二十六話 涙落
戸板は開かれた。
「とうさま、ルナもはいる」
開かれたが。
「……あ、うん」
問題無かった。
男の子とそう変わらない。
胸も胸とよべるほどあるわけでなし、ほんのり膨らんでるだけ。太れば男でも余裕だろう。
女性らしく発育していたら、さすがに興奮したかも知れないけれど。
取り合えずルナに関しては、アレが無いだけ、と自分にいい聞かせられる。
例え肌が透き通るほど綺麗でも、髪がキューティクルで女の子らしくても、子どもは子どもだ。性対象ではない。
「どうしたの?」
独り頷いている俺に、後ろで手を組み顔を覗き込むよう聞いてきた。
「ん? ルナは可愛いなと思って」
適当に誤魔化したが、可愛いというのは本当だ。嘘はついてない。
「ほんと!」
「本当、本当」
「じゃあ、ルナのことすき?」
「好きに決まってるだろ」
「ほんとに! わたしもだよ、とうさま!」
嬉しそうに、笑顔で跳び跳ね始めた。
「ルナ、危ないからやめなさい」
言った途端すぐ、足を滑らせていた。
抱き締めるよう受け止めればよかったのだが、裸のルナを抱き締めていいものかと、僅かとはいえ躊躇った。その僅かな差のせいで、無傷とはいかなかった。
滑り。後ろに倒れていくルナの左手を掴んで、頭を石の壁にぶつけるのは止められた。
けれど、ルナはバランスを取ろうとした右手を、壁にぶつけ擦りむいてしまった。
中指と薬指の第二間接から、血が滲み出てきた。
「いたい。とうさまおてていたい」
「…………ルナ?」
泣きそうな表情を浮かべ、傷口を見せてくる。
子どもらしい、当然の行為だ。
本来なら傷口を見てやり、安心させてあげるべきなのだが、出来なかった。
可怪しいと、固まってしまったから。
ルナは現在、精神年齢とはいえ四歳だ。四歳の子が、血が出る程の擦り傷を負ったら泣くだろう。
痛いと言い、声を上げ喚いたりして涙する。
ルナは違う。ルナは、泣きそうになるだけ。
三日間ずっとそうだ、フィオと喧嘩しようと泣くことはなかった。
「ルナ? 痛いんだよな?」
「うん……。いたいのはやくとって」
痛さを訴えてくるその表情は、演技などとは思えない。なのに、涙だけは落ちてこない。
これは、どういうことなんだ?
「とうさまー!」
傷口に対し俺が何もしないせいで、ルナが抱きついてきてしまった。
泣かないことばかりに気をとられ、痛みを訴えるルナを蔑ろにしていた。
駄目なとうさまだ。
ルナをゆっくり引き離し、優しい口調で伝えた。
「ごめんな、俺は治せないんだ。だから、手を出してごらん」
「こう?」
細く小さな手が、傷口を見てと差し出される。
差し出されたルナの手を、対照的にゴツい手で下から支えるように握る。
「よく見せてくれ、痛いのはここだな」
態とらしく、色んな角度から傷口を見て感想を述べた。
「痛かったな。こんなに痛いのに頑張ったな、偉いぞルナ」
子どもが痛みを訴えるのは、共感を求めているからだ。
実際に治せるのならそれに越したことはない。
俺は残念ながら治せないので、精一杯ルナに共感し、頭を撫で慰めもした。
「まだ痛いか?」
「いたい。いたいからもっと」
表情は悲しみから、微笑みへと変化していった。
落ち着いてから、髪を洗ってとせがむルナの髪を洗い。
とうさまは長い髪が好きなの? などという質問から始まった会話を楽しみ、洗い終え湯船に足を入れた。
湯船に入るまでが、とても長い道のりに感じた。
ちなみに髪の長さとか気にしないので、ルナは長い方が似合うと答えた。
「ゆっくりな。それと手はお湯にいれるなよ」
「はーい」
最初に俺が風呂に入り、立ったままルナの手を握りエスコートする。
ルナはまだしも、フィオはこの風呂に入れるのか心配になる高さだ。
……跳んで入るのか?
「とうさま、ざぶーんってして」
「ざぶーん? 溢れさせろってことか?」
「あふるさせろってわかんない。おみずがざばーんってなるのやって」
間違いないな。
「ほらいくぞ!」
肩まで浸かり、水を溢れさせた。
その程度できゃっきゃっと喜んでくれるルナ、子どもらしい。それが一層差をつくり、泣かないことに拍車をかける。
考えてしまい、俺は次第に黙りこんでいった。
このまま引きずりたくない。
十一歳のルナなら拒絶されるだろうが、四歳のルナならあるいはと思い、仕掛けることにした。
遠慮せず、ストレートに訊いた。
「あのさルナ」
「なあに、とうさま?」
ルナはくるりと向きを変え、嬉しそうに俺と向き合う。
「手を怪我した時、なんで泣かなかったんだ?」
微笑みは一瞬で消え失せ、落ち着いた表情に変わった。
感情を失ってしまったような、無表情に。
「泣いたら、駄目なんだよ?」
たどたどしい口調は消えていた。四歳とは思えない、かといって十一歳のルナでもない。
俺が聞いたことすらない、とても暗い声だ。
「お父様だから言うけど。泣いてる閑なんて私にはないの、妹に劣る私は泣かないの。泣いても、お母様は抱き締めてはくれなかったもの。それよりもフィオのために、何かしていれば褒めてもらえたの。だから私は泣かない。泣いたら、私はきっと壊れてしまうから」
淡々と喋る瞳は虚で、何を見ているのかさえ定かではない。
「お前はなんだ?」
思ったことを口にした。
本来のルナでも四歳のルナでもない。なら彼女は、俺が教え生まれた存在。
「シュウさんと同じだよ」
別人格、なんてな。
「無理無理そんなの。お前はルナだ、別人格じゃない」
言い切る俺を、ルナは睨んでいる。
「声は暗いけど口調が変わってない。もっと言うなら性格だって変わってない。別人とは、とても言えないな」
その証拠に、ルナは決して襲ってきたりはしない。
新しい人格が生まれたのなら、新たな人格は必ず本来のルナを守ろうとする。俺のようにルナを暴こうとする人間を、許しはしない。
「反論もしないし、図星か? なら今の独白は、ルナな救難信号ってわけだ。助かったよ、ルナの生存本能さん」
俺の意見を聞き終えると、ルナは睨むのをやめ、真っ直ぐ立ち上がった。
「何も知らないようで、何でも知っているのねシュウさん。あなたはやっぱり、可笑しな人」
言い残し、ゆっくり俺に向かって倒れてきた。
今度はしっかりと抱き締め、受け取った。
意識はないようだが、問題は無い。静かに呼吸をしている。
「色々ありがとよ。お前の主は必ず、幸せにしてやるから」
久々に独り言を言い終えると、ルナは意識を取り戻した。
眼をこすりながら起きたのは、四歳のルナだった。
タイトルの涙落は造語です。落涙を逆さにしまして、落ちない涙という意味合いで、タイトルにしました。




