわけで、姫井先生のことは許してやってくれ、丹波」


佐倉教授は何度も転びかける津田さんを面白がりつつ、そう言った。


「丹波くん、ごめんなさい」


姫井先生が僕に頭を下げる。


「ゼミの変更もお前の好きにしろ。今後、別方面からも圧がかかるかも知れんが、話くらいは俺でも聞ける」


佐倉教授はその件については干渉しないけど、僕個人の話し相手になってくれるつもりのようだ。有難うございます、教授。


 津田さんが部屋の隅に引っ込んでしまって僕が困っていると、佐倉教授は、例のにやにや顔で津田さんのいる辺りを窺いながら言った。


「なに、津田の奴、お前に嫌われてないって分かって嬉しいのと照れてるだけだから気にすんな。あとなぁ、あいつ、お前にあだ名つけてんだ」


「え?」


「家ではお前のこと、“うに”って呼んでるぜ。だから咄嗟に丹波って言えねぇんだわ」


そう言って教授は、鍵貸借用カードを見るよう僕に促した。研究室の鍵を借りるために作成した、名刺より小さい紙切れだ。




   鍵貸借票


鍵使用者   責任者


姓  丹波    佐倉


名  雲斗    千萱




「それが机に置いてあるのを見てあいつ、真顔で『“うに”と読めますね』って言うんだぜ」


縦書きで書かれた、僕の姓と名それぞれの頭文字を左から拾うと、確かに雲丹と読める。


僕の名前にウニが隠れていたなんて初めて知った。もしかして、それで僕のマグカップは山吹色なの……?


書庫に戻る時にそっと津田さんを窺うと、大きなブランケットを頭から被って、こちらに背を向けて体育座りをしていた。


180㎝を超える長身をそんなふうにちまっと縮こませて、何をしているんだこの人は。


近づいて、ブランケットを剥ぐ。無言で膝頭に額を預けて俯いてしまう津田さんに


「うに、嫌じゃないです」


と囁いたら、耳まで真っ赤になった。




 津田さんが落ち着くのを待って、佐倉教授が苅田教授を部屋に呼び出した。もう午後の3時だ。


気持ちを鎮めるのに、一時間じゃ全然足りなかったね、津田さん。


「苅田先生、ご多忙の折、ご足労頂き有難うございます。丹波のゼミ変更の件でお話が」


 まず、佐倉教授が苅田教授側の言い分を懇切丁寧に聴いた(津田さんの言うように、その話の端々に姫井先生への嫉妬心が見え隠れしていた)。


それから姫井先生も、自分自身が大学院に便宜を図って貰うつもりで僕をこの研究室のアルバイトに送り込んだわけではないとはいえ、傍から見れば好ましくないことを認めて謝罪した。その上で僕も、バイトの条件として、この大学院に進学しないことを誓約している事実を苅田教授に伝えた。そして、変わらず姫井先生のゼミを志望していることも。


佐倉教授のとりなしもあり、苅田教授も不承不承、僕らの決断と謝罪を受け入れてくれ、一件落着した。


 そこへ、


「お茶のおかわり、どうぞ」


津田さんがハーブティーを持ってきた。最初のお茶は、津田さんに頼まれて僕が麦茶をお出ししたのだけど、今度は茶種を変えてきた。ハーブティーなんてそんなお洒落なもの、この給湯室にあったんだ。


「苅田教授。……つかれていらっしゃいますね。少々、荒療治ですがご辛抱を」


津田さんは、苅田教授がハーブティーを飲み終えるなり言って、その正面に膝をついた。


「何を始める気だ、君」


「お静かに。僕が何をしても動かずに」


右手の人差し指と中指にふっと息を吹きかけ、その指を揃えて教授の眉間に当てる。


「ワガコエニイラエ、マガモノ、マドイノモノ、サイ、バンショウ、アラワレイデヨ、コノモノノミノウチヨリトクイネトノル」


かたかたと苅田教授のティーカップが鳴り出した。苅田教授と津田さんの周囲の空気が変わる。ひりひりと肌を刺す冷気が二人を取り巻く。津田さんは眉をひそめると、癖のある長めの髪を撫でつけて赤い組紐を巻き付け、首後ろで括った。そして眼鏡を外した。


露わになる津田さんの素顔。そのあまりに整った美貌に僕は、そして苅田教授でさえもが、はっと息を呑んで魅入った。姫井先生は顔を赤らめてあらぬ方を向いてしまった。


そんな僕らの様子など気にも留めず、津田さんは


「ワガコエニイラエ、マガモノ、マドイノモノ、サイ、バンショウ、アラワレイデヨ、コノモノノミノウチヨリトクイネトノル」


さっきよりも語気を強め、もう一度呪文を唱えた。激しく震えだす苅田教授のティーカップ。そこへ津田さんはあろうことか、自分の飲みかけの湯呑からミネラルウォーターを注いだ。しかもそのティーカップを苅田教授の唇にあてた。


「な……」


「動くな」


有無を言わさぬ口調で津田さんが苅田教授に命じる。


「コノウツワカリソメナガラマガキトナスカラハコノモノノミノウチヨリスミヤカニイデウツリタマエ」


ティーカップの水が、ちゃぷんちゃぷんと揺れ動き、球となってカップの中で踊る。カップを津田さんはそっとソーサーに戻す。


「コノシシチュウシ、アシキモノスベテハライシズメルヤクジョノレイケンナリ」


津田さんが揃えた人差し指と中指を振りあげ、気合もろともティーカップに叩き付けた。


水の玉がぱっと弾けて消えた。でも辺りは少しも濡れていない。


遅れてティーカップが、ぱっくりと二つに割れた。


それを津田さんはジャケットの内ポケットから取り出した和紙に包む。


「滞りなく済みました」


津田さんは眼鏡をかけて髪を解いた。そして何事もなかった顔で苅田教授に一礼し、いつものスペースに、音もなくするりと入って行った。


苅田教授も姫井先生も、二人揃って口をぽかんと開け、津田さんが引っ込んだ部屋の隅を見ている。何が起きたのかわからない。そんな顔だ。僕も今見たものが何か分からない。


佐倉教授がまだ茫然としている苅田教授をゼミ室の出入り口まで送りながら言った。


「お疲れ様でした、苅田教授。何かにつかれた時は、彼、みっ君に癒やしてもらうといい。では、お気をつけて」


******


「みっ君、先日はありがとう。不思議な儀式だったね」


「すごいね、津田くん……、あ、いや、みっ君って僕も呼んでいいかな」


と、津田さんの淹れたお茶を飲みつつ、佐倉教授のソファでのんびりしているのは、苅田教授と姫井先生だ。


 苅田教授は、あの翌日から人が変わったように若手の先生にも優しくなった。姫井先生のことも悪く言わなくなり、「姫井先生、若くていいなー、人気があっていいなー」などと明るく羨むようになった。いや、それもどうかと思うけど、以前の陰湿な悪口に比べたらずっとマシだ。


「疲れて心に余裕がない時は誰しも、猜疑心や嫉妬心に囚われます。少しでもお気持ちを切り替えて頂ければと……まぁ、云わば、ちょっとしたマジックをお見せした次第で」


津田さんはいつもの無表情でそう応じていた。


うちは教員のカフェじゃねぇぞ。という佐倉教授の一言に退散するまでの小一時間、学部の先生方はこの教授室に居座っていた。もっとも、津田さんが次々とお茶のお代わりを出すものだから、調子に乗って長居していたような気もする。


ただ、お茶を飲みながら先生方お二人が、なんだかんだ親しげにお話しされていて、僕はホッとした。


僕が苅田先生と姫井先生が使ったコップを下げて流しに置き、スポンジに洗剤をつけていたら


「それは僕が清めるから、放っておおき」


不意に向こうから津田さんに声をかけられた。




コップの片方が、カタカタっと揺れた。次は――。





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