五十九話 大会 決勝
……やばい。こいつはヤバイ。
ファングは試合開始の掛け声とともに、一直線に走りだした。減速を一切せず、勢いはそのまま破壊力に変換される。
単純極まりない、ただのパンチへと。
なんの技術もフェイントも無い。そんな速いだけのただのパンチを、俺は躱すだけで精一杯だった。
モノが違った。
身長も体重も、階級的な開きなどほとんど無い。
数値でいえばファングは、百九十センチ、九十キロ。そんなものなんだ。
……なのに。
スピードもパワーも何もかも。ありとあらゆる身体能力の差が、開いていた。
脚力にしたってそうだ。俺とファングの距離はだいぶ有った、百メートルは有ったと思う。
ファングはその距離を、八秒未満で駆け抜けていただろう。
……人類の世界最高記録は九秒だ。
つまりファングは、――人間じゃない。
人間の身体能力を百とするなら、人狼はおそらく百五十……。
タイガを相手に鍛えてなければ、俺は躱すことも出来ず、一撃で終わっていた。
そんな俺の意図など知らず。
「今のを躱すか……」
ファングはさらに物騒なことを言い出す……。
「もう、手加減せんぞ?」
はったりだったらどんなに嬉しいことか。……残念ながらはったりでは無い。
ファングは本気をだすため、些細ではあるが手の握りを変えた。
たったそれだけの変化が、最悪の形になった。
爪。
人のように横に平べったい爪ではない。縦長で切り裂くための、獣の爪が剥き出しになったんだ。
「……やっべぇ」
巨人のブルのように遅いなら、掴むことも出来よう。
「……行くぞ!」
タイガのように行動がワンパターンなら、対処も出来る。
ファングは素早く、多彩だった。
獣のようなスピードと、人類の知性を併せ持つ、故に人狼。
対処など、間に合わない。
ファングの連撃の前に、俺は成す術が無かった。
防戦すらままならず。
弾き、逸らし、躱し、防いでも、ちゃんと出来ていたのは三回に一回。
弾きは甘く、次の逸らしでダメージを追う。防げば防いだで、その防いだ部位を切り裂かれる。
回避以外は全て、ダメージを与えられている。
急所だけはなんとか守り、凌いでいるにすぎない。
その上、爪だけに集中していれば。
「ガラ空きだ!」
「おぶっ!!」
――重い蹴りが待っていた。
蹴り飛ばされ地面を転がり、止まった場所に胃液を吐き出す。
「我の連撃をここまで耐えたのは、貴様が初めてだ」
少しは疲れてくれたのだろう。走り出さずに歩いて、俺の元に向かっている。
かなり飛ばされ、転がったようだ……。
少しだけの休憩時間。俺はこの時間を、状態確認に費やした。
爪の連撃を食らい続け、全身から出血している。
胸も腹部も腕も脚も、顔に至るまでの全てが、傷ついている。
前腕は両方ともヤバイ……。
血が常にポタポタと、滴り落ちている。
施設の最後。
熊との戦いを思い出す。
虎と殺り合った、森での戦いも思い出した。
ファングは良いとこどりだ。
力もあって速さもある。
今の俺では、絶対に敵わない。
それでも、負けられない。
ゆっくりと、口を開く。
俺には目的が有り、死ぬつもりは無い。それでもやっぱり、あいつに代わるのは抵抗があった。
赤大陸に来てからは、あいつとは一度も交代していない。
あいつが何より、憎いから。
海賊も憎いが、あいつが一番憎い。
フィオが死んだ一番の原因は、あいつだから。
あいつがあの女に拷問さえしなければ、フィオが狙われることはなかった。
悪いのは、あの悪魔だ。
ファングが膝立ちになった、俺の目の前に到着した。
嫌な選択だ。
憎いあいつを頼らなければ、俺は絶対ファングに勝てない。
背に腹は変えられない。
俺は死ぬわけにはいかない。――大事な人が待ってるから。
開いた口を、力強く閉じた。
「死ね!」
ファングはルールを破り、喉元へ爪を振るう。
俺では対処不可能な一撃だ。
あと一歩遅ければ、大量出血は免れなかった。
振るわれたファングの腕は、振るわれた初めの位置より、大きく弾き飛ばされていた。
「……犬っころの分際で、好き勝手しやって。嘗めんてんじゃねえぞ犬っころがッ!!」
まだ身体は変化を終えていない、終えていないがあいつは、我慢できずにファングを蹴り飛ばした。
片足の喧嘩キックで。
しっかりと両腕でガードしていたが、衝撃力に変わりはなく、ファングは俺のようにぶっ飛んでいった。
変貌を遂げるには、十分な時間を稼げるほどに。
筋肉は膨張を終え、痛みも消えた。
発想も勝つための算段を次々と導き出す。
次々と変貌を遂げる中、観客がどよめき出した。
血塗れの俺の、笑顔を見て。
観客がどよめくのも頷ける。
歯茎が全て見えるほど。不適に、大胆に、笑っているから。
「暴れるぜ」
観客のどよめきなど意に介さず、ファングを目掛け突進を開始した。
ファングが迎撃のために動いた瞬間、世界のスピードが遅くなる。
ファングが放った貫手をすれすれで躱し。突進した勢いを乗せた一撃が、ファングの脇の下へ深々と刺さった。
貫手を躱し貫手でを刺し込む。何ともこいつらしい発想だった。
俺が死にかけた相手は、二発で終わった。
終わったはずなのに……。
「すげぇな犬っころ。よく立ってやがるな……」
脇への貫手を食らいながら、ファングは攻撃を放った姿勢のまま立っていた。
本来なら全身が痺れ、立ってなどいられないはずなのに……。
ファングの精神力は凄い。けれど、動けないことに変わりはない。
あいつは動けないファングの肩を叩き、悠然と背後を殺った。
「森獣並みの速さと力、そしてテクニック。ここまでは合格だ。……だけどよぉ、反射力が足りねぇ。全然足りねえ。残念だが落第だ。罰として――じっくり殺してやる」
ファングの耳元でそっと囁き。
宣言通り、処刑が始まった。
動けないファングの胴体へ、両脚が蛇のように絡みつき、腕ごと胴体をロックした。
「……便利な口元だなぁ、おい」
自由な両手が決めにかかる。
右手はファングの顎の下を通り、首を前腕と二の腕で締め付ける。手はしっかりと左腕掴み、さらに力を加えていく。
左手はファングの後頭部を全力で押し込み、殺す準備は整った。
裸絞め。
最もシンプルな殺人技だった。
猶予は五秒。
そこから先は意識を失い。解除は不可能になる。
ファングが生き残るには、五秒しかない。
俺はファングの死など望んでいない。勝てればそれで十分なんだ。
歯痒い。また俺は後悔している。
こいつと代わったばかりに、また命が失われる。
海へと散ったフィオのように、悪魔はまた、無駄に命を奪おうとする。
それが許せなかった。
……けれど。今の俺には何も出来ない。
誰かがファングを救ってくれることを、祈るばかりだ。
「誰かではない。おぬしが救え」
聞き覚えのある声が、俺の、背後から聞こえた。




