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海岸線

 ツエが海面に顔を出すと、船団はどこにも見当たらなかった。

 足無が齎した霧が辺り一面を覆っており、陸がどちらかも解らない。

 ツエは漂っていた軽量舟材の破片にしがみ付いて息を殺すよう努めたが、恐怖から上下の歯はがちがちと打ち合い、呼吸も荒い。

 心音も激しく、足無の触手がツエを海底へ引きずり込むのは時間の問題であった。

 当然ツエもその事は理解しており、故に震えは止まらず、故に叫ぶ事も出来ない。

 恐怖に呑まれて死に急ぐのか、恐怖を抑えて地獄を永らえるのか、ツエの取り得る選択は二つに一つ……であった。

 ソレは霧の向こうから音も立てずに流れて来た。

 つい――っと、波の中に真っ直ぐ線を引く様な、どこか現実離れした航跡を引き連れながら、異形を乗せて現れたソレにツエは恐怖も忘れて見入っていた。

 その航跡は一流の海人にしか出来ないとされる隠密の泳法と良く似ていた。

 良く似ていたが、全く異なる物である事も一目で判った。

 そもそもツエは最初、ソレを計量舟材だと思った。

 しかし良く見ればソレは、緩やかな膨らみを持つ胸と引き締まった下腹部、そして小振りな顔を持つ人型の何かであった。

 人型は動いている素振りを見せないのに、波を割り滑る様に進んで来る。

 では上に乗る五つ目四つ腕の異形が何かをしているのかと言うと、そちらもやはり微動だにせず人型の上で立っているだけであった。

 その人型はツエの真横まで滑って来ると、ピタリと止まった。

 推進力も不明だがその制動もまた常識の外側にあった。

 ツエはソレを海の神ではないかとも思っていた。

 海の神は死を司るとされる。きっと死に行く自分を見届けにいらしたのだろうと、そんな現実逃避じみた妄想を、更に現実離れした光景が引き破る。

 異形を乗せた人型の頭部が、持ち上がったのだ。

 それは人に可能な動きではない。

 体は水面に寝そべったまま、首が伸びたのだ。

 伸びた首は足無の触手を思わせる動きで、先端に付いた頭部をツエの顔に近付けた。

 ここに至ってツエは恐怖を思い出す。

 その頭部は形状こそ人の顔にであったのだが、目も鼻も口も無く、ただのっぺりとした白い何かだったのだ。

『ちょっと聞きたいのだけれど』

 その顔面に文字が表示される。

 その文字は丸みを帯びた可愛さすら感じる文字で、なんともその場にそぐわない。

「な、んでしょうか?」

 思わず畏まった声で答えたツエに、顔面は一旦表示された文字を消してから、続きの文字を表示した。

『陸地はどっちかな?』

 両者の間に沈黙が落ちる。

 色々と現実離れした情景に麻痺しかかっていたツエの思考は、この人達も漂流していたんだあと何とも気の抜けた感想をその内に抱いた。

「あの、わからないです……」

 意を決して沈黙を破ったツエの言葉にやはり沈黙が続く。

その沈黙を破ったのはツエでもソレでもなくソレの上で置物の様に立っていた異形だった。

「そんな事だろうと思ってましたよ……」

 五つ目の異形が二対の腕を竦めてそう呟いた。


 紺色の影が海面へ急速浮上する。

 その正体は一人の少女だった。

 水面に飛び出た少女の首が左右に振られ、髪に纏わり付いた海水が小さな飛沫となって散った。

 立ち泳ぎのその少女はぐるりと周辺を見渡すと、迷う事無く陸地へ向かって推進する。

 その動作こそ泳いでいる様に見えなくも無いが、その速度は明らかに人のソレを凌駕している。

 面切トビを易々と追い抜かし、足無の霧を目視してからその範囲を逃れる事が可能な程速い。

 一直線の航跡を残しながら推進する少女が陸地に辿り着いたのは、ほんの数分後の事だった。

 しかし、陸地が見えても、陸地が近づいても、少女はその速度を緩める事はしない。

 少女が目指しているのはアケヤ領最南層であるトポ海岸線の東端、調査海域から最も遠い浜辺。

 東端の浜辺には一つの構造物が鎮座していた。

 四角い灰色の構造物は穏やかな浜辺には不釣り合いな程人工的で、不自然な存在だった。

 少女は海面を跳ねるように泳ぎつつ更に速度を上げ、一際大きく跳ねるとその構造物へと突っ込んで行った。

 轟音は無い。

 構造物が驚異的な柔軟性を見せて少女を受け止めたのだ。

 ぶよよんと震える構造物に埋まった少女。

 しかしながら、少女は少しばかり速度を上げ過ぎた。

 いつもなら上半身が埋まる程度であったのだが、速度を上げ過ぎた少女は足首から先を除いた全身が構造物に埋まってしまっていた。

 少女が全力でもがこうと、構造物の素材はみっちりと少女の身体を拘束して揺るがない。

 二つの足裏が申し訳程度にひょこひょこと動いていたが、その動きはやがて痙攣へと変化する。

 構造物の材質は空気を通さない。そう、少女は窒息しかかっているのだ。

 壁の中で少女の意識が飛び立とうと翼を広げ始めた頃、少女の足首を白い手が掴んだ。

 ずどんという重たい音と共に壁面から少女の身体が解放される。

 少女の身体が背中から浜辺に落ちた。

 少女を引っ張り出したのは白い人型。

 緩やかな膨らみを持つ胸と引き締まった下腹部、そして小振りな顔を持つ人型の何か。

 人呼んで全身タイツさんである。

 その顔面と思しき部位に丸みを帯びた文字が表示される。

『大丈夫?』

 表情が無い為に、それが形式的な問い掛けか本当に心配しての問い掛けかは判別不可能だ。

 一方引き出された少女はその文字を見ていなかった。

 その身体は全身タイツさんと比較するなら棒切れと評価せざるを得ない。

 スレンダーな全身タイツさんと比較して尚、棒切れなのだ。

 痩せ細った手足は細く、胸は肋骨の形状を学ぶのに適した凹凸を見せている。

 頬はこけ、指は角張っている。

 そんな外見とは裏腹に少女の健康状態は良好である。

 その証拠に血色は良い。

 現在の血色に関しては呼吸を限界まで阻害されていた反動から息は粗く顔は上気しているのだが、普段から血色は悪くないのだ。

 少女は涙や涎や鼻水や尿を垂れ流しながら、荒い息を整える事も出来ず浜辺で大の字を体現していた。

 その少女の服装は奇異な物だった。

 深い藍色のその服は、服と呼ぶには布地が少ない。

 胸から股間までこそ覆われているが、太ももの付け根から先と肩から先が露出している。

 布地は意外な程分厚い上に堅く、それでいて柔らかいと言う矛盾した性質を持っていた。

 服は少女の身体にぴっちりと貼り付いているので、少女の体型を観察する事を阻害しないが、その一方で光を全く透過し無い。

 胸部には異なった材質の白い布が縫い付けられていて、そこにはしなやかな手触りの黒い糸で大きな文字が刺繍されていた。

 文字はその服を製造した工房の名前――では無く、何故か少女の名前であった。

 ツエ。

 それが少女の名前である。

 では工房の名前はどこにあるのかと言うと、それは腰部に小さく記されていた。

 ツエの名前は藍色の布地に白布を縫い付けその中に黒い糸で刺繍をするという非常に目立つ配色であったのに対し、工房の名前は藍色の布地に空色の文字と言う目立たない配色であった。

 その空色の文字は非常に小さく、しかも右足の太腿と腰の境界線辺りに記されていた。

 太腿と腰の境界線は布地と肌との境界線でもある。

 そんな所を凝視するのは些か躊躇われる行為であり、そんな所を凝視されるのは羞恥心を励起する状況である。

 何故そんな配色でそんな場所に工房名を記したのか。

 それを知るにはその工房の工房長に聞くしか無いだろう。

「おや、帰って来ていたのか」

 工房長が灰色の構造物から出て来た。

 五つの目と二対の腕を持つ工房長は、意識が混濁しているツエを五つの目で見下ろすと、即座に興味を失った。

「意識が回復したら中に運んでやれ」

 一本の腕をひらひらと振りながら工房長が入って行く構造物こそ、ツエの服を製造した工房である。

 シシル重繊維工房。

 灰色の構造物に空色で記された工房の文字は、とても読み辛かった。

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