生き残ってしまった
ダタフは不快感を隠さず舌打ちをしようとして、血を噴いた。
ダタフの胸部には大穴が空いていたがまだ死んでいない。
「死に損ねた」
か細い声で辛うじてそう言ったダタフは、脱力して天を仰いだ。
その視界は半分しかない。目玉が片方潰れたか飛び出たかそんな所だろうと、ダタフはぼんやりとした思考に無理矢理輪郭を付ける。
半分の視界には昨日と変わらない灰色の空が広がっていて、昨日のダタフは明日も同じ空が広がるのだろうと思った。
死に損ねはしたが、何もせずに待っていれば殉職出来る。
甘美な誘惑に少しばかり理性を揺さぶられながら、ダタフは脇に転がっていた警棒を拾い上げた。
妙にしっくり来る肌触りが特徴の新型警棒は無様にもくの字に折れ曲がっていたが、ダタフが操作するとその機能は問題無く稼働した。
黒かった警棒が一瞬で赤熱され、ちりちりと放たれる熱が周辺の空気を歪める。
防熱手袋が損傷していた為、ダタフの手の平が焼けた。
ダタフはその痛みに顔を顰めながら、赤い警棒を傷口に押し付ける。
痛々しい呻き声と濃度を増した肉の焼ける匂いに、ダタフは己の生を感じた。
まだ生きている。
生きていると言うには些か崖っぷちな状況ではあるが。
傷口を焼き終えたダタフは警棒を投げ捨てるとよろよろと立ち上がろうとした。
だが、ダタフの身体にそこまでの力は残されておらず、それでも這う様にして移動を始める。
と、その腕を掴み持ち上げる者がいた。
「無事、とは言い難いな」
金属光沢を放つ眼球がダタフを見下ろす。
薄灰色の人工皮膚に覆われた顔面は忌々しそうに歪み、浅く溜息を吐いた。
「ナンダジエ、か?」
ダタフの語尾に疑問が垣間見える。
姿形は確かにナンダジエ次長のそれであったが、ダタフには別人に見えた。
とは言え、齢五百とも六百とも噂されるナンダジエの直近数十年しか知らないダタフには、それがこれまで見せていなかったナンダジエの素であるとも考えられ、一概に見た事のない雰囲気を醸すナンダジエを別人の様だと評する事も出来ない。
「そんな無事とは言い難い輩がお前を含めて七人。突破した獣人種は大した奴だな」
異常な事態である。
数十人の警察官が突破されたにも関わらず七人も生き残ったのだ。
「手落ちもいい所だ」
ダタフが忌々しげに吐き捨てる。
揃って殉職すらで出来ず、無様に生き恥を晒している。
公衆警察に属する者としてこれ以上の不名誉は無い。
「アレが先祖返りだと言う事を考慮したとしても、大した奴だよ」
ナンダジエの言葉には妙な程熱が無かった。
ダタフが傷口に感じる灼熱を忘れる程の、冷たい声。
「大した奴だが、七人も素材を残したのは手落ちだったのかも知れないな」
ぞわりと、ダタフの背筋に怖気が走る。同時に体中の痛みが消えた。
「生き延びて貰う。生き延びて役に立って貰う」
ダタフは自身の中に何かが入り込んだ事を確信し、気付く。
傷口の灼熱を感じなくなったのは、その何かのせいだと。
「……ああ、お前は何も知らないのだな。模倣種の事を。獣人種と呼ばれる害悪の事を。人族を喰らい成り済ます、人族の天敵の事を」
ナンダジエは憂鬱な溜息を吐いて天を仰いでから、そんな事はどうでもいいかと言って諸々の落胆を忘れた。
「そんな事よりももっと重要な変化が訪れた。それに対処すべき存在は私に全て押し付けて逃げた」
この目玉を刳り貫きたい気分だと言って、ナンダジエは実際に目玉を一つ刳り貫いた。
びちびちと音をたてて眼球筋と視神経を模した繊維が引き千切られ、金属光沢を放つ目玉が手の平で転がる。
「何やってんだお前?」
理解不能な光景にダタフが間抜けな声で呟いた。
「然程意味の無い事だ」
そう言捨てながらまるで肩を竦める様な自然で小さな動きで、その目玉は目玉を失ったダタフの眼窩に埋め込まれた。
ダタフの脳が痛みに悲鳴をあげる。
無数の情報が思考を焦がす。
「思えば私は、いつ手術を受けたのかを知らないのだよ」
そう言った意味でお前は幸運だなと、ナンダジエは憧憬が含まれた声でダタフに告げた。
「連領連合は終わる」
視線を痛みに転がるダタフから灰色の空へと移して、ナンダジエは感情の無い声で語る。
「恐らく、もう、この段階で、子供は五歳を待たずに死ぬ事が可能になっている筈」
痛みに悶えながらナンダジエを睨もうとしたダタフは、ナンダジエの身体が崩壊する様を目撃した。
押し固められていた糸屑の塊がばらばらの糸屑へと還元される様に、ふわりとナンダジエの身体が散って行く。
「連領連合は生簀に過ぎない。やり過ぎた魔王が人を生かす為だけに用意した生簀だ」
その言葉はダタフの中に何等違和感を与える事無く浸透した。
当然だ。今のダタフはそれを知っている。
「我々人族は間に合わなかった。魔王が闇を払うまでに、生簀の中で二十分に繁栄する事が出来なかった」
ダタフは欠損した身体を再構築し、のそりと起き上がる。
身体の材料はどこにでもあった。大地も、空気も、空間も、有り余っているのだから。
「最後の手札を魔王に切らされた。強制的に」
ダタフにはその言葉が理解出来た。
忌々しい突破者の事だ。
人族の天敵でありながら、人族との線引きが曖昧になってしまった種。
獣人種。誰も覚えていない程昔には模倣種と呼ばれていた、奪い成り代わる存在。
「元の人族は残らなかった。金属と、獣に汚染された人族だけが生き残るだろう」
「馬鹿馬鹿しい」
ダタフはナンダジエの憂いを乱暴に否定した。
ナンダジエの言葉が途切れ、糸屑は散る。
沈黙したのか、発話が不可能な程散ったのか。
ナンダジエは最早元の形を残していない。
「俺達公衆警察はな、お前等みたいに差別はしねぇ」
獣人種は明確な差別の対象だ。
金属種は受け入れられたように見えて、それは転換手術を施した後天的な金属種に限られる。
純粋な金属種は手術の素材扱いなのだから。
それらを分け隔てなく扱うのは公衆警察くらいのものである。
最も、分け隔てなく苛烈な扱いをするのもまた公衆警察の特徴ではあるのだが。
「上等じゃねぇか。最高じゃねぇか」
ダタフは歓喜する。
連領連合の危機に歓喜する。
ヌヘに蹂躙された模倣街で、七つの人型が起き上がった。
連領連合が、終わろうとしていた。




