二十二話 獣対獣
「俺の、せいだ」
コンクリートで囲まれた四角い部屋で、一人涙していた。
部屋には何もない。食べ物も着る物もない。だから俺自身、何も纏ってはいない。
部屋には出入口も無い。有るのはたった一つの窓。独房に有るような、外を覗くためだけに有る小さな窓だけ。
「おい」
窓から誰かが俺を呼ぶ。
誰かは分かっている。
ここに来れるのは、俺とあいつしかいないから。
あいつに用はない、何を言っても無駄だから。だがそれでも、伝えなければならない。
だから、あいつの会話に応じた。
窓の外にいるのは、悪魔だ。
「泣いてねえでさっさと来いよ。第一あの女が虎に喰われたのは、俺様と代わらなかったおめぇのせいだろ」
「そうだよ、悪いのは俺だ。お前に代わるのが怖くて躊躇った俺のせいだ」
「解ってるじゃねぇか」
「そこまで馬鹿じゃない。……それで何のようだ?」
「あの女殺してもいいか? そのほうがあの女のためだ」
コンクリートを殴りつける。
「止めろ! ベラに手を出すな! 彼女はまだ生きてるんだ!」
「だから訊いてんだろうが、主人格さんよ。でもよ、俺様に助けろなんて言うなよ」
「そんなものお前に望んじゃいない! ただ……」
「ただ、何だよ? 時間は無限じゃねえ。身体が変化してる僅かな時間しかねぇんだ。泣いてねぇでとっとと言ってみろよ」
「ベラを助けたい。だからあいつを、虎を一秒でも早く殺してくれ」
「……何を言ってるか解ってんのか? どうなっても知らねぇぞ?」
「どういう意味だ?」
「はっ、これだからお人好しは! あん? 残念、時間切れだ」
「待て! 理由を訊かせろ!」
「時間切れだっつーの。覚悟して待ってろシュウ」
身体は変貌を遂げ、意識は内から外へ切り替わる。
虎は後退していた。
虎と俺の間に、ベラは放置されている。
ベラの位置が三メートル、虎は六メートル。変貌している間に、倍は遠くに離れたようだ。
離れた上、姿勢を低くし尻尾を真上に立て唸っている。
警戒しているとしか思えない。
距離を空け警戒する。それはつまり、怯えている?
……当たり前か。
虎はただの獣、対するは悪魔。
悪魔の代名詞である、六百六十六という数字。これは黙示録曰く、獣の数字だ。
一頭の獣が、六百六十六匹の化物に敵うはずがない。
駆け出し、虎に向かうと思ったが、視界に映ったベラの位置で急激に止まる。
虎は毛を逆立て低い声で唸る。俺は虎を無視して、ベラに話しかけていた。
「喉は駄目だ。そのままじゃ死ぬぞ。早いとこ治せ」
夥しい量の血が、ベラの喉から流れ出ている。
なのに、ベラは魔法を使わない。
「……治せねぇんだな? なるほど、言霊ね」
ベラは何かを喋ろうとしたせいで、喉から血が飛び出した。
止めてほしい。大人しく待っていてほしい。
「やれやれ、すぐ終わらせるからよ。喉をしっかり押さえて待ってろ」
ベラの反応も確認せず、虎へと向かい合う。
また、距離が空いていた。
「待たせたな仔猫ちゃん」
歩き、一歩一歩着実に進み射程内へ踏み込む。射程内の一歩を踏み出した途端、虎は襲い掛かってきた。
お決まりの三点同時攻撃。
「見飽きたっつーの」
死ぬとも何とも思ってない。なのにこいつは、ゾーンを使う。
世界の動きが遅くなる。脳の処理速度が違うのか、俺が死に面して発動させたゾーンよりも、動きが遅い。
虎の後ろ足が地面を蹴る、同じタイミングで俺も地面を蹴った。
虎は前へ進むため、俺は地面を蹴り上げるため。
同じく蹴るという行為だが、目的はまったく違い、その違いが明暗を分けた。
蹴り上げたものが虎へと向かう。
落ち葉は舞い、土は飛び交う。
飛び交う大小様々な土は、当然眼にも入る。狙いどおり、虎は眼を閉じていた。
視界を奪うことには成功したが、無料ではない。
足を蹴り上げる行為のせいで、回避は不可能。
両肩へと、爪が突き刺さった。
けれど、牙は来ない。
もう二度と牙は来ない。
虎は正面から俺に飛びかかってきた。胴体を真っ直ぐに、喉元へ噛みつきやすいよう首を横にしながら。
喉の前では、両手が待ち構えているとも知らずに。
眼を閉じ、見えない虎には分からない。分からないなら反応も出来ない。
喉を狙い向かってきた虎の顎を、待ち構えていた両手が上顎と下顎を片手ずつ掴み、円を描くよう捻る。
それだけだった。それだけで虎は、首を百八十度捻転させられた。
首から上だけを逆さまにされ、虎は牙を剥き出しにしたまま息絶えていた。
「良かったぜ、虎」
言葉と違い、無造作に虎の頭を手放した。
両肩に刺さった爪が、力なく地面に落ちっていった。
殺し終えた虎を見つめ、あいつは人格を俺に戻した。
大声でベラの名を何度も叫び(さけび)、走った。
近くにいるのだが、今は一秒でも多く時間が欲しい。
滑り込み地面に両手をつき、ベラの生存を確認する。
「ベラ! 生きてるか!?」
ベラは瞬きで答えくれた。
言い付けどおりベラは、両手で喉の傷口を押さえつけていた。
出血量は減っているが止まりはしない。
魔法がいる。
魔法があればベラは助かる、フィオは使えないのか?
そう思い立ち上がろうとした俺の腕を、ベラが掴んだ。
「何してんだ馬鹿! 放せ!」
掴むため、ベラは喉から片手を離していた。怒鳴り、代わりに俺が押さえた。
「死にたいのか!」
怒る俺に対し、ベラは笑った。
笑い、腕を掴んでいた手を放し、ゆっくりと顔に向かわせる。
血に濡れ、真っ赤になった手が俺の頬に触れる。
頬を濡らす血は暖かく、ベラの生命を感じさせる。それほど大切な血が、ベラから抜け出ているのだ。
俺の頬を触る。そんな閑があるなら、自分で押さえてほしい。
俺はフィオのもとへ行きたいのに、ベラを助けるためにフィオを連れてきたいのに。
なのに、本人が邪魔をする。
「ベラ、助けさせろ。自分で傷を押さえてくれ……」
何となく、分かっていた。
フィオが魔法を使えないということは、何となく分かっていた。
死ぬ間際はそばにいて欲しい。それだけなんだ。
俺を止める理由なんて、他にない。
「ベラ……死ぬな。死なないでくれ」
俺の願いを聞き、ベラは微笑む。
微笑みは薄れ、頬からは手が落ちていった。
同時に、足音がした。
「シュウさん?」
ルナだ。
置いてきたのに、待っていろと言ったのに。
息を切らし、走って来てくれた。
「ルナ! 助けてくれ! ベラが死んじまう!」
「えっ!?」
「早く!」
声を荒げた俺に、ルナもただ事ではないと分かってくれた。
息を切らしていたのにさらに走ってベラのもとへ。
「ベラさんっ!? どうして!?」
「止まらないで早く魔法を唱えてくれ!」
ベラの惨状を見れば誰だって硬直してしまう。ルナは子どもなのだから尚更だ。
ルナにこんな厳しいことは言いたくない。だが、ベラを救えるのはルナしかいない。
「はっ、はい!」
やはり頭のいい娘だ。現状を素早く理解した。
「霊よ。言霊に導かれ。彼の者を癒し給え。迅速回復」
ルナの口から青白い光が現れ、手を伝いベラの体内に入り、溶け込むように消えていった。
直後、みるみるうちに傷口は塞がっていった。
念のため、ベラの胸に耳をつけ心音を確認する。
「生きてる!」
小さめの音ではあったが、健気に心臓は動いていた。
「よくやったぞルナ!」
「きゃっ! シュウさん痛いです、放して下さい!」
嬉しさからルナを抱き締めていた。
「ごめん」
「もう! 殺されちゃうかと思いました」
若干照れているのか、顔を逸らしていた。それにしても殺されるか、確かに嬉しくて体の様子は可怪しいが、力は寧ろ入らないのに。
「……ルナ、すまなかった」
正座し、地面に頭をつけ謝った。
「そんな! そこまで怒ってません! 殺されちゃうってのは冗談で……」
「そうじゃない。ルナを置いていくと言っておきながらこの始末だ。ルナが来てくれなかったらベラは死んでいた。本当にすまなかった」
口上のため上げた頭を、再度地面につける。
「そんなっやめてください。頭を上げて下さい。シュウさんが悪いなんて私、これっぽっちも思ってません」
謝ってはいるが、心の中は感謝の気持ちが遥かに強い。ルナの言いつけを破った行動に深く感謝した。
「あの。ところでシュウさん、フィオは見つかりましたか?」
「ん? ああ、フィオなら大丈夫。無事見つかったよ。上にいるはずだよ。どれ」
そう言って立ち上がろうとし、目眩がした。
「あれ?」
身体がいうことをきかない。
「シュウさん!?」
ふらふらと後ろに倒れてしまった。
びちゃり、と濡れた音がした。
倒れこんだ俺を確認しに、ルナが顔を覗かせる。可笑しなことに、ルナは二人に分裂していた。
分裂した二人のルナが、必死に俺を呼んでいた。
返事をしてあげたい。大丈夫だと言いたい。けど、俺の身体は喋ることさえ出来なくなっていた。
視界の隅から広がっていく闇。
やがて視界はすべて、闇に覆われてしまった。