忍び寄る者
クフラ商会の商隊はアケヤ領内で宿を取る事は出来ない。
これはクフラ商会に限った処置では無く、公衆警察や広域傭兵組合や個人が対象の場合でも同じである。
とは言え、領主不在のアケヤ領に入る個人はまずおらず、広域傭兵組合は拠点を持っているので宿を必要としない。
対して、クフラ商会と公衆警察はアケヤ領内で抗争を激化させた結果互いの拠点を破壊し尽してしまったが故に、アケヤ領内では野営をする他無い。
もちろんその場合は必ず見張りを立たせ夜襲に備える。
それは敵対する互いの組織への警戒が主な理由であるが、それ以外からの襲撃に備えると言う理由もあった。
何故か、時折、夜が明けると数名が行方不明になっている事があるからだ。
車両を用いた簡易拠点を囲む数人の護兵達を見下ろしながら、元機動隊員であるその男は気配を殺し続けていた。
付近で一番高い構造物の屋上から顔の上半分を覗かせるその男に、名前は無い。
名前は公衆警察官としての自負と共に捨てた。
ダラダラによって名付けられた助手と言う名前だけが、その男を示す唯一の符丁である。
助手は野営するクフラ商会の商隊を監視しながら、同時に聞き耳を立てて周囲を警戒する。
頭頂部から伸びた長さ三十センチ程の棒が、周囲の状況を助手の脳へ直接伝えていた。
助手の身体は外観だけが人としての体裁を保っているだけで、中身は機能重視で設計された人とは異なる器官が詰まっている。
その夜助手が感知出来る範囲には公衆警察はおらず、静かな夜になるであろう事が推測された。
そう、静で、物騒な夜になるのであろう。
助手が見下ろす先で、びゅんと矢が風を切る音と共に夜は動き出す。
助手が随分前から気付いていた射手の存在を、見張りの護兵達が認識したのは一人が膝に矢を受けてからだった。
護兵達が張り上げる声は、助手の位置からでも聞き耳を介さずに聞き取ることが出来た。
矢を受けた護兵が戦線離脱し、車両内から新たに三人の護兵が飛び出して来る。
肩を借りながら車両内へと退避する負傷した護兵を、助手は瞳を遠望仕様に切り替えて観察した。
護兵の膝に突き刺さった矢は木製の棒にヒガヌの内翅を加工した風切り羽を付けた物だった。
鏃は肉に埋まって見えなかったが、他の素材から推測するに粗鉄か良くても海黒虫の牙だろう。
絞り弓に使われる専用矢と比べるとかなり見劣りする矢であるが、助手が聞き取っている会話では、護兵達は矢が撃ち込まれたと言う事実だけ公衆警察の仕業と決めて掛かっていた。
警告も無く魔術が放たれ、射手が潜んでいると思われる一帯が凍り付く。
愚かなと、以前の自分を棚に上げて助手は嘆いた。
助手は聞き耳を体内に収容すると静かに立ち上がる。
その出で立ちは黒い影であった。
まるで周囲に溶け込む様なぼんやりとした黒は羽毛状の体毛で形成されていて、明るい場所で見たのならば愛嬌すら感じる様なもふもふ具合である。
助手がもふもふの腕を振るうと、手首から黒い糸が飛び出した。
黒糸は風に乗って付近の構造物の壁面に触れ、びたりと張り付いた。
黒糸の正体は摩擦係数が異常に高い繊維であり、その性能を熟知している助手は躊躇う事無く構造物の縁を蹴って空中にその身を投じた。
黒いもふもふが音も無く暗闇を落下し、黒糸の張力を利用してびよんと空中で跳ねた。
その瞬間助手は黒糸を切り離し、別の壁面へと向けて新たな黒糸を飛ばす。
新たな黒糸がぺたりと壁面に貼り付くのと同時に助手はそれをぐんと引っ張った。
助手の異常な腕力で引かれても尚壁面から剥がれなかった黒糸は、反作用で助手を壁面へと引き寄せる。
助手は勢いよく壁面に着地すると、黒糸を用いて自身を壁面にしゃがんだ状態で固定した。
眼下では三名の護兵が凍った路地裏を探索している。
壁を背に慎重に進む護兵達に、助手は冷ややかな視線を向けていた。
あれでは駄目だ。警戒すべき点を間違えている。
助手は虎視眈々と商隊を狙う輩が構造物内に潜んでいる事に最初から気が付いていた。
しかし護兵達が構造物内を警戒出来ないのは仕方ない事でもある。
不用意に構造物内に侵入した領外の者は大抵住民によって殺害される。
構造物の内側はアケヤ領の不可侵領域なのだ。
アケヤ領は領主が治める時代から一貫して武闘派領としてしられていた。
私刑が容認されているのは連領連合内ではアケヤ領だけなのだ。
領主の私兵が居ない現状であるからこそ公衆警察とクフラ商会の抗争は黙認されているのであって、そうでなければ早期に両成敗が行われていただろう。
「ああ、そこそうなってたのか」
ぼそりと助手が呟いた。
助手が思わず声を出してしまう程精巧な作りの回転扉が、最後尾の護兵を構造物内へと呑み込んだのを見たからだ。
一月待たずに見付けられたのは重畳と、助手は思わずほくそ笑む。
先行する二人の護兵達は最後尾の一人が消えた事に気付いていないのを確認してから、助手はするすると構造物の壁面を登って行った。
登りながら助手は思案する。
どうやって構造物内へ侵入しようかと。
連領連合発足から存在する各領内の構造物群は得てして堅牢だ。
助手は高性能な身体を持っているが構造物を破壊するには至らない。
ダラダラは高性能な身体を与えたが、それは最高品質な身体ではないのだ。
しかし助手のその考えは杞憂に終わった。
構造物の屋上に登ってみれば、そこには一枚の床扉が存在していたからだ。
そこは施錠されていたが、錠前は魔術機構を用いた新式の物だった。
もし旧式の喪失技巧を用いた錠前であったのなら手の施しようも無かったが、新式の錠前であれば対応は非常に簡単だった。
助手は取ってに手を掛けると、ただ力任せに開いた。
構造物に比べれば非常に脆い錠前は容易く引き千切られ、助手の足元に構造物への侵入口がぽっかりと開かれた。
侵入口から見える構造物内部は暗闇で満たされていたが、助手は躊躇する事無くそこへ飛び込んだ。
幸い罠の類は仕掛けられておらず、助手は音を立てる事無く床面に着地した。
助手は再度頭頂部から聞き耳を立てる。
聞き耳は構造物の内壁によって減衰された音声を辛うじて拾ったが、その内容は不鮮明であった。
助手は静かに移動を開始する。
音と振動を一切発生させず、滑る様に構造物内部を移動する。
移動しながら聞き耳で観測した限りでは、この構造物内には五人の人が存在している様だった。
内一人は拉致された護兵と思しき人物。
しかし現時点で残る四人の明確な所属は不明だ。
するすると構造物内を探索しつつ下る助手の聞き耳が、徐々に明瞭な会話を拾い始める。
助手は足を止めると、その内容に意識を集中させる。
「外の奴等はこっちの存在に気付いてない。もう一人やるか?」
その言葉と共にびぃぃんと僅かな物音が発生する。
助手はその物音を弓の弦が弾かれる音だと断定し、襲撃者の射手が用いた弓は非常に簡単な機構である可能性が高く、脅威度は非常に低い事が予測された。
「止めとけ。一人消えた事は直ぐ気付かれる。素体候補はいくらでもやって来るんだ、じっくり集めればいい」
縄と縄が擦れる様な音。そして護兵の呻き声。
「ここで引き揚げるにしてももう一人頑張るにしても、先ずはこいつの手足を落としてからだろ。手伝え」
ぶちゅりと水音。次いでごとりと何かが転がる音が二つ続き。護兵の呻き声が大きくなる。
「こっちに寄って来てるのは数人だろ? なら一人残してこいつで殺してしまえばいいだろ? ああ、静かにしやがれ」
びたびたと肉を叩く音に続き、びたんと肉と肉が打ち合う音。
その肉音を聞くのと同時に、助手は走り出していた。
最早音を殺す気も無い。どたどたと構造物内を疾走する。
襲撃者達も流石にその物音に気付き階上を警戒し始めたが、その対応は緩慢過ぎた。
ずだん。
音が聞こえると同時に、襲撃者の一人は扉で胸部と頭部を強打され即死した。
助手が蹴破った扉が物凄い勢いで宙を飛び、護兵を抑え付けていた襲撃者を直撃して吹き飛ばしていたのだ。
助手は残り三名の襲撃者達が自身の姿を視界に収めるよりも速く、その内の一人に肉迫していた。
その襲撃者は護兵の殺戮を提案した一人で、肉塊の様な武器を携えていた。
長い銃身を基体としその後端に開いた穴に手を通して把手の代わりとするその武器は、公衆警察が復元した太古の兵器、通称絞り弓と呼ばれる代物であった。
絞り弓を携えた襲撃者は助手の接近を知覚する事無く死んだ。
襲撃者の死体は五十以上の破片に寸断され、同様に寸断された絞り弓の破片と混ざり合い護兵に降り注ぐ。
助手の両手からきらきらと光を反射する銀色の糸が靡いていた。
「……やってしまった」
ぼそりと、助手が呟いた。
しかし既に時遅く、二人の襲撃者が助手の姿を視界に収めていた。
「害獣……?」
襲撃者の一人が間の抜けた声を漏らすのと同時に、もう一人が助手に躍り掛かる。
その手には短刀が逆手に握られ、助走と体重のエネルギーを乗せた切っ先が助手の首筋に突き込まれた。
だが、切っ先はもふもふに遮られ助手の表皮に触れる事すら叶わない。
必殺の一撃を棒立ちで受け止めた助手はぐるりと思考を巡らせる。
まだこの段階で自身の存在が露見する事は好ましくない。
絞り弓の破壊を行う為とは言え、拙速な行動であった。
が、済んでしまった事は仕方ない。
取り敢えず口封じしよう。
公衆警察由来の短絡的な思考回路が即座に結論を導き出すが、それよりも一秒程速く助手は短刀を突き立てて来た襲撃者の頭部を斜めに切断する。
頭部の切断を成し遂げた銀糸は勢いを落とす事無くもう一人の頸部を通り抜ける。
一拍の間を置いて、一つと半分の頭部が床に落ちた。
更に二拍の間を置いて、絶命した二体の身体が鮮血を撒き散らしながら床に崩れ落ちる。
死屍累々。
血の海の中で助手は困り顔で立ち尽くし、結果的に生き残った護兵が血塗れで呻いていた。
「……取り敢えず持ち帰るか」
後始末について考える事を放棄した助手は襲撃者達の痕跡を消そうとゆるゆると動き出そうとして、誤って足元で呻く護兵を蹴飛ばした。
そこでようやく拉致された護兵の存在を思い出した助手は護兵を助け起こそうと手を伸ばし掛け……。
「止めた」
一転して握り拳を床に落とす。
護兵の頭部が砕け、血の海の容積が少しだけ増えた。
それは、俺の存在はまだ知られる訳にはいかないだろうと、虚しい言い訳を漏らす助手の情けだ。
両足を失った状態で護兵を続ける事は不可能だろうし、何より生きた人を持ち帰れば助手が増えるだけである。
助手はその事を十分に理解していた。




