三十六話 弱み
視線。
首筋に、ゾクッと嫌な感覚がして気づく。無論、辺りを見回しても怪しい人物などいない。
そんな状態が二日も続いていれば、おのずと不安も募る。
戦から三日目の正午。
一時的な人たちも含め村人の半分以上が本国へ向かい、出立していった。
アルテとベラ。バリエノとロッサも報告のため一時帰国。
お蔭で、アーツと俺が村の責任者ということになってしまった。
こんな状態なのにだ。
責任者として村を巡回したり、冬の準備をしたりしなければいけない。
そんなことはお構いなしに、視線を感じる回数は増えていく。
このままでは良くないと思いアーツに相談してみた。
「アーツ、誰かに見られている気がするんだ」
エルフ地区にて、アーツとその奥さんと野菜を干しながらのことだ。日当たりの良い縁側で野菜を吊るしていく作業中に、奥さんには聞かれないよう、厠に行こうと言って相談した。
ちなみにアーツの奥さんは若く、二十代前半に見える美人だ。
「ボーグが生きている以上、何かしてきたのかも知れないな」
「何か? 例えば、刺客とか?」
「それは難しいだろう」
「そうなのか?」
アーツの説明によると、姿を消す魔法はあるが違和感は残るそうだ。それこそ暗がりでも無い限りは気づけるらしい。
「誰かが侵入すれば必ず分かる。人族ならなおさらだ。それにシュウでも見つけられないんだろ?」
「……まぁ、そうだけど」
「あれだけの戦をしたんだ。死んだ者たちの呪いや、そういった魔法の可能性もある」
「呪い、ね。治せないのか?」
「治るものなら傷と一緒に治っているはずだ、絶対とは言えないけど。どちらしろボクではどうにも出来ない。父上の帰りを待つしかないな」
解決には至らなかった
呪い。信じないわけではないが信じきるわけでもない。
思案しながら、本日最後の巡回をしていると。
ゾクッとした。
場所は翼人地区、時刻は夕暮れ、太陽の半分は沈んでいた。
視線を感じた方角を見てもやはり誰もいない。
いつもなら感覚は消えるのだが。
今回は違った。
再び、視線を感じた。
視線の元を辿り見上げると、屋根の上に人がいた。
全身を布で覆い、フードのように顔も隠していた。
翼は無く、フードの形状を考えれば長耳でもない。人族だ。
三角屋根の頂上から、そいつは飛び降りた。俺から逃げるように反対側へと。
「待て!」
着地地点に向かうも、飛び降りた時の足跡をだけを残し、奴は既に走っていた。
屋根の頂上、つまりは三階の高さから飛び降りていながら、逃げ出している。
只者ではない。
全力で追い掛けた。
村を隠す防風林を抜け、草原に出ても逃走は続いた。
太陽は消え、夜を迎えていた。
走り、辿り着いた草原の背は高く、人が隠れるにはうってつけだった。
てっきり、草むらに入り隠れると思っていた。
そうではなかった。
草むらに辿り着くと向きを変え、懐から輝くものを取り出した。
短く、取り回しのよさそうな片刃のナイフ。
銅製などではない。
逆手に構え、俺の出方を伺っている。
身長は百七十センチ前後だろう。構えが前傾姿勢なので、細かくは分からない。フードから見える顎には、無精髭が生えていた。
俺は、動くわけにはいかなかった。
散々(さんざん)視線に悩まされていたのが功を奏した。
ナイフの男の後ろに、もう一人居ると分かった。
「……出てこい」
無精髭が口笛を鳴らす。
草むらからゆったりとした歩みで、もう一人が姿を現した。
無精髭の男より若干身長が高い。
そいつも布で全身を隠し、見えるのは口元だけ。
真っ直ぐな姿勢でナイフを向けてきた。
一対二。
ネーボとクレイズとは違う。
後から現れた男は、ナイフを向けたまま円を描くよう、回り込もうとしていた。
感覚を研ぎ澄まし、回り込む男へと視線を移す。丁度、無精髭を視界から追い出すように。
無精髭は動いてくれた。
見事に誘われてくれた。
逆手に持つなどという甘さは、素人だと教えているようなものだ。
逆手の利点など押し込む力が上がる程度、逆に掴める箇所は格段に増える。
俺の喉を目掛け、横薙ぎに迫るナイフ。そんなもの手首の内側に手刀を当てれば止まる。
「なっ!」
驚き、手刀を食らいながらもナイフは離さない。
離していればいいものを。
逆手持ちの不幸は続く。
手刀から、そのまま手首を掴む。
捻られ、向きを己に向けられた無精髭。瞬間、立場は逆転する。
人体とは不思議なものだ。
手の向き一つで、力の伝わり方が変わってしまう。
逆手持ちは押しに強い。その分、捻られ自分に向いたら。
抵抗すら出来ない。
全力で押し込む。
無精髭の心臓へと向けて。
後ろに傾ていく無精髭を無視し、もう一人へと向き直る。
立ち尽くし、動きを止めていた。
数秒の出来事だったからだろう。
何が起きたか分からない。そんな感じだった。
「おい。目的はなんだ? 俺の命か?」
返答などしない、そう思っていた。
「どうかしら?」
女?
フードから見える口元は細く、肉付きも女性らしい。
どうするべきか迷った、迷ってしまった。
だからだ。
今までこんなことは無かったのに。あいつが囁いてきた。
『代われ。てめぇじゃ殴れもしねぇんだ。無料でとは言わねぇ。交代しろと命じればすぐ代わってやるから』
「お前!」
俺の突然の独り言に、フードの女性は警戒を強めた。
『よく考えろ。てめぇは昨日何をした? 誰とどうやって帰った? 暗殺を目論むクソどもだ。何をするかは、お人好しのてめぇでも分かるだろ?』
悪魔の誘惑に負け、過ちを犯した。
いつもの、見せられるだけのコンクリート部屋に居た。
「待たせたな」
身体は変化しないようだ、が、口角は上がっていたようだ。
俺が彼女を見た途端、彼女は小さく悲鳴を上げ。
捕まった。
構えていたナイフは蹴り飛ばされ、単純に腕力で彼女は押し倒された。
俺は馬乗りになり、ロープから吊るすように彼女の両手を片手で押さえ付けている。
「王手だ。……つっても分かんねぇか」
彼女も暗殺者の端くれ、意地があった。
顔面に唾を飛ばした。
愚かだと思った。
それが、拷問の始まりだったから。
「……気に入った。楽しませろよ?」
余っていた左手でなんなく顎を外し、一本ずつ歯をへし折り抜き取っていく。
一本も残さず。
その間俺はずっと叫んでいた。
代われ、と。
あいつは代わらなかった。
「今いいとこだろ? 終わったら帰る」
嘘ではなかった。
意識は俺に戻された。拷問を終えてから。
彼女の顔は別人のように変わっていた。
あいつは去り際に、一言残していった。
「殺しとけよ? どうなっても知らねぇぞ」
そんなことはしない。出来るはずもない。
「……魔法は使えるか?」
叫び続けた彼女は、声を枯らしていて喋れない。首を横に振り伝えてきた。
「教えてくれ。仲間は他に何人いる?」
押さえ付けていた彼女の指が動き、一本だけ立てた。
「……頼むから、恨むのは俺だけにしてくれ」
彼女にそれだけを伝え、俺は村へと走り出した。