混濁
コトヤはほんの一日前までは焦り苛いていた。
そして数時間前に焦燥は最高潮に達し、現在は困惑と混乱の最中に居る。
コトヤは自分に起きた事を正確に把握していた。
目の前でぬめる肉の塊は自身がお館様と呼んでいた存在である。
ぬめる肉は広い空間の殆どを占有する形で広がっていて、コトヤの下半身と融合していた。
理解しているが馴染の無い感覚を頼りにその肉を動かしてみる。
じゅるりと肉がさざめき、ぶるりと形を変えてコトヤの元へと押し寄せた。
その奇怪な光景にコトヤが声にならない拒絶を発すると、肉はぶるりじゅるりと床面に広がった。
コトヤは理解していた。現在のコトヤはお館様なのだ。
同時に、お館様と呼ばれていた存在がどの様なモノであったのかも理解し、その目的と役割も理解した。
理解させられてしまった。
どうしよう。
そんな考えは声にならない。
ただ肉がじゅるりぶるりと動くだけだった。
コトヤはこうなってしまった経緯を思い返す。
調査船団の長と言う死ぬ運命にありながらも、シシル重繊維工房が生み出した神具等と言う意味不明なモノのせいで死ななかった事が、この狂った状況へ続く道の始まりだったのだと、今のコトヤには理解出来てしまっている。
調査船団の目的は口減らしであり、同時に領主の復活を防止するための仕組みでもある。
アケヤ領とて連領連合に連なる一領でしかないのだ。
減りにくい人の数をいかにして減らすのか。それが連領連合を治める者に課せられる命題なのだと、コトヤは理解している。理解させられている。
その知識はお館様の中にあった領主の知識だ。
お館様が奪い取った、領主の一部だ。
お館様は領主不在のアケヤ領における自治組織の頭であると、数時間前のコトヤはそう理解していた筈なのだ。
今だってそう理解している。
だが、コトヤの中に雪崩れ込んで来た知識はそれを真っ向から否定している。
その昔キタノと言う名前の普遍的な人であったお館様は、アケヤ領の全てを奪ったのだ。
領主を海の底へと追い遣り、その権限を奪ったのだ。
現在コトヤと融合している肉はその成れの果てだ。
人の分際で領主となろうとしたキタノが、無理に無理を重ねて到達した不完全な領主と言うシステム。
そこにキタノの個性等存在しない。
それは領主の劣化複製版でしかない。
主な行動定義は二つ。
人口の調整と、正規領主の封印の継続。
その為に調査船団等と言う非効率的な仕組みを作り、享受したかった領主の権益を全部放棄して、ただアケヤ領を存続する為に存在する仕組みとなったキタノ。
本末転倒とはまさにこの事であろう。
実の所、比較的野心的な人物であるコトヤは、お館様の地位に憧れていたのだ。
憧れていたモノは幻想でしかないのだが、そんな事を以前のコトヤは知らない。
憧れで、野心的で、とにかく権力を得ようと行動するコトヤはお館様と言う仕組みに検知されたのだ。
排除しても問題の無い人、もしくは排除した方が有益であると判断された人。
果たしてそのどちらだったのか。それはコトヤには分からない。
お館様と言う仕組みは膨大過ぎて、些細な判断に関する記憶は生まれる傍から消されて行くのだから。
それ程までにコトヤはどうでもいい存在。
「どうでもいい存在」
些事でしかない。
「些事でしかない」
ふふふ。
「笑ってしまうな」
お館様とコトヤの混濁が進むに連れて、少しずつコトヤに平静が戻って来る。
それと同時に愉悦がコトヤの感情を浸食して行く。
その中には滑稽味も散りばめられていて、コトヤはただ可笑しくて笑いたくなってしまった。
「そんなに些細な存在が、全部乗っ取ってしまったのか……ふふふ」
コトヤは自身がお館様へと捧げられた理由を大凡正確に推測出来ていた。
難しい話ではない。
コトヤは余りに多くの失態を重ね上げてしまったのだ。
調査船団長としては殆ど人を処分する事が出来ずに生き延び。
配置換えされた資材管理局では偽装技師を調達出来ないばかりか多くの有能な強襲要員を失い。
失態を糊塗しようと総務局のツテを頼りにシシル重繊維工房への襲撃を行わせて、挙句それも失敗。
お館様の記憶を垣間見る限りではシシル重繊維工房を排除すると言う考え自体は悪く無かった様だ。
アケヤ領で唯一お館様の力が及ばないのがシシル重繊維工房なのである。
アケヤ領でお館様が把握出来ない事象が起きた場合、その元凶として目されるのは当然の帰結であった。
だが、お館様は安易にシシル重繊維工房に手を出さないと決めていた。
「それも当たり前か……ふふふ」
お館様がシシル重繊維工房に手を出さなかった理由は単純である。
自らの最大戦力があっさりと返り討ちにあったからだ。
領主とその私兵団を封殺したお館様の最大戦力。
混種金属製の疑似手を無数に束ねて形成されるお館様の最大戦力は、コトヤが足無と呼んでいた海底の怪物である。
「ふふふ」
コトヤはただ楽しかった。
些細な存在であるコトヤがお館様を乗っ取ってしまっている現状も、これまでのコトヤがお館様の管理下で踊らされてきた事も、ただ楽しかった。
コトヤとしての愉悦と、お館様としての愉悦。
楽しいモノしか見えていないコトヤは、どこまでも楽しいのだ。
「ふふふ」
コトヤは笑いながら、劣化複製版の領主としての義務を放棄した。
「ふふふ」
コトヤは笑いながら、足無の維持を止めた。
「ふふふ……ああ」
ああ、このまま外に出たら、楽しいだろうな。
そんな考えがコトヤの中に湧き出し、それはとても楽しい事だとコトヤは判断した。
じゅるりぶるりと、コトヤの生えた肉が蠢きだした。
「はて、ここはどこだったのか」
動きながら、コトヤは小首を傾げた。
疑問に対する回答はコトヤの中にあるお館様の知識が教えてくれた。
ここは市街地の地下に広がる空間だと。
具体的にはどのあたりなのかとコトヤが疑問に思うと、お館様の知識は市街地地下空間の図面を直接コトヤの思考にぶち込んで来た。
膨大な情報量に一瞬コトヤの意識が飛びかけたが、お館様の知識がすぐさま効率的な思考方法をコトヤに導入させた。
「ああ、ここか」
ゆらりと、コトヤは上を見上げた。
コトヤが見上げる先には総務局が存在している筈である。
シシル重繊維工房を襲撃して、失敗したのは総務局だ。
なら、要らないかな。
そう考えるコトヤの中には、お館様としての仕組みの断片が生きていた。
人口を調整しなくては。
とは言え、お館様の仕組みには強制力がない。
それ程、お館様は弱っていたのだ。
領主を封印する為に必要な絶望が供給されず、弱っていたのだ。
「ふふふ」
その事実にすら、コトヤは笑ってしまう。
コトヤがコトヤでなくなってしまった原因の一つは偽装技師の調達が滞ったせいだと言うのに、同じ原因で今度はコトヤがお館様を乗っ取ると言う結末を生んだ。
そんな事も、コトヤにはとてもとても楽しくて、楽しくて楽しくて楽しくて。
お館様から引き継いだ極僅かな領主としての権限を目一杯振りかざしたコトヤは、勢いに任せて市街地を破壊した。




