イキテイル
ツエは目を覚ますと同時に一秒に満たない時間で周囲の状況を的確に認識した。
「……何?」
そして、周囲の状況を的確に認識してからたっぷり三秒考えた末の言葉がそれだった。
ツエは部屋の中に居た。
そう、部屋である。
平たい床にびっしりと絨毛の生えた絨毯。その触り心地は気持ち悪くも気持ち良い。
壁に張り巡らされた毛細血管は内側に流れる血液の色調をゆったりと明暗させ、どこか幻想的で猟奇的な雰囲気を醸し出す。
骨格を持つ調度品の数々は、機能を重視した単純かつ機能的な造形。机の高さは高過ぎず低過ぎず、椅子の肘掛は万人の腕がくつろげるであろう優雅な曲線を体現している。
壁に掛けられた脈打つ時計はどくどくと規則正しい拍動で時の流れを告げる。その音は耳障りにならない程度に抑えられていた。
そして、この部屋は生きているのだ。
「……で、何?」
だから、何だと言うのだ。ツエは自らの認識にそう自答した。
不審に見られない程度に身体を動かし、その状態を確かめる。
自身の身体に不具合は無い。骨格も、筋肉も、臓腑を、正常に稼働している。
スクール水がそう告げていた。
意識が途切れていたのは三十秒程度。その間に場所を動かされた。
スクール水に記録された情報からそこまでは分かった。
ここがどこなのかも分かっている。
構造物群の二百階層だ。
ただ、ツエが侵入するために開けた穴は見える範囲の壁面には無かった。
それが内側に移動したからなのか穴が塞がったのかは分からない。
匂いは相変わらず生臭い。
それは腹の中身をぶちまけて死んだ人の残骸が放つ匂いと似ている。
公衆警察もクフラ商会もその匂いに大した差は無かった。
と言う事は、ここは人の中なのだろうか?
「構造物群は生きている?」
「チガウ」
「イキ、テイルノハウチガワ」
「ワレワ、レハカベニハリツイテイキ、テイル」
独り言に返答が成された。
ハッとツエが辺りを見渡す。ずるりぞろりと、いつの間にか壁に目と口が生えていた。
ツエの背筋を嫌悪感がぞわりと撫で上げた。
両手で口元を押さえて悲鳴を何とか堪える。
すこしばかりちびってしまった悲鳴が奇怪な声となって指の隙間から零れ落ちた。
「オチ、ツケ」
「オトコドモハヒッ、コマセタ」
「ガールズトーキングナウ」
色々と衝撃的な発言にツエは呼吸を止めた。思考も止まった。
「ホラオチ、ツイテ」
「カタリマショウカタリマショウ」
「ヒッヒヒフゥー」
数秒硬直した後に、ツエの中でぐるぐると思考が回り始める。
壁に生えた口が発した言葉の意味が、時間差でツエの中へ浸透した。
「あなた達は、あなた達が二百階層の住民?」
ツエは尋ねた後で呼吸をしていない事を思い出す。
落ち着く為にゆっくりと息を吸い込み、生臭い空気に噎せそうになった。
「ナントヨバレ、テイルカハシル、トコロデハナイ」
「ワレワレハニ、クタイヲステ、タ」
「スミコ、ミガエイジュウデツ、イノスミカ」
ツエは口が各々勝手に語る内容を理解しようとして、諦めた。
ダラダラから言い付けられた事を思い出したからだ。
ツエはスクール水着の補助を受けて超人的な力を得たが、頭の中身はただの少女でしかない。
色々と弄ったが記憶と人格は弄っていないとダラダラは言っていた。
そうであればツエに難しい判断等出来ないのだ。
ツエに出来るのはダラダラの指示通りに行動する事のみ。
「……あなた達をここに閉じ込めた奴に仕返ししたくない?」
ツエは事前に聞いていた言葉を口にした。
効果は覿面。あれだけ饒舌だった壁の口がぴたりと、黙りこくった。
「領主を害した奴に罰を与えたくは無い?」
ツエは決められていた言葉を綴る。
「奴はまだ生きている」
壁が、床が、震える。
「工房長ならそれが出来る。手を貸せる」
絨毯に生えた絨毛がざわざわと騒ぎ始める。
「もしそうしたいなら、地上まで来て欲しい」
どくどくと、時計の心臓が激しく拍動していた。
「ワレワ、レハソトデハイ、キテイケナイ」
「大丈夫」
壁の言葉にツエは決められた台詞を被せた。
「工房長が全て何とかしてくれる」
疑問には全てそう答えろと、不安には全てそう答えろと、工房長はツエに言い含めていた。
実際どう大丈夫なのかをツエは分からない。
まあ大丈夫なのだろうと、楽天的にしか定められた言葉の重みを捉えていない。
「大丈夫。大丈夫だから、着いて来て欲しい」
ツエが優しく語り掛けると、ずるりぞろりと口と目が増えた。
僅かな間にすっかりそれが苦手になってしまったツエは思わず身を固めたが、悲鳴は何とか堪えた。
「クチオシヤクチオシヤクチオシヤ」
「ワレワレハキタマガニクイ」
「アアキタマニセイサイヲダンザイヲ」
「コロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル」
「ユルサナイ」
口が方々から呪詛を垂れ流す。
同時に部屋がぐにゃりと歪んだで溶け始めた。
部屋を構成していた肉はずるりぞろりと縒り合され、ツエへとにじり寄る。
うへえと、思わずツエは嫌悪感を漏らしたが、肉達は最早それを聞いていなかった。
「デラレルソトヘデラレル」
「コノママクチテナルモノカ」
「ジンセイハスベテカケゴト」
この蠢く肉共は元々何人の人だったのだろうかと、嫌悪感に吐き気を覚えるツエは現実逃避気味に考えた。
と、その時。
べたりと、ツエの両足に肉が触れた。
悲鳴は出なかった。悲鳴を出す余裕なんてなかったからだ。
「ワレワレヲキタマノモトヘ」
「オンナノカラダダ」
「キタマガニクイアノハンギャクシャ」
ツエの足元で肉が呪詛を漏らす。
……若干違う言葉も混じっていたが。
肉はうぞうぞとツエの身体を這い上がるツエは穴と言う穴を全て閉じて、ただ耐えた。
この時呼吸しなくても死なないこの身体に、尻穴から耳に至るまで塞げるこの身体に、今程感謝する事は今後無いだろうと、ツエは他事を考えながらただ耐えた。
「ツレテイケキタマノモトヘ」
「ヒンヤリスベスベ」
「ザイニンニバツヲ」
ツエの身体をむっちりと肉が覆い尽くした時、ようやく硬直の解けたツエが動いた。
悲鳴は出なかった。肉に包まれた状態で口を開く勇気が無かった。
ツエは脱兎の如く走り出す、肉を纏って。
ぶよぶよだるだるした肉塊が坂道を転がるよりも速く走り、肉壁をぶち破った。
その先は風の吹き荒れる宙空。
風に流されながらも落下するツエは着地の事を考えてはいない。
ただ、ふとした閃きが脳内を駆け巡った。
先程から肉が垂れ流す呪詛。そこに頻出するキタマと言う単語。
(ああ、聞き覚えがあると思ったら、これお館様の名前だ)
そんな事に思い至った瞬間、ツエは意識を手放した。
胸元や股間で蠢く肉の気持ち悪さが、ダラダラに施された脳改造の限界を突破したからだ。




