六十五話 敵対
「断る」
この一言が何をもたらすのか、分かったうえでの返答だ。
黒妃レナの誘いを断る。それはつまり、決別を意味する。
堂々と言い放った俺と違い、彼女は表情すら変えず立ち止まったままでいる。
それでも彼女の周りは、異様に歪んで見えた。
幻覚なのは分かっている。だがレナから発せられる敵意は、多すぎて世界すら飲み込めそうだ。
幻覚は圧倒的敵意からくる恐怖だろう、俺の足は、勝手に後退しているのだから。
「動いていいと言ったかしら?」
丁寧な口調の中には、殺意がこれでもかと詰まっていた。
捕食者に狙われた獲物の気持ちがよく分かった。
俺にとってはレナこそが、天敵なんだ。
「そんなに汗ばむなんて……。後悔しているのかしら? それならもう一度だけ機会を与えてあげる。私のものになりなさい。部下や配下にしようというわけじゃないの。貴方には、私を慰めてもらうつもりなだけ。悪い条件じゃないでしょ?」
慰めるという意味を身体で表現しながら、レナは具体案を提示した。それでも俺の答えは変わらない。
「断る……」
「そう」と呟いたレナは、全身が黒く染まったように思えた。
「なら死になさい」
直後。レナは詠唱を開始した。
三秒という時間。俺の突進なら、余裕で口を塞げる距離。
全力で太股を叩き、怯んだ脚に喝を入れる。
走るではなく、倒れ込むように直進する。
そのまま手を伸ばし、魔法光が集うレナの口を掴む。
それで終わる。はずだった。
脚。
レナの長い脚が、突進する俺の目の前に現れた。
「貴方の考えは筒抜けなのよ?」
魔法を唱え終え、レナは蹴った。
俺の顔を踏みつけ、遠くへと飛ぶために。
跳んだレナを後押しするように風が舞った。
風を利用し届かない高さまで、レナは飛び上がってしまった。
五メートルはある。
その高さは、首の角度を上げなければ、レナの動きさえ追えやしない。
一人でありながら、軍隊に匹敵する強さの黒妃。レナの実力は空中でこそ発揮される。
展開は最悪だ。
俺に攻撃手段はない。なのにレナは自由に俺を攻められる。
唯一の可能性は、レナが座っていた岩。
あそこを足場に……。
「霊よ。霊は魂へと昇り我が目下の標的を打ち砕け。激水」
驚いた理由は二つ。
一つは俺が足場にしようとした岩が、突如として現れた多量の水に打ち砕かれたこと。
もう一つは、レナが発した単語だ。
タマシイとタマシイ。そしてゲキスイと。
もし俺の、勘違いでなければ……。
魂と激流の激と、水ということになる。
他の聞き取れない部分は不明だが、レナは確実に、漢字を発している。
「漢字? どういうこと? 何故貴方が神言を知っているの?」
俺の思考を読み取ったレナも、同じ考えに辿り着いたようだ。
「知らない。俺の国の言葉と、一致したに過ぎない」
「……異世界」
レナは呟き、願ってもないことを言い出した。
「取り引きをしましょう」
「取り引き?」
「そう。取り引きよ。知らないようだから教えてあげるけど、私の目的は魔法の蒐集なのよ。貴方が魔法を使えなかろうと、貴方が知っている言葉には価値がある、探している神言があるかも知れない。だから取り引きをしましょう」
「取り引きというからには、俺の見返りは何だ?」
「貴方を殺さず、目的通りに立ち去ってあげるわ」
「取り引き、ね。……悪いが信用出来ない。平気で町を焼け野はらにする人物を誰が信用する?」
偶然とはいえ、ようやく生まれた交渉のチャンスだ。
確実なものにするためには、誓約が必要だ。
「そういうこと……。じゃあこうしましょう。私と決闘なさいシュウ」
「決闘?」
「規約は簡単、私に触れられれば貴方の勝ち、諦め、降参すれば私の勝ち。これでどう」
ギャンブルってわけか……。
「飛んでるあんたに俺は触れない。そんなの公平じゃない」
「決闘が始まったら降りてあげるわ」
……それなら。
「決まりね。私が勝ったら貴方ごと貰うわ。貴方が勝ったら私は立ち去る。これでいいわね」
負ければ終わる。そう思い、頭の中をルナとフィオで埋め尽くす。
「……誓約する」
「私も自身の発言に誓約致します」
準備は整った。あとは勝つだけでいい。
レナは宣言通り地上に降りた。百メートルほど離れた、手頃な距離に。
「……だよな」
レナに必要なのは俺の記憶。喋れるならそれでいいはずだ。
従って彼女が俺にする攻撃方法は、切断系だろう。誰だって手足が無くなれば、降参するしかない。
レナに魔法光が集うのを確認し、何も見えないがとにかく避けた。
跳んだり横に転がったりと、その位置から離れる。
離れる度に、俺の居た位置を衝撃が襲う。
もしタイミングを誤れば、俺の手足は切り落とされていた。
恐怖と戦いながら、少しずつだが前進していき、半分の五十メートルは来たと思う。
余裕たっぷりだったレナも、ようやく真剣になった。
「殺さないようにするのは大変なのよ! 大人しく降参なさい!」
迫る俺に対し、レナはかなり苛立っていた。
喋るその隙こそ、最大のチャンスとも知らずに。
走り、一気に距離を稼いだ。
魔法光が見えた瞬間、横に転がり回避する。
残り二十メートル。
勝利は目前。
レナが呪文を唱え、魔法光の動きからどこを狙うかまで分かるようになった。俺にはもう、レナの魔法は当たらない。
「……分かったわ」
俺の思考を読んだのだろう。悔しそうに言った途端、レナは風魔法を連発した。
矢継ぎ早に繰り出される魔法の前では、簡単には攻められなかった。
それでも少しずつ可能な限り詰め寄り、違和感に気づいた。
魔法の風ではなく、自然の風向きが変わったことに。
「もう遅いわ」
レナが唱えた呪文の最後は、カエンだった。
染み付いた行動は火球も躱したが。
風向きは俺を取り巻くように渦巻いていて、放たれた火球を避けたところで意味はなかった。
全身を炎が包んでいた。




