第1章 第2話 スタンスの相違
〇環奈
「めんどくさ……」
トイレの扉をわずかに開いたあたしは、視界に入った光景を見て思わず小声で口走ってしまった。
「もっとしっかりしねぇと」
絶望が滲み出た表情で鏡越しに自分と見つめ合っている小野塚さん。顔から垂れる水滴はまるで涙のようで、とてもじゃないが見ていられない。
でもハイテンション&超ローテンショングループの会話に上手く入れず水を飲み過ぎてしまった。申し訳ないけど気を遣える余裕もあまりない。いやでもなぁ……。ここに入っていくのはなぁ……。
「……あ、水空さんもお手洗い?」
しまったそわそわしている内に気づかれてしまった。しかも振り返った小野塚さんの顔は一応笑顔なものの、明らかに無理している。気まずい気まずい気まずい。ていうかトイレしたい。
「そんな感じです……。じゃ、そういうことで……」
よし、なんとか逃げられそう。このままこのまま……。
「ねぇ、水空さん」
「ひゃい!?」
せっかく誤魔化せそうだったのに、個室に入るすんでのところで呼び止められてしまった。くそー、なんなんだよもう!
「水空さんはいつからバレーやってるの?」
なんなのそのどうでもいい質問。敵意剥き出しにしすぎだって。
「小四からですけど……」
「そっか……わたし小3から……。わたしの方がバレー歴二年長いんだね……。それでこれって……」
なにこの人地雷ばっか! めんどくさい!
「別に上手さにバレー歴は関係ありませんよ……?」
「そうだね……関係ない」
いつの間にか小野塚さんの顔からは無理な笑顔すら失われていて、馬鹿みたいに真剣な顔であたしを強く見つめていた。
「上手い方が、コートに立てる」
そう言われてしまったらあたしも意識せざるをえない。どちらがリベロになれるのか。どちらがリベロになるべきなのか。そして。
「いえ、あたしは遠慮しておきます」
その二つとも、あたしにとってはひどくどうでもいいということを。
「あのー……お気を悪くしないでほしいんですけど」
「なに?」
やってしまったと気づいた時にはもう遅い。もう取り繕うこともできなくなった真剣な表情が、失言をしてしまったあたしを睨みつけている。こういう真面目タイプにこういうことは言っちゃいけないってわかってたのに。でも……言ってしまったものはもうしょうがない。このままずっとうじうじされるのも嫌だし、伝えておこう。あたしのスタンスを。
「あたしはポジション争いとか、試合に勝とうとか、そういうのどうでもいいです。ただバレーがやりたいだけなんで」
そう。あたしの望みはただ一つ。バレーがしたいだけ。そのためにバレー部に入った。ひどく当然で、でも部活動では認められない理由。
「バレーボール。ボールを持つことが許されない競技で、高いネットを挟んで戦う、絶対的に高さが重視されるスポーツです」
「……そうだね。だからわたしたちみたいな小さな選手は、リベロ以外に生きる道はない」
「違います。あたしたちこそがバレーボールの真髄なんです。だってバレーボールはでかい選手が勝つスポーツじゃない。ボールを落としたら負けるスポーツなんですから」
バレーを少しでも知っている人は、決まって身長がなければバレーはできないと言う。でも実際には違う。たとえ全員100㎝だとしても、競技は問題なく成立する。できなくなるのは、ボールを落とした時だけ。
「どれほどの才能があろうとも、どれだけ体格に恵まれていても、ボールを落とせば終わり。持つことも許されないのにですよ。でもだからこそ、レシーブが輝く。ボールを落とさなければプレーは続いていく。ラリーが長引けば長引くほど会場が盛り上がって、どんどん息が苦しくなって、だからこそ拾えた時はうれしくて! ……だからリベロが好きなんです。バレーが好きなんです」
気づけばあたしも小野塚さんと同じように取り繕うことができなくなっていた。当たり前だ。大好きなものを語っているのに、我慢することなんてできない。それ以外に必要なものなどないのだから。
「……だったらどうして試合に勝つのがどうでもいいなんて言うの?」
「それは結果の話だからです。あたしはただバレーがしていたい。勝っても負けても、バレーをやれるだけで満足なんです。それ以上のものはいらないんです。……でもそれじゃ、だめなんですよね? だったらいいです求めません」
強い方がコートに立てる? だったら2mの人間をコートに立たせればいい。ボールを拾うことを置いておけば、たぶんこの部の誰よりもバレーを知らない巨人の方が遥かに強いのだから。
「やりたい人がやればいいじゃないですか。もっと楽しく気楽にいきましょうよ。あたしは練習試合に出させてくれればそれで満足です。公式戦は全部譲ります。あたしにとってはどっちも同じバレーなんで」
「譲る? なして上から目線で言ってんだ?」
「いやだって。あたしの方が上手いじゃないですか」
小野塚さんの上手さは認める。あのレシーブは間違いなく全国でも通用する。ただ相手が悪すぎる。
「本当に嫌なんですよ。こういうギスギスしたのとか、人間関係とか先輩後輩とか。全部バレーに関係ない」
「……言いたいことはわかった。でもその上で意見は変わらない。わたしはあなたより上手くなる。それで正々堂々あなたに勝つ」
「……勝つって、そんな風に言えるほど簡単なものじゃないですよ。本当に勝ちたいってことがどういうことなのか、あなたは全然わかってない」
これ以上は平行線。どちらも相手のことを理解しようとしないのだから、話すことなんて何もない。ただ一つ、はっきりしたことがある。
「わたしは」
「あたしは」
「「あなたが嫌い」」