二話 天使
ここは――地獄だ。
闇。それ以外、ここには何もない。
実際は闇かどうかすら怪しい。何せ説明すること自体難しい。
感覚は有る。有るんだけれど、無い。
訳が分からず夢だと思い、頬を叩こうと手を動かしたのに当たらなかった。
在るべき場所に、有るべき身体がなかった。
動かしているという感覚はあっても、そこには何もない。手がないのか頬がないのかも分からない。
まるで脳だけで、真っ暗な海を漂っているようだ。
有るのに無い。この違和感は感覚すら狂わせていく。
上下の感覚は既に無い。時間感覚も失いつつある。
現状を確認してからかなりの時間が経ったと思う。同時に、まだ数分程度なのではないかと疑ってもいる。
暗闇にたどり着いてから経過した時間は一日かも知れない。一週間かも知れない。本当は、一時間も経っていないのかも知れない。
何かを知る方法すら無い。
……これはいつまで続くんだろう。
耐えられない。
何も無い、なのに自我だけはある。ここにいると嫌でも自身のことを考えてしまう。
過去の出来事。それも、過ちばかり。
仕合とはいえ俺は何人も殺した。
助けたつもりでいた、心の拠り所すら殺していた。
……ならこれは報いだ。
最もしてはいけないことをした、報い。
自殺だけはしてはいけなかった。何がなんでも俺は、生きなければいけなかった。
多くの命を奪った。だからこそ、勝手に死んではいけなかった。
生きて、無惨にだろうが残酷にであろうが、殺されるべきだった。
俺は――弱かったんだ。
子どもたちの無念も晴らせないほど。
後悔したところで全ては終わったこと。あとはただ、この地獄で己を責め続ける。それだけなのだろう。
自分の罪に苛まれ、自分が壊れていくのが分かった。
壊して壊れて残ったもの。
一番の後悔は救えなかったこと。
あの子たちを助けたかった。
悔しくて堪らない
ここが地獄ならいくらでも耐えてやる。だから神様。
次は、一人でも多くの子どもを救わせてくれ。
破壊から再生された俺の願い。どうか聞き届けて欲しい。
願いを捻り出し疲れたのか、脳はブレーカーが落ちたように気を失った。
サワサワとした感触が皮膚を撫で、幼い頃に嗅いだ土と草の匂いにつられ、目を開けた。
今までとは違った景色に、世界を疑った。
どこまでも高く広がっている青空と、みどりが埋め尽くす大地だった。
「……どうなってる?」
景色が戻っていた。さらに身体も。
上体を起こし、手で全身を触り確認しながらも、首から上では周囲を見渡し続ける。
辺りは大自然に満ち溢れていた。見渡す限り、草と木しかない。
身体にも異常はなく、元通りの自分の身体だ。
部屋着として使っていた。ナイロン製のシャツとジーパンにスニーカーまでもそのままだ。
草原のまっただ中。少しだけ丘になっている麓で眠っていたようだ。
立ち上がり、状況確認に努める。
地平線を見たのは始めてだった。太陽を基準に、東と南は地平線の見える草原だ。
北と西は、森。いや、密林というべきなのだろうか。
訳が分からない。
「……夢?」
その場合、どれが夢なのだろう。現在が夢なのだろうか。暗闇が夢なのだろうか。
間違いないことは、あの島までは現実だったということ。
スマホを握り潰した時の傷が、掌にはっきり残っている。
切り立った崖だった。飛び降りて生きているわけがない。
ならここはなんだ。俺の身体はなんだ。あの地獄はなんだったんだ?
いくら考えても分からなかった。
呆然としていると、急激な違和感が身体を侵食しだした。
悪寒がし、身体中が異常を訴えだした。
吐き気。鼻水。喉の痛み。関節痛。立っていられないほどの倦怠感。
どうにもならず膝を屈し、そのまま草の上に倒れ込む。
体感したことのない苦しさだった。
今まで受けたどの攻撃よりも、死を意識した。
「……ああ、なるほど」
納得してきた。こういう地獄なんだと。
上手いものだと思った。希望から絶望へと叩きつけるなんて、心を折るには最適だ。
でも願いは叶う。惨たらしく罪人らしく咎人らしく、殺されるのだから。
陽当たりのいい草原で、一人寒さに震えていた。
だから気づかなかった。
すぐそばに、子どもが来ていたことに。
透き通るような肌に銀の髪と銀の瞳をした、笑顔の似合う少女。
園児くらいだろうか。
何が面白いのか分からないけれど、俺を見ながら笑っていた。無邪気に、にこやかに。
何故かは分からない。とにかく彼女の笑顔が嬉しかった。
笑ったのはいつかも思い出せない。なのに自然と微笑み返していた。
俺の微笑みを見て少女は去ってしまった。あり得ない背中を見せながら。
どこぞの民族衣装のような衣服を着た少女は、背中から――翼を生やしていた。
追いかけたかった、けれど身体はいうことをきかない。
天使なのか?
地獄だと思っていたのに。
……何かの間違いだ。悪魔が天国だなんて。
苦笑せずにいられない。神様も嫌がらせ上手だと思った。
身体の不調は増していく。恐らく、このままなら死ぬだろう。死んだ後にまた死ぬとは思ってもみなかった。
追いかけるのを諦め、仰向けに寝そべり目を閉じた。
話し声が近づいてきた。
何を言っているか分からない話し声。声のほうを向くと、先ほどの天使が年上の天使を連れてきていた。
金の髪と翠の瞳をした天使。サイズ的に、十歳程だろうか。子どもなのは間違いない。なのに、綺麗と思わせるほど美少女だった。
二人はどことなく似た顔をしていた。服装も同じに見える。
そして、翼。二人とも天使なのか翼を生やしている。
姉妹だろうな。連れてこられた少女がお姉ちゃんで、最初の少女が妹ちゃんだろう。
「……ここは天国かい?」
掠れた声で率直な疑問をぶつけた。
連れてこられたお姉ちゃんの顔色も見ずに。
あきらかに、警戒していたのに。
言い争いが始まっていた。
知らない言語での言い争いだ。
ジェスチャーを見る限り俺が原因なのは確かだった。
数分間。攻防をただ見守ることしかできなかった。結果はお姉ちゃんの勝ち。
妹ちゃんは涙を溜め、頬を膨らませていた。
妹ちゃんは俺を連れていきたい、そう言っているようだった。
お姉ちゃんは許さなかった。分からなくはない。得体のしれない男と、子どもが関わってはいけない。女の子ならなおさらだ。
天使に対して通用するか分からないが。
お姉ちゃんが申し訳なさそうな顔で、俺に一礼をした。
謝っているのだろう。懸命に弁明している。
言葉は伝わらないけれど、気持ちの問題だ。
「いいんだ。当然の報いなんだ」
意味は伝わってはいないだろう。でも意思は伝わったようで、妹ちゃんの手を握り立ち去ろうとしてくれた。
妹ちゃんは引っ張られながらも、悲しい顔をしたまま手を振り遠ざかっていった。
動かすのも辛いけれど、寝ながら手を降り返した。
これでいいんだ。俺は苦しみ、死ななければいけないのだから。
死を待ちながら、瞼を閉じていた。だから今度は足音に気がついた。
足音の主はすぐ脇を通っていながら、俺に気づきもしなかった。
血走った眼をした男だった。
中世時代のような皮の鎧を装着した男。男の向かった方角は、姉妹と一致する。
身体中、動かすだけでも痛む。それでも追わずにはいられない。
戦った奴らによくいるタイプだった。欲に溺れ、見境をなくした人間。そんな眼だ。
痛みを堪え立ち上がると、事は起きていた。
妹ちゃんがグズっていたせいだろう。五十メートル程度の距離、そこに三人はいた。
お姉ちゃんと掴み合いをしている男、それを助けようと、妹ちゃんが男の足を蹴った。
妹ちゃんは殴り返された。
六歳程度の少女を、大の男が殴り飛ばしていた。
飛ばされ転がる幼い身体。
迷いなどなく。歯を打ち鳴らしていた。
少女を組伏せる男。その後ろに最短でたどり着く。
「……おい。ロリ○ン野郎」
衣服を無理矢理剥ぎとられそうな少女と、男が同時に俺を見てきた。
少女の頬は腫れていた。それだけで理由は十分。
身体は既に悲鳴をあげている。脳内麻薬の誤魔化しも長くはない。次期に動かせなくなるのは分かっている。
一瞬で仕留めなければ、姉妹に害が及ぶ。
行動は決められた。けれど、動きが鈍すぎた。
掴みにいった手がなんなく躱される。
男は喚きながら立ち上がり、腰にぶら下げていた剣を抜き、切りかかってきた。
普段なら当たりもしない速さなのに、今の状態では回避も不可能。
頭蓋を狙い振るわれた剣を避け、肩にずらす。これが現状での精一杯だった。
左肩を切られ、驚いていたのは切った男だ。
切れているのは肩の肉だけで、剣はすでに止まっていた。骨にすら達していないまま。
いつの時代の剣なのだろう。銅製で切れ味など無いに等しい剣だった。
驚いている隙に切られた方の手でしっかりと、柄を握っている相手の手首を掴んだ。
力は通常通り込められる。有らん限りの力をふるい、男の骨が軋んでいく。軋みと同じように男の顔は歪み、剣は地面へと突き刺さる。
歪んだ顔を右手で鷲掴みにし、押し込む。
時間はない。あと一回の行動、それが限界だろう。
剥き出しの首へと噛みつき、引きちぎった。
口の中の異物を吐き出しながら、喰らいついた勢いのまま倒れていった。