去年
スーパーの野菜コーナーにこぶし大のオレンジ色のかぼちゃが並ぶようになって久しい。俄仕込みのジャック-O-ランタン、かぼちゃお化けの灯篭が街にあふれ、黒とオレンジでデコレーションされた街が少々滑稽にうつる。由来もよく知らないというのに仮装と「Trick or Treat!」の呪文ばかりが一人歩きしている感は否めない。
名称としては万聖祭の前夜祭、西洋の収穫祭の事で、風習はアイルランドかどっかの呪いらしい。ジャック-O-ランタンだってイギリスではカブでつくるって聞いた。正直、私には縁も所縁も無い。はずだった。
さて。空には半分くらいの月が赤々と輝き、少々肌寒くなってきた今、私が何をごそごそとしているかというと、実は、お菓子を探していたりする。両親は共働きで、ほとんど寝に帰って来るくらいだから家でものを食べる事はまず無い。その上私も甘いものはあまり好きじゃないから、自然、甘いお菓子なんてこの家には存在しない。期待していなかったけれど、やっぱり、我が家にお菓子なんてなかった。
何で、今日この日にお菓子を買い忘れたりしたんだろう。
夕食も済み、お風呂にも入って後は寝るだけって体制になっている今、自転車に乗ってコンビニまで行くのはいやだ。私は深いため息を一つついて、さっさと諦めた。悩んだって仕方が無い。無いものは無い。
『Trick or Treat』
お菓子をよこすか悪戯をうけるか。どっちかを選べと言われたら悪戯を選ぶまで。お菓子という選択肢が選べないと明確になった以上、覚悟は決めた。
無駄な悲壮感すら漂わせ、私は自室へと向かった。
アイボリーホワイトの壁紙とディープブルーのインテリアが落ち着いた雰囲気をかもし出す私の部屋に一つ不似合いな物は、壁にかけられたリトグラフ。
オレンジ色の空に黒い半月が浮かび、蝙蝠と箒に乗った魔女が空中散歩をしている。枯れたトレントを背景にジャック-O-ランタンを手にした悪魔の少年が黒猫仔猫を連れて行進している。後ろに続くのはライカンスロープとヴァンパイア。グールが目覚めかけている朽ちた墓場の、はるか彼方に見える岩に座っているのはセイレーン。作者のサインの代わりに書かれているのは666、悪魔の刻印。
オレンジ色の背景に黒一色で精密に描かれた禍々しいハロウィンの夜。
どうしてこんなリトグラフが私の部屋にあるのか、私はよく憶えていない。しかし、当時のことをよく覚えている両親はいつもこう言ってからかう。
「かぼちゃを持った男の子が、私に手をふって笑いかけたの。私たちは特別な絆で結ばれた二人だから、一緒にいなくちゃいけないの」
どうも私の口真似らしいそれは耳にたこができるほど聞かされたけれど、さっぱり記憶に無い。けれども、どういった理由でか幼い日の私はこのリトグラフを気に入り部屋に招きいれたというわけだ。
今では、何で気に入ったのか、おぼろげに理解してはいるけれど。
「Trick or Treat!」
お菓子をもらえて当然とばかりにかけられる声。影のように黒い悪魔の少年が、扉を開けた私のすぐ目の前を漂っていた。ハロウィンの時でなくても好き勝手に暮らしているリトグラフの住人達は、この時ばかりは妙に期待を寄せた視線を向けきていて、私は少々たじろぐ。
「Trick?」
思わず疑問形になるのは、覚悟を決めたとはいえ私の心の弱さの現われに他ならない。だって、こんなに期待されているとは思わなかったのだ。なぜか私が密かな罪悪感にかられていると、悪魔の少年は一瞬きょとんと驚いた表情をした後、にやりと天使のような悪魔の微笑を浮かべた。不吉な予感がひしひしと私ににじり寄ってくる。
「悪戯でいいんだな?」
視界が闇色に塗りつぶされる。唇に押し付けられたひんやりと柔らかい感触。『ちゅ』っと効果音までついていて、それが離れると視界にも光が戻ってくる。超至近距離に楽しげな顔。その背後ではリトグラフの住人達がやんややんやの喝采をあげている。
何が起きたのか理解できずに黙って立ち尽くす私に、悪魔は言った。
「ごちそーさん」
来年のハロウィンには、ちゃんをお菓子の用意を……するべきか、せざるべきか。
それが問題。