契約者
博士の詠唱は幾重にも重なり、既にそこから意味のある言葉を聞き取る事は不可能であった。
だが、魔術は誰かがその詠唱を耳にする事によって発現する者では無く、声帯を起点に発現するのだから問題は無い。
無数の鈍色の鎖が感情の無い瞳を持つ者達を拘束し、回転する灰色の槍がその者達を抉り穿つ。
これで何体目だろうかと、博士は珍しく殺した者達に関して思考を巡らせた。
博士が他人に対して被検体に対する物とは異なる関心を示す事は珍しい。
その稀有な思考は低い声に遮られた。
「殺す」
その言葉を聞くのと同時に博士はその場を飛び退いた。
全身タイツさんが、博士が立っていた場所に着弾した。
着弾点は砕け砂塵が低く地面を覆った。
「殺す」
低い声を放つのは全身タイツさん。すらりとした美脚、薄く引き締まった腰、控えめながらも優雅な曲線を持つ胸、小振りな顔。
博士は全身タイツさんの姿形を見て、単純作業をする様に詠唱を重ねた。
系統の異なる攻撃的な魔術が全身タイツさんを襲う。
風の刃、熱線、鋭い水流、灰色の刃、闇の斬撃。
無数に飛来した全ての魔術は、全身タイツさんに傷を与える事は無かった。
対魔術加工がしてあるのだろうと博士は推測した。
「殺す」
全身タイツさんから低い声が響く。声は博士の目と鼻の先で発せられていた。
「悪いが、まだ死ぬ気はないのでね」
全身タイツさんの繰り出す手刀をギリギリの所で躱した博士の足元で、瓶が割れた。
ごう、と。火炎が二人を包んだ。
直後に二人が火炎から飛び出る。
博士は顔に僅かな火傷を負ったが、全身タイツさんは目に見えた損傷を受けていない。
「火から逃げたと言う事は、一応燃えるのかな?」
博士がそう問い掛けたが、全身タイツさんからの返答は殺すと一言だけだった。
つれない全身タイツさんに対して、博士はふむと一息声を吐く。
「所で、先程から私に襲い掛かって来た物達は貴方の所有物ですか?」
博士の質問に対する全身タイツさんの返答はやはり殺すの一言であったが、その顔は違った答えを表示していた。
『その肉片は工房長の物だね』
その文字は一瞬で博士の目の前に迫って来る。
再び瓶が割れ、火炎が立ち昇る。
「私より遥かに精巧な脳髄制御の様ですが、その工房長とやらは博士なのですかね?」
火炎を突き抜けた全身タイツさんに対して、火炎越しにその質問は投げ掛けられた。
『工房長は工房長だよ?』
全身タイツさんは顔にそんな文字を表示して、博士の方へと振り返った。
「殺す!」
先程より語気を荒げた声が全身タイツさんから響いた。
次の瞬間、博士の頭部は宙を舞っていた。
博士の身体は全身タイツさんによって引き裂かれていたが、首を刈ったのは前進タイツさんではない。
博士の首は自発的に胴体から分離したのだ。
負けはしないであろうが勝てない。それが博士の下した決断だった。
首の切断面には無数の管足が蠢いていた。
「殺す!!」
わさわさと管足を動かして逃亡しようとする博士に対して、全身タイツさんから声が響く。
声は先程より幾分か明瞭で、音源は顔周辺では無く腹部であった。
霧が晴れる途中の様に薄ぼんやりと、その腹部に顔が浮かび上がった。
それは体表に現れた模様では無い。体表を構成する繊維が薄くなって内部に収められていたモノが露出しようとしているのだ。
『逃がすなと言われている』
その顔にはそんな文字が表示されている。
「……いつの間に」
呟く博士の頭部は空中で絡め捕られている。
博士が気付かぬ間に一帯には極細繊維による網が張り巡らされていた。
言葉として機能しない音が吹き荒れる。
博士が形振り構わずに詠唱した魔術群がほぼ不可視の網を切断せんと荒れ狂い、何ヶ所かで繊維を断裂させた。
だがその程度である。
巻き込まれた博士の頭部もまた切り裂かれ、右目とマスクが宙を舞った。
マスクの下から現れた顔は、異形と呼ぶのに相応しい物だった。
顔の下半分には詰め込まれた様な無数の口が犇めいていた。
『多重詠唱の仕掛けは随分と強引な物だったんですね』
全身タイツさんがそんな感想を表示するのと同時に、その腹部から異形が這いずり出た。
その形状は博士の現状と類似していた。
顔の下に無数の黒光りする節足。
節足の先端は鋭いナイフの様に地面に突き刺さり、それを束ねる頭部は憎悪に塗れた形相のキヒ。
「殺す!!!」
『殺そう!!!』
語気を荒げるキヒと、それに同調する全身タイツさんの表示。
博士が多重詠唱を行いながら管足を振り回し、しかしそれらはキヒの節足に端から切り裂かれて行く。
管足の断面からは薄紅色の体液が周囲に飛び散る中、発現した魔術がキヒを襲う。
キヒの新しい身体は全身タイツさんを構成する繊維よりは幾分か耐久力が劣る様で、何本かの節足が砕けて落ちた。
それらの落ちた節足は全て博士を貫こうと繰り出された物であった。
ほぼ全ての管足を失いながらもキヒの猛攻を防いだ博士は更に詠唱を重ねる。
だが、キヒの口付けの方が魔術の発動よりも速かった。
キヒの口は耳元まで裂け、博士の犇めく口達全てを覆っていた。
左目を見開く博士の後頭部を、キヒの舌が内側から突き破った。
博士の左目が痙攣する様に動いて、光を失った。
余韻を楽しむ様にたっぷりと数分は口付けを続けていたキヒは、ゆっくりと博士の顔から口を引き剥がした。
口腔内は博士の犇めく口によって無残に食い荒らされていたが、キヒは痛み等感じていなかった。
「殺した」
ぽつりと落ちる様に、しかし万感の思いを込めてキヒは呟いた。
殺したのだ。自分が殺したのだ。かつての仲間、孤児院の皆を奪った元凶を、殺したのだ。
キヒは満足していた。
この上なく満足していた。
復讐は生産性が無いと言う者もいるだろう。
だが、他に何の意味が無くとも、当人に意味があるのであればそれは十分に有意義な行為なのだ。
キヒと言う抜け殻にとって、それは非常に意味のある行為だった。
故に、もう思い残す事は無い。
『キヒ、満足した?』
全身タイツさんがキヒを摘み上げてそんな文字を表示した。
「……契約だもんね」
キヒは満ち足りた顔でそう言った。
全身タイツさんの身体には契約内容が表示されていた。
『契約約款
・キヒは契約によって以下の恩恵を受ける。
一つ、キヒは復讐を達成する。
一つ、キヒは復讐を達成可能な身体を得る。
一つ、キヒは復讐が達成されるまで死滅する事が無い様に保全される。
・キヒは契約によって以下の義務を負う。
一つ、キヒはシシル重繊維工房の営業を補助する。
一つ、キヒはシシル重繊維工房に対して害とならない。
一つ、復讐を達成した後自らの意思と思考をシシル重繊維工房に提供する。
以上の要件は他の全てに対して優先される。』
全身タイツさんの顔が、解けた。
うねうねと繊維が蠢き、形を変え、まるで繭の様にキヒを包み込んで行く。
キヒの頭部は繊維に包まれて全身タイツさんの中へと誘われ、呑み込まれた。
キヒを構成していた繊維は全身タイツさんの繊維に組み込まれ、その思考や記憶や個性や意識は全身タイツさんを構成する繊維に溶け込む様に、統合された。
こうして契約は果たされた。
表面的には。




