五十一話 餓鬼
カニバリズム。
人を食べる行為。精神疾患の一つ。
俺が読んだ書物には、はっきりとこう書かれていた。
――治療は不可能。と。
「シュウ兄。……ぼぅを、見ないで……」
「……青葉なんで。どうしてこんなことを!?」
俺の質問に対し、青葉は背を向けたまま俯き、血溜まりに座り込むだけだった。
こんな現実は受け止めたくない。
そう思いながらも脳内では、記憶を遡り異常行動の答えを探していた。
答えない青葉の代わりに、記憶は答えを導き出した。
原因はあの島だ。
あの島に有ったあの骨は、綺麗過ぎた。
繋がった。
記憶に残る島の骨と、青葉の異常行動が結びついてしまった。
「……青葉、……お前」
青葉はきっと、あの島で生き残るために。
「――アントを食べたのか?」
青葉は鋭い視線を俺に向け、泣き出した。
ありがとう。白隠。
白隠に出会っていなければ、俺は青葉を見捨てていた。
専門家が治らないと書いていたから。
そんな下らない理由で諦め、立ち向かおうともしなかった。
だが今は違う。
専門家は治らないと書いた。
だからなんだ?
カニバリズムと診断された症例はとても少ないんだ。
専門家の奴らは成功しなかっただけだ。
奴らは俺じゃない。俺は奴らとは違う。
治らないかどうかは、俺が決める。
俺は――青葉を救う。
「止めろ青葉」
血溜まりに座り込む彼女の腕を掴み、振り向かせた。
振り向かせた青葉の腹部は、異様に膨らんでいた。
「……嘘だろ?」
血塗れの身体に、痩せ細った手足、膨らんだ腹部。
これではまるで、――餓鬼じゃないか……。
血溜まりの元である成人男性は、三分の一が無くなっていた。
「……もう止めろ。俺に見るなと言うなら、もう止めるんだ青葉!」
青葉の涙が止まり、その表情は、暗いものへと変わっていった。
「……シュウ兄? ぼぅを止めるの? どうしてぼぅのごはんの、邪魔をするの?」
青葉は、青葉では無かった。
「……シュウ兄は優しいんだよ? 優しいシュウ兄は、ぼぅを止めたりしない!!」
俺があいつと交代するように、青葉の身体も変貌を遂げる。
膨らんでいた彼女の腹部は、急激に均されていく。
腹部が均されると、彼女を掴んでいた手に何かが流れ込んできた。
消化した栄養が全身に巡るように。
青葉の枯れ枝のようだった手足は、どこにもない。
彼女の身体は細身ではあるが、鍛え上げられた肉体へと、変貌していた。
まともでは無い。人間の消化吸収能力が高いとはいえ、こんなことはあり得ない。
青葉は俺の手を振りほどき、跳躍した。
跳躍した青葉は、バスルームの上の四隅へと、ぴつたりと張り付いていた。
「可怪しいと思ったんだよ。シュウ兄とぼぅの歳は、五歳しか違わないんだから。お兄さん、もっと上だよね? なら答えは簡単だよ。お兄さんはシュウ兄を語る、偽物だ」
否定するより早く、青葉を壁は蹴り俺の顔を目掛け、飛び込んで来た。
――歯を、剥き出しにして。
鮮血が宙を舞う。
咄嗟にガードした腕を、食いちぎられていた。
「お兄さん。強いんだね」
青葉は別の四隅に張り付き、そこで俺の肉を咀嚼し、飲み込んだ。
動揺しながらも俺は、歯を食い縛った。
絶対に、あいつとは代わらないために。
肉を食われようと変わらない。青葉は必ず助ける。
まずは捕まえよう。青葉を組伏せ、説得する。
だとしたらバスルームはよくない。石造りのこの部屋では、組み伏せた反動で青葉を殺しかねない。
幸い、ドアは壊れかかっていて開ける必要も無い。
バックステップでバスルームから出た俺を、青葉は歩いて追いかけてきた。
「助かるよお兄さん。このくらいのほうが、ぼぅは得意なんだ」
言葉通り、青葉はリビングのように広いこの空間でこそ、本領を発揮していた。
青葉は跳躍力にものをいわせ、部屋中を縦横無尽に跳び回っていた。
眼で追うのも疲れる速さだ。
「青葉! 俺は本物だ! シュウ兄なんだ!」
捕まえる構えをとり、青葉を眼で追っていた。つもりだった。
「嘘つき」
すぐ後ろで、声がした。
「ガッ!」
背中を激痛が襲う。
見るまでも無くすぐに分かった。
肩の肉を食いちぎられたんだと。
「シュウ兄ならぼぅを攻撃しない。シュウ兄は女の子に手を出さない。だからやっぱり、おまえはシュウ兄じゃない!」
咀嚼を終えた青葉は、正面から噛みつこうと襲いかかる。
そんな青葉を躱しながら、正しい意見だと思った。
青葉に声は届かない。
青葉は俺を信じない。
これでは青葉を救えない。
ならどうする?
こうするしか、無いだろう。
食いに来る青葉に対し、構えを解いた。
組み伏せようだの、迎撃しようとするから、青葉は俺を疑うのだ。
だったら賭けるしかない。
青葉は俺に、見ないで、と訴えていた。
いけないことだと理解ってるんだ。
だから俺は、青葉を信じる。
両腕を広げ跳び回る青葉に、宣言した。
「さぁ食え青葉! 俺はシュウ兄だ! お前が信じてくれたシュウ兄なんだ! いくらでも食わせてやる!」
青葉は跳び跳ねるのをやめ、ベッドに着地した。
「そんなこと言ったって、もう騙されないよ?」
「嘘じゃない」
俺は青葉に背を向け、左腕を差し出した。
「ふーん。……いいよ。お兄さんの覚悟、試してあげるよ」
青葉の足音がゆっくりと近づき、前腕に鋭い痛みが走った。
身動き一つせず耐えるつもりだったが、無理だった。
一口食われるごとに、身体が勝手に反応する。
一口二口と無料で肉を持っていかれ、三口目にしてようやく、タイミングを掴んだ。
四口目の歯が肉を抉った瞬間、俺は青葉を押し倒した。
振り向きながら口に左腕を押し込み、右手で吊り上げるように両腕の自由を奪う。
チャンスは一度切り。
嫌な記憶が残る捕縛だったが、これに懸けるしか無い。
食われる以外、彼女の攻撃なんて効かない。押さえつけてしまえばこちらのもの。
例え反撃が、金的だろうと。
押し倒す最中、青葉は迷わず蹴り上げていた。
あの施設で教育されただけは有る。耐える用意をしていなければ、青葉を捕り逃がしていた。
コツカケなんて技法は、女の子の青葉には分からない。
金的を決めた青葉は、微動だにしない俺を見て目を丸くしていた。
捕縛は完了した。あとは説得するだけだ。
心の傷に重要なのは、白隠の言う通り話しをすることだ。
辛かった記憶を手放させるために。
そのためにはこうするしか無かった。青葉が騙されたと思おうと、こうするしか無かったんだ。
押さえつけられた青葉は、当然ながら俺を睨んでいた。
俺はそんな青葉に微笑みながら、聞き取りやすいようにゆっくり喋った。
「青葉。よく聞いてくれ。俺はお前を騙してなんかいない。言い訳にしか聞こえないだろうけど。お前と話をするには、こうするしか無かったんだ。今から腕を外すから話をしよう。あの島で何が有ったか。俺に全部話してくれ。……話が終わってそれでも、俺を信じられないなら。今度はちゃんと、俺を食わせてやるから」
俺は心なかで、ルナに謝罪した。
謝罪して、青葉の口を自由にした。
無論、彼女の口から出てきたのは悪口だった。
嘘つき、よくも騙したね。と、罵詈雑言が飛んできた。
俺は悪口の全てを肯定した。
怒ることもなく、ずっと笑いながら青葉を見つめ、肯定し続けた。
十分以上もそんなことを続けていると、青葉は悪口を止め、質問を投げ掛けてきた。
何でこんなことをするの?
何で私を騙したの?
何で笑ってるの?
俺は全部の質問に、青葉のためだよ。とだけ伝えた。
青葉は口を閉じてしまった。
口を閉じて、最後の抵抗を示したんだ。
青葉は大丈夫。青葉は俺とは違う。
だって青葉は、傷ついているんだから。
青葉は体質こそ異常だが、心は健全なんだ。
でなければ痩せ細ったりはしない。見るな何て言わない。
傷ついた青葉には、これが必要なんだ。
「青葉。あの島で起きたことを話してくれ。例えそれが、アントを食べたことでも、俺はお前を――許すから」
青葉は何も言わなかった。
何も言わないが、全てが伝わった。
俺は青葉を押さえつけるのを止めた。
自由にした。
彼女は自由になっても、身動き一つしなかった。
俺は約束通り、涙を流して動かない青葉の口元に。
そっと喉を差し出した。
青葉が噛みつくことは、無かった。




