夢か現か幻か
あの山から帰ってきて3週間以上が経った。9月に入ってもなお、ただひたすら蒸し暑い研究室に何となくゼミ生が集まって、じっと押し黙っている。
五人のゼミ生と一人のOB。そして僕。
あの日以来、初めて顔を合わせる。
皆が来るちょっと前に起きたことを話してあげよう。少しでも皆が……笑顔になってくれたら。
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今日、僕はバイトのため、早朝からこのゼミ室に来ていた。他に誰もいないこの部屋の書庫で、のろのろとデータ入力をしていた。数時間経っても、まだ50人分のデータしか打ち込めなかった。実に能率が悪い。少し気分転換に体を動かそう。お手洗いに立ちがてら、わざと遠回りして研究室に戻ろうか。
それで廊下をてくてく歩いていたら、曲がり角の向こうから、がさごそと音が聞こえてきた。あの辺りはゴミ回収コーナーだ。こんな時間に誰だろうと思いながら角を折れる。
……見慣れたマットレスが廊下を歩いて来るではないか。思わず立ち止まれば、マットレスの向こうからひょいと人の顔が覗いた。
緩くうねる髪を束ねたその人は、黒い丸眼鏡の奥で目を細めた。
「津田さん……何で……」
ここに居るの、いつ帰ってきたの、どうやって帰ってきたの。聞きたいことがたくさんあるのに。声が喉の奥に絡んで、それ以上言葉が出ない。びっくりしすぎて体も動かない。
「禍々しいモノを寄せやすくなった」
津田さんの声。もう嗄れていない。良かった。
……うん、マットレスを捨てる理由を聞いたんじゃないんだけど、まぁ、いいや。
お祓いとかするのかなと思ったらそのまま粗大ゴミの料金シールを貼っている。
「これで眠ると妙につかれる」
津田さんは僕を見て言った。
「8月某日、キミが使って以来な」
……え?
聞き返す僕にひらりと手を軽く上げ、津田さんは廊下の角を曲がって立ち去った。
はっと我に返って追いかけたけど、どこにも姿はない。
教授室に駆け戻り、鍵を開ける。誰も居ない。マットレスも消えている。僕はもう一度、ごみ回収コーナーに走った。確かにそこに、マットレスが立てかけてある。
お手洗いに行く前には確かに部屋の定位置にあって。僕は教授室に鍵を掛けて出て……今、鍵を開けて入った。
じゃぁ、誰が、いつ。
近付いて、津田さんのマットレスにそっと触れてみる。料金シールで半ば隠すように、なにか別のモノが貼られているのに気付いた。思い切って、シールをめくってみた。
そこに貼ってあるのは、不思議な模様と読めない字が筆で書かれた御札のような何か。
それが急に黒ずんで、しわくちゃになって剥がれ落ちた。
拾ったそれは今、コピー用紙に貼り付けてチェストの上に飾ってある。
これを皆に見せたら、……驚くだろうな。
僕の赤いデイパックの鈴が、りんと笑うように鳴った。




