02:禁忌の科学者
薄暗いの部屋の中で、白衣の女性が椅子に腰かけていた。長い間研究に没頭してきたせいか、頬はこけ、髪はぼさぼさになっている。身なりを整えれば非常に美しい女性なのだが、彼女はまるで気にも留めていないようだった。
「ふふ、ついに完成する! ようやく私の夢が叶う!」
充血した目をぎらぎらと輝かせながら、女性は目の前にある培養液の入った筒を眺めていた。その中心には、真っ白な女の子が胎児のように丸くなり、眠りながら浮かんでいた。見た目は三歳ほどで、胎児というにはかなり大きい。
「残念ですが、その夢は見果てぬ夢になってもらいましょうか。皇博士」
白衣の女性――皇博士の後頭部に硬い感触が伝わる。それが銃の類であることは博士にもすぐ理解できた。博士は一瞬だけ眉間にしわを寄せたが、すぐに諦めたようにため息を吐き、苦笑した。
「やれやれ、私の研究を突き止めるとは恐れ入ったよ。政府の犬はよほど鼻が利くようだ」
「いいえ、あなたの偽装工作は完璧でした。私と同じような立場の人間はいくらでもいますが、ここへたどり着けたのは私だけです」
銃口を突き付けているのは、身長180近いすらりとした金髪の女性だった。防護服に身を包んだ無駄のない均整の取れた肉体と、猛禽のような鋭い目は、その優秀さを内面からにじませていた。
「お褒めにあずかり光栄。で、君は私を殺しに来たのかい?」
「いえ、あなた自身と研究素体、およびデータの確保です。素体に関しては可能であれば破壊をしろとのことです」
淡々と紡がれるその言葉を聞くと、皇博士は舌打ちをした。
「ひどいな。国民を守るのが政府のエージェントの仕事じゃないのかい? 私もまた国民だよ? それに何も危険な事はしていない。素体だって私の遺伝子をベースにしてる。つまり、目の前のこの子はかわいい愛娘というわけだよ」
皇博士は銃口を無視し、反り返るように顔を向けた。それを見た長身の女性は顔を顰める。
「こんなおぞましい物を作って! あなたの実験は人を猿に戻す大罪ですよ!」
吐き捨てるように政府のエージェントは言った。目の前に浮かんでいる白い子供は、可愛らしい少女だ。とても危険な存在には見えないが、彼女の調査が正しければ、人類にとって最も危険な存在になりうるものだった。
「そんな目くじらを立てなくてもいいじゃないか。男の遺伝子をほぼゼロから復元するのは本当に大変だったんだよ? なにせ『人類』が全力で滅ぼしたのだからね」
皇博士は悪びれずそう答えた。彼女の言う通り、培養液に浮かぶ少女の体内には、紛れもなく男性の遺伝子が組み込まれていた。男女の因子を持つ、数千年前は当たり前だった『人間』だ。
だが、彼女たちが生きる現代は違う。西暦3000年頃、人間は同性同士で子供を作ることが可能になったのだ。そうなると、子を産む能力を持っている女性のほうが優位となった。
さらに時代が進むと、女性の身体能力が上がり男性とほぼ同等となり、さらに機械技術が発達すると、この傾向はさらに強くなった。こうして男性が追いやられていく中、とどめとなったのはある科学者の一言だった。
『アリやハチは、女王を主体としてメスのみで構成されている。ごくわずかに存在するオスは、子を成すためだけに存在している。だが、我ら人間は、女性同士で種族を維持できるまでに進化したのだ、ならば、いつまでも虫と同レベルではいけない。人類はより高みへ進化すべきである』
これは当時は大バッシングをされたが、男性の優位性というものがほぼ無い状態だったこともあり、遅効性の毒のようにだんだんと浸透していった。
その結果、始めは男をなるべく産まないようにという流れになり、最終的には、はじめから生まれないように遺伝子を改良するという研究が進められた。
それから数百年もしないうちに、人間は男というものが生まれない生き物になった。男が生まれる遺伝子を徹底的に潰したのだ。それから今に至るまで、男は恐竜やマンモスのように、かつて地球上に存在し、絶滅した種族の仲間入りをしていた。
「あなたがしている事は、人が歩んできた進化の歴史を逆戻りさせる行為です。第一級国家反逆罪として拘束させていただきます」
「まったく……まだ未完成だというのに気が早いね。男に改良するどころか、色素すら沈着していないんだよ?」
「細かいことは拘束してからゆっくり尋問させていただきます」
これ以上話す事は無い。エージェントの女性はためらいもなく引き金を引いた。彼女が持っていたのは改良型の銃型スタンガンだ。相手を傷つけることなく気絶させるレベルから、ゾウでも即死する威力まで調整が可能だ。
今回の目的は皇博士とデータの確保。これは完了した。残るは――。
「さて、こいつをどうするか」
エージェントは気絶した皇博士を念のため拘束し、電子化された研究成果を小型端末に収めた。そして、培養液のカプセルの方を見た。この優秀なエージェントは、研究レポートを見ただけで、ここの研究施設の機材の操作を完璧にマスターしていた。
少し逡巡した後、彼女は手順通りにカプセルを起動することにした。そのまま破壊してしまうと、隠されている研究成果などがあった場合、回収不能になるからだ。
手順通りにカプセル維持装置を操作し、中の培養液がゴボゴボと抜けていく。そうして、生まれたばかりの赤ん坊のように、液体に塗れた小さな女の子だけが残された。
「ん……」
白い少女が小さく身じろぎすると、エージェントは即座に銃を構えた。強化ガラス製のカプセルが音を立てて開き、中身がむき出しになる。
それと同時に、少女は目を覚ました。何が起こっているか分からないのか、眠そうに目をこすりながら、ゆっくりと起き上がる。そして、彼女を始末しにきた存在と目が合った。
エージェントは一瞬悩む。この個体を捕獲した方がいいのかもしれないが、皇博士がどんな細工をしているか完璧には把握していない。脅威となる危険性もあるので、この場で殺処分するほうがいいだろうか。
そう考え、遠距離モードに切り替え引き金を引こうとした瞬間、少女はこちらに微笑みかけた。ただそれだけの事なのに、冷徹なエージェントの心にためらいが生まれた。
その笑みが、あまりにも無垢で純粋だったからだ。もしもこの世に天使というものが存在するなら、きっとこんな笑い方をするのだろう。そんな馬鹿らしい事すら考えてしまった。
その一瞬の躊躇が、白い少女の発言を許してしまった。
「ま、ま……」
「ま、ママ?」
喃語に過ぎなかったが、その言葉がなぜか心にスッと入り込んでしまった。エージェントは銃を構えたままだというのに、その危険性が分からない少女は、笑顔のまま、よちよちと近寄ろうとした。
だが、つい先ほどまで培養液に漬け込まれていたので、うまく歩けず、ぺちっと音を立てて転んだ。半泣きになりながらも、それでも彼女は近づいてくる。
そうして足元まで来ると、もみじのような小さな手で、防護服の裾をきゅっと掴んだ。大変な偉業を成し遂げたように、少女は誇らしげににっこり微笑んだ。
「……悪いが、これも仕事でね」
かなりの時間を置いて、エージェントの女性は少女の眉間に銃口を突き付け、引き金を引いた。少女は一瞬で動かなくなった。
そうしてエージェントは、皇博士と研究記録、そして研究所をそのままにして、動かなくなった素体を回収した。
「ぅ……?」
「気が付いたか?」
どれほどの時間が経ったか分からないが、白の少女は、気が付けば粗末なベッドの上に寝かされていた。辺りをきょろきょろと見回すが、今まで住んでいた金属の壁に覆われた実験室ではない。それとは真逆の、蔦やコケに覆われたどこかの廃屋のようだった。
少女が目を開けると、先ほど銃を撃った金髪の女性の顔が見えた。仕事中は能面のような表情だったが、今はどこか安心したような、少しだけ穏やかな顔つきだった。
「ここは『魔の島』と呼ばれている。数千年の間に産廃や動物が不法投棄された結果、独自の生態系が作られ、死神すら近寄りたがらない場所と言わている」
「ふぇ?」
「……ま、分かるはずも無いか」
まだ言葉もろくに話せない少女は、自分に何が起こっているのかもわかっていないだろう。そんな少女にご丁寧に説明してしまったことがおかしいのか、女性は苦笑した。
攻撃を加えたにも関わらず、一切の怯えや敵意を見せない白の少女を、エージェントは高い高いの姿勢でひょいと抱き上げた。
「あいにく私は仕事は遂行する性質でね、お前の生みの親……ママと言うべき存在は引き渡した。だから、もう会うことは出来ない。そして、私はお前のママではない」
「まま……」
言っている言葉は理解できずとも、雰囲気で良くないことが起こった事は何となく分かったのだろう。白い少女は目に大粒の涙を浮かべる。
だが、その直後、長身の女性が白い少女をぎゅっと抱きしめた。温かな体温が伝わり、少女は泣きそうなことすら忘れた。
「お前のママは皇博士だ。だが、私がパパになってやる」
「ぱぱ……?」
「名前が必要だな。お前はこの国、いや、世界を変えるかもしれない存在だ。帝とでも呼ぶとするか」
この時、白の少女はミカドとなり、師であり父である存在を得ることになった。