胡散臭い男
ララララはその日ナースになった。
巡回者を彷彿とさせる白い衣に包まれ、胸にはどこまでも続く希望を抱き、ちょこんと膝を着いて頭を垂れる。
その頭に看護帽を乗せられた瞬間から、ララララはシシル重繊維工房の認可を受けた正式なナースである。
祝福に祝福を返し、獣人の保護を維持すると言う崇高な使命にララララは金属光沢を持つ瞳をきらきらと輝かせた。
◆
巡回者達が吹き飛ぶ。
高々と打ち上げられた巡回者達は勢い良く地面に墜落して弾んだ。
難を逃れた数人が慌てる事無く詠唱を始める。
詠唱が完了するまでに一人が喉を切り裂かれたが、ヌヘの凶行はそこまでだった。
「ガアァ」
ヌヘは短くも力強い咆哮を放つと、即座に撤退を選ぶ。
獣の怒りに浸食されながらも妙に冷静なヌヘは、頭のド真ん中でナースの到着を危惧していた。
今し方完了した詠唱はナースを呼ぶための詠唱だからだ。
ヌヘは巡回者を殺しきれなかった事を悔しがりながら猛然とその場を離脱する。
二本の牛足と四本の羊足が大地を蹴り、兎耳を靡かせてヌヘは走る。
ここ最近巡回は強化されている。
以前は十回に一回は区外へ出る事が出来たと言うのに、ここ一年は全く出られない。
忌々しい現状への打開策を思い付けずにいるヌヘの身体が、徐々に人のソレへと戻って行く。
六本の足が委縮して身体に取り込まれ、代わりに人の足が二本生えた。
全身を覆っていた短い剛毛は首筋の一部を残して体内へと引き込まれ、柔らかい肌が剥き出しになる。
全裸で疾走したヌヘは服を隠しておいた木に辿り着くと、深く息を吐いて吸った。
服を着ながら次の脱走を計画する。次は二日後にするか、或いは三日後か。
そんな計画等と言うのが憚られる程稚拙な思考は、それでも今夜の一件で厳しくなるであろう巡回が緩む時期を織り込もうとしたものである。
面倒臭いから明日でいいじゃないか計画を白紙撤回しつつも、それでは駄目だとヌヘ自身は理解している。
だからと言って数日待った程度でどうにかなるとも思えない。
巡回を強行突破出来るだけの力が欲しかったが、生憎とヌヘの手の届く範囲にそんなものは無い。
「お困りの御様子ですね?」
ヌヘの兎耳の後ろに吐息と共に声が吹き掛けられた。
ぞわりと背筋を走る不快感と僅かな恐怖に逆らう事無く、半身で振り向きざまに爪を突き刺した。
ごつごつとした浅黒い手に生えた頑丈な平爪が声の発生源を抉る。
「いやはやこれは手厳しい」
そこには男がいた。
見た事も無い服装に身を包んだ眉目秀麗なその男に、獣の特徴は無かった。
目に見えない場所に獣の特徴を持つ者がいない訳では無い。
だがその様な分かり難い者は殆どが区外で隠れながら生きている。
男の喉に突き刺さったヌヘの爪は、うなじからその先端が飛び出る程深く刺さっていた。
獣人種であったとしても余程特殊な輩以外には致命傷の筈であるが、男は平然としている。
男が生きている事を疑問に思いながら、ヌヘは爪を回しつつ抉り抜く。
肉片が少々飛び散り、喉の傷は穴と呼んで差し支えない状態となった。
「見事な致命傷だね」
男に褒められたヌヘはえへえと曖昧な返事を返しながら二歩後ずさる。
「あんた、区内のモンじゃねぇよな?」
取り敢えず無難な質問を投げ掛けながら、逃げる体制を整える。
ヌヘは男を殺せる気がせず、これまでにそんな感覚を覚えた相手は領主の私兵以外には無かった。
そこから導き出された結論は男が領主の私兵並みに頑丈だと言う事であり、即ちそんな奴に真っ向から敵対するのは無意味だと言う事だ。
「まあ、外から来たという意味では肯定だね」
男は大げさに肩を竦めて目配せをした。
その様が妙に似合っていて、ヌヘは嫌そうな顔をした。
「何だか胡散臭いなお前」
ヌヘの辛辣な言葉に、男は爽やかに笑った。
何が可笑しいのだろうか。きっと頭だな。
そんな風に男の事を解釈したヌヘに男は笑顔で歩み寄る。
その仕草が優雅で自然でかつ敵意が見て取れなかった為、ヌヘが気付いた時には男の顔はやたら近い場所にあった。
「外から来たものでね、ここの事は良く知らないんだ。ここで出会ったのも何かの縁だ、ちょいとここの事を案内してくれないだろうか?」
ヌヘは男の発言をその頭の中でぐるぐると盥回しにして、最終的に諦めた。
「少しだけなら」
男は脅威であると認識していたが、その度合いが高過ぎるのだから自身の行動が及ぼす影響等微々たる物でしかない。
そして巡回者達が先程の脱走未遂から生じた警戒心を緩めるまである程度の時間が必要であったのだから、その間の暇潰しをどうするのかはヌヘにとって重要な課題なのだ。
どこまでも自己中心的で場当たり的なヌヘの思考だったが、少なくともこの場においてはそれ程致命的な選択ではなかった。
「それは重畳。君の名前……を聞く前に自己紹介が先だね。私の名前はそうだな――フロウとでも呼んでくれ」
十中八九偽名だなと断じながらも、ヌヘは自分の名前をフロウへと伝える。
「ヌヘか、いい名前だ」
そんな事を言いながらフロウはヌヘの肩に手を回した。
ヌヘはその手を鈎爪で引っ掻いて、裏拳をその鼻柱に叩き込んだ。
「ああ、そうか……」
思わず口をついた呟きに、打撃も引っ掻きもまるで堪えてないフロウがどうしたんだいと小首を傾げる。
何でも無いと戻した手をひらひらと振りながら、はやまったかなと頭を掻いた。
フロウを殴ったその感触が、領主の私兵を殴った時のそれとある意味で似ていたのだ。
両者は硬さと言う点では全く似ていない。
領主の私兵はどこまでも硬かったが、フロウはどこまでも柔らかい。
しかしどちらも気持ち悪い位手応えが無い。
壁だってもうちょっと手応えがあると言うのにだ。
ひょっとしたら新種の私兵か巡回者かも知れない。
ヌヘはそんな心配をしながらも、区内の居住域へ向かって歩き始める。
「人が居る所へ連れて行ってやる」
最悪の場合は他の奴等を囮にして逃げてしまえと言う算段だ。
「それは楽しみだ」
嬉しそうにそう言うフロウはどこまでも胡散臭く、しかし嘘を言っている感じはしない。
何がどう楽しみなのだろうかと不安を抱きながらも、ヌヘはずんずん歩いて行く。
取り敢えず敵意は感じない。
それは自分より実力が上の存在としての余裕なのか、はたまた本当に敵意が無いのかは量り兼ねていた。




