第1章 第9話 スランプ
あたしのはるか頭上から細く長い腕が振るわれる。遠心力を活かした鞭のような一打。ついこの間まで初心者だったはずなのに、もう充分経験者と呼べる域まで達している。185cmという長身、さらにはセンスもある。きららちゃんにはバレーボールにおける天性の才能があるようだ。
だがまだ才能が行き場を見つけただけ。打つコースは素直でボールの落下地点はあたしの三歩右側だと助走段階からわかっていた。
それがわかってるのに、身体が動かなかった。スローモーションのようにも感じたスパイクはあたしの予測通りの地点に落ち、相手のポイントとなる。
「やりましたーっ!」
得点を決めたきららちゃんがネットの向こう側で跳ねる。称賛するしかない見事な速攻だった。
「上手くいったね、翠川さん!」
「はいっ! 小野塚さんのトスのおかげですっ!」
「……今のは取れた球なんじゃない? 水空ちゃん」
「……すいません、扇さん」
今あたしたちがやっているのは、2対2という練習。通常より小さくコートを作り、文字通り二人でチームを組んで試合をするというものだ。普通のルールと違うのはポジションの決まりがないことと、ローテーションがないこと。つまりリベロのあたしでもサーブやスパイク、ブロックをすることになる。
今の組み合わせはあたし、扇さんチーム対きららちゃん、小野塚さんチーム。この気まずすぎる対戦は23-11と大差をつけられて負けていた。
あたしが花美高校のリベロに決まってから今日でちょうど一週間。どうやら小野塚さんは吹っ切れたようで明るい顔をしているし、扇さんも後輩のあたしを気にかけてくれている。初心者ながら人数の関係でレギュラーに選ばれたきららちゃんは伸びが凄まじい。
あたしだけだ。あたしだけが、まだあの体育倉庫の中にいる。
「ナイッサーですっ! 小野塚さんっ!」
バレーは得点を取った方がサーブ権を持つ。今度のサーブは小野塚さんの番。リベロ体質のくせにこの人のサーブが中々厄介で困る。
「いくよっ」
サーブ位置に立った小野塚さんがボールを空へと短く放る。そして数歩歩いてジャンプし、ボールを打つのではなく、押し出した。
緩いスピードで飛んでくるボールの到達地点は、ちょうどあたしの立っている辺り。でもこの予測はあくまで予測でしかない。
なぜならこのボールは、不規則に曲がるから。
「……っ」
アンダーハンドでボールを捕えようとしたその瞬間、突然ボールの勢いが衰えた。推進力を失ったボールは構えていたあたしを嘲笑うようにぽとんと足下に落下する。
これが小野塚さんのサーブ、ジャンプフローターサーブだ。
厳密に言えば無回転サーブ。ボールを打つ時に回転をかけないことで空気抵抗の影響を強く受けさせ、ボールの軌道を伸ばしたり落としたりすることができるサーブ。その動きは読みづらく、熟練のリベロでも完璧に取ることは難しい。でも、今のは……。
「すごいです小野塚さんっ!」
「でしょ!? このまま一気に勝ちにいくよ!」
くそ、あたしが二連続でレシーブをミスるなんて……。向こうのコートの二人のはしゃぎっぷりがむかつく。
「水空ちゃん、今のは普段なら……」
「わかってますよ! 次は取ります!」
小野塚さんのジャンプフローターのレベルはそこまで高くない。普段のあたしなら確実に取れるはずだ。
普段の、あたしなら。
「もう一本ですっ!」
「はっ」
小野塚さんのサーブが再び飛んでくる。でもわずかにボールに回転がかかっている。たぶんこの球はそこまで変化することはない。
だとしたらベターでいこう。ジャンフロのレシーブのコツはオーバーハンドで取ること。ボールの変化が起こる前に、高い地点からボールを捕える。……いや。それは、普段のあたしではない。
「ふぅっ」
オーバーで構えていた腕をアンダーで組み直し、ボールを真正面から捕えようとする。しかし今度はさっきよりもボールが伸び、あたしの胸に当たって床へと転げ落ちた。これで25-11。ゲームセット……あたしの負け。
「水空ちゃん、無回転はオーバーの方が……」
「……わかってます。わかってるんですよ、そんなことは」
扇さんのアドバイスを流してコートを出る。オーバーハンドの方がいいことなんてわかりきっている。でもできないんだ。あたしはオーバーハンド全般が苦手だから。苦手だから全く練習してこなかったから。
「……くそっ」
汗を拭いたタオルを床に捨てるように投げて壁を力いっぱいに叩く。物に当たることがよくないってこともわかっている。
今までもジャンプフローターを打ってくる選手はいた。でもそれは全部アンダーで処理できていたし、何の問題もなかった。
でもこれからは舞台が変わる。高校になって無回転を打つ選手は増えるだろうし、そのキレだってより増してくる。その時あたしは今までのようにボールを上げられるだろうか。世界レベルと呼べるだろうか。コートにたった一人しかいられないリベロとして選ばれるだろうか。……いや、今はそのことすらどうでもいい。
「くそくそくそくそくそくそくそくそ!」
あたしは劣るわけにはいかないんだ。小野塚さんからリベロを奪ったあたしが、その小野塚さんの下でいることは許されない。小野塚さんの夢を奪い、扇さんの想いを踏みにじったあたしには、小野塚さんより上でいる義務がある。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
疲れていないのに息が上がる。頭が真っ白になって視界が薄れる。こんな気持ちになるのは初めてだ。上手くならなければと追い込められるのは初めてのことだった。
今まではただバレーをやっているだけでよかった。それだけで全部上手くいった。でもあたしに比肩するリベロが現れて、その人からたった一つの枠をわずかな差から奪い、スランプに陥っている。そんなことは許されない。絶対にだめなことなのに……!
「うぷっ……」
あ、やばい。また、出る。口から泡が……あたしの弱さの証が……!
「やっほ。相変わらずカニさんやってるねぇ、環奈」
あたしがうずくまり扇さんたちが駆け寄ってくる中、体育館の入口から聞きなれた声が飛び込んできた。それはここにいるはずのない、かつてのチームメイトの声。そして。
「インハイ予選初戦の相手ってことで。挨拶しに来たよ」
初戦の相手が前年度の県予選優勝校だということが確定した。




