僕と優
人は何の為に産まれ死んでいくのか
案の定僕の午後は運命論やらを考えて行くうちに誰にも答えなんてだせない哲学的な問いへと辿り着いた。
人の為と書いて偽りだよ
と言ったのも親友の言葉だった。
結局は皆自分を優先して動いていると捉えてもいい言葉。
今回、ペンライトでのサプライズは流星風流の秋田憂ちゃんを喜ばせると共に会場にいた。
憂ちゃん推しの自己満足の比率は確かに高い。他のメンバーと、そのファンの気持ちはそっちのけである。
現に握手会で嬉し涙と感謝の言葉をいただけた僕の心も何とも形容しがたい達成感、満足感で満ちている。
偽 への僕の考え方が正しければ、我が親友は今回の件、何が自分の利益に繋がったのだろうか?
考えてもわからないので腹いせに現代文の授業で先生にわざと戸惑うような質問をしてやった。
「『下線部アとあるが、この時Aはどういった気持ちだったのか。下線部Aの心情を書きなさい』とありますが、これをどこかで作者が明確にしているのですか?あくまで前後の文と作者の傾向からの予想にすぎないと思うのですが、明確な答えはあるのでしょうか?この作品がフィクションである以上余計に作者にしかわからないと思いますが、どうなんでしょうか?」
挑発的ではなく、真剣に疑問を抱いてしまったような演技もあってか、案の定現代文の先生は戸惑い始めた。
こんな質問、教師を長年やっていれば何度かされていそうなものなのに。
それともタブーってやつで、今まで誰も思ってはいても口にしてはいけない言葉だったのだろうか。
今度、優に聞いてみよう。少なくとも、今威圧的にも情け無く別の話題に変換したこの中年よりは魅力的な自論を説いてくれるはずだ。
今日だってあいつの言葉で僕の思考はいっぱいになっている。
いや、今日だけの話しじゃないか。