第八話 剣術指南
暖かい日差しを受けて目を覚ますと、隣ではあどけない表情を無防備に晒しながら、幸せそうに眠る天使の姿があった。
枕元に置いた携帯で時刻を見ると、普段よりかは早く起きれたらしい。
そういえば、他の人より先に起床したことなど、生まれて初めてのことかもしれない。
どうにも寝つきが悪く、朝は起きれない、という典型的なダメ人間であり、遅寝遅起きをモットーに暮らしていた。
中学時代の宿泊学習でも起床は毎回一番遅く、何回か顔に落書きされた。
冒険中も俺が見張りの番をしていた時以外は、いつもドワーフか大賢者に叩き起こされていた。
そうやって考えると、何ともなく気持ちの良い感覚を味わえるな。
「……んぅ」
フェリアはくすぐったそうに声を漏らすと、昨日アレに使った右手で目をグシグシと擦り、口元を拭ってからパチリと瞳を開いた。
「おはようございます、ご主人様。今日は早いのですね」
「うん、おはよう。ごめん、起こしちゃった?」
フェリアはネコのように目を細め、口元で弧を描くと、おもむろに俺の携帯を開いて待受画面を開いた。
「時刻は……っと。いえ、昨日もこの数字が出ている時に目覚めたので、時間は大丈夫かと」
そっか。数字は読めなくても、画面端の時計を記号みたいなものだと覚えて――え。
新しいおもちゃを与えられた少女のように、フェリアは俺の携帯をポチポチ押してフォルダを移動していく。
「これはまた面白い魔道具ですね。色々な絵や記号がたくさん出てきます」
「や、まぁ、弄るのはそれくらいにして、ね?」
フェリアがフォルダを開いたり閉じたりする度に、俺は精神を削ぎ落とされたかのように不安の渦に巻き込まれる。
家にパソコンが一台しか無く、兄と父親と兼用。
前にいた異世界へ召喚されたのが、丁度三年前で、高校入学を目前にした中学生。
今では多少趣味や嗜好は変わったが、保存データの海が織り成す波は永遠に変わらない。
SDカードを通して他の機器に潜り込ませるか、頑張って集めたデータを泣く泣く消去するしか、その思い出は消えることは無いのだ。永遠に。
「な、あ、そうそう、今日はフェリア、学校の日だろ? 早く準備しないと間に合わないんじゃ、」
「きゃぁ」
悲鳴とも歓声ともつかない嬉しそうな声音。
フェリアは頬を淡い桜色に染め、うっとりとした双眸で携帯の画面を見つめている。
時折こちらに視線を送り、玲瓏に口元が弧を描くのが妙に辛い。
「あの、フェリアさん」
「ご主人様の、エッチぃ」
鼻先を指先で優しく突っつかれ、エプロンドレスに身を包んだフェリアは、微笑まげな視線を送り、愛らしい笑みを浮かべながら寝室を退出した。
暫しの静寂の後。
恐る恐る携帯画面を開くと、最後に開かれたファイルは、黒髪メガネなエセメイドさんが恍惚とした表情を浮かべている画像ファイルだった。
しかも、思ったより画像サイズが大きく、最高の画質にて画面いっぱいに拡大されている。
「……はぁ」
小さく吐息を漏らし、携帯をホーム画面に戻して枕元に置くと。
ひと呼吸おいた後、恥も外聞も無く、俺は布団の中でバタ足をしながら苦しみ悶えた。
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「では、行ってまいります。ご主人様」
外出用エプロンドレスとはまた違うメイド服に身を包んだフェリアは、慎ましく腰を折って、花のように微笑んでから学校へと向かっていった。
何でも、あれが制服らしい。
制服だから、スカートの丈は若干短い代わりに、中にスパッツを履いているとか。
日本のメイド文化からは考えられない着こなしをした制服だが、この世界のメイドは割とそういうところはアバウトらしい。
いわゆるエセメイドとか、カジュアルメイドと言ったところか。
もしくは、フェリアがそういう少女なだけかもしれない。
ザフィラスさんとか、凄い礼儀正しい紳士的な執事さんだったし。
こうして、行ってらっしゃいのキスも無くフェリアを送り出した俺は、部屋から愛剣を持って、ザフィラスさんが仕える屋敷へと向かう。
半分位道を忘れたが、途中ですれ違ったギルドナイトの兄ちゃんに、広い芝生が敷かれた屋敷の場所を問うと、至極丁寧に教えてくれた。
地域住民に密着した警察官って感じかな、あれは。
何度か道に迷いながらもようやく到達し、芝生の端からお屋敷を眺めると。
剣を持ったザフィラスさんが、一人で素振りを行っていた。
熱心だな。
あれくらい頑張ってるとこ見せれば、フェリアが俺を見る目も変わるかな――とか一瞬だけ思ったが。
フェリアの方が過酷な生活を送っていることに気がつき、俺はそんな煩悩を消し去り、ザフィラスさんの下へと駆け寄った。
「どうも、遅れました」
「いえいえ、私も今始めたところです。さぁ、今日も剣術の教示を始めましょう」
そう言って静かに佇むと、俺の素振りを真剣な瞳でじっくりと見据え始める。
最初の数十分はただ振るだけ。
だからと言って、まさか数十分ぶっ続けで振っているわけでは無い。
時折フォームの乱れや握り方の教示を賜り、終了すると、このお屋敷に仕えるメイドさんから温かいお茶が振舞われる。
日本の緑茶に近い芳醇な香りが立ち込め、思わず頬を緩める。
この感覚も久しぶりだ。
前の世界での水分補給は八割がたが水で、残りは村とかで振舞われた果物の絞り汁だったからな。
果汁100パーセントのジュースだと言えば、まだ聞こえが良さそうだが。
実際は汚い手で絞ったスジだらけの液体だった。
素振りが終わると、今度は実践である。
片手をポケットに仕舞ったザフィラスさんと、魔術魔法無しの剣術勝負を行う。
勝つことはおろか、一発打ち込むことすらできないが、それで実際の戦闘に慣れる練習らしい。
ザフィラスさんはポケットに仕舞った手で時折牽制し、フェイントをかけてくる。
絶対にぶつからないよう、だが眼前に突き出してくるので、いつもそれで体勢を崩して木刀を打ち込まれる。
かなり手加減してもらっていることは重々承知の上なのだが、痛い。
頭は狙わないようにしてくれていて、肩や腕を重点的に狙ってくる。
狙われる場所が分かっていても、鋭い剣裁きを防ぐことができない。
こんな腕で、俺よく魔王討伐道中大怪我しなかったな。
肩や腕が動かなくなるくらい叩きのめされると、傍で見守ってくれているメイドさんが、優しく治癒魔法をかけてくれる。
この感覚は何度体験しても、実に心地良い。
全身から痛みや不快感がスーっと抜けていくような感覚だ。
治癒が終わり、簡単なお昼ご飯をご馳走になると、またしても午後の分の剣術指南が始まる。
ザフィラスさんとメイドさんの模擬戦闘を見学し、立ち回りや咄嗟の行動を研究する。
そして、同じように木刀を向けてもらい、躱しながら俺も剣を向ける。
午後の分は実際に叩き合うのでは無く、フォーム研究のようなものだと言われた。
どうやらこの世界の剣術とは、スポーツや芸術的な要素が高いらしく、ただただ殺意を込めて打ち込む剣術とは身につけ方が違うらしい。
動けなくなるほど稽古をつけてもらうと、一日の修練が終了する。
ボロ雑巾のように満身創痍になった俺を見て、メイドさんや執事さんが、肩を貸そう、と温かな心遣いをしてくれるが。
隠れて頑張っていることをフェリアに悟られたく無いので、目立つ行動は丁重にお断りした。
毎日ズタボロになって帰宅していることを、フェリアはもちろん知っているが。
それが、ザフィラスさんとの剣術稽古による傷だとは知られていないはずだ。
ある時は、『喧嘩を売られたら、傍にいるギルドナイトさんに言えば仲裁をしてくれます』と言ってくれたし。
またある時は『森や迷宮で近寄ると襲ってくる魔物リスト』を作って食後に読み聞かせをしてくれた。
どうやら喧嘩や魔物に襲われた傷だと思っているらしい。
俺としてはその方が好都合だが、毎度毎度フェリアの心配そうな顔を見るのは若干精神にくるものがあるので、最近ではメイドさんに小さな傷まで丁寧に治癒してもらっている。
フェリアが行う一日の行動は、毎日学校と自宅の間で多少寄り道をする程度だけである。
ザフィラスさんも、あれからフェリアとは会っていないと言っていた。
この世界には電話やメールなどの通信機器も無いようなので、こっそり連絡をとることも不可能だろう。
疲弊を蓄積させ玄関で絨毯のように倒れると、心配そうにかがみ込んだフェリアに『お疲れ様でした』と、労りの言葉をかけられる。
お願いすると、ついでに頭や背中などを撫でてくれる。
何と心地良い時間であろうか。
この時間のために、毎日頑張っていると言っても過言では無い。
最近はお互いに水着を身に付け、洗体の練習もお願いする。
日に日に上達するので、学校の授業でも練習するのか、と問いたところ、見習いメイドの友達同士で水浴びをしながら身体の洗いっこをするらしい。
もちろんメイドだから、女の子同士。
中には凄く女性的な起状に富んだ見習いメイドもいるらしく、全身を密着させてじゃれると、くすぐったそうに息を弾ませるのだとか。
フェリアも先日、水浴び中別の娘に背筋を指先でなぞられ、恥ずかしいくらい高い嬌声が出てしまったなどと。
その場にいなかったことが非常に悔やまれる、最高に百合百合しく素晴らしいお話を毎日のように語ってくれた。
ご奉仕に関しては、目に見えるほどの上達は感じられない。
実際メイド学校に男性はいないらしく、練習は実地教育でしか行うことができないらしい。
だが毎晩一生懸命頑張ってご奉仕してくれるので、上手い下手はそこまで気にならない。
初めての時は何も言ってくれなかったが、二度目からは『本当にこうなるんだぁ』とか、『ご主人様、凄いです』などと扇情的な気分を掻き立てる言葉を耳元で囁いてくれる。
その度に頬を染めるのが、純粋純情な少女に見えて可愛らしい。
だがまだ初めては捧げていない。
どうもそればかりは、雰囲気を大切にしたい、という俺の何かしらの感情が邪魔をしてできないのだ。
全くもって不甲斐ないことだが。
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ザフィラスさんに剣術の稽古をつけてもらってから、一ヶ月が経った。
どうやら日の出から日没までの時間や、一日を測る大体の時間は日本の二十四時間と同等らしく、過ごしやすい。
日に日に強くなる、なんてバトル漫画的な実感は湧かないが。
初めの頃と比べて、木刀による被弾率が格段に減った気がする。
狙うところも、頭や下半身などにも増やしてもらい、攻撃を躱しながら魔術を溜めて、剣術で牽制する戦い方を身につけた。
自分では知らなかったが、俺はかなり教示されたことの飲み込みが早いらしく。
ザフィラスさん曰く、教え甲斐がある、らしい。
それならすぐにフェリアを追い越せるか、と意気込んでみたものの、フェリアは俺以上に飲み込みも身体の覚えも早かったと言われた。
頑張り屋さんで努力家なだけで無く、天性的な才能があるらしい。
流石元勇者というだけあるな。
「ところで、フェリアの実地教育期間ってどのくらいなのですか?」
午前の稽古が終了し、縁側に腰掛けながら、俺は傍に佇むザフィラスさんへと問いかける。
ザフィラスさんは暫しの間穏やかに虚空を見据えていたが、不意に吐息を漏らし、凛然とした双眸をこっちに向けた。
「実地教育などと銘打ってはおりますが、見習い執事や見習いメイドが実地教育に出向いた場合、大抵はその時にパートナーとなったお相手と、一生付き合っていくことでしょう」
私もそうでした。と言葉を紡ぎ、ザフィラスさんは「失礼」と一言呟き、俺の隣に腰を下ろす。
この方は滅多なこと以外では腰を下ろしたり、身体を休めたりしないので、話が長引くか、真剣な話なのだろうと実感し、俺も思わず姿勢を正す。
「実地教育自体は、無制限――まぁ流石に、仮契約期間とも言えますので、辞める方に限って言えば、大抵の方は一年もしないうちに辞めていきますがな」
「辞める……。辞めない方と辞める方の違いは」
「もちろん、実地教育開始時に出会った主と、生活環境に歪みを与える程度の色々な不一致があると、辞めることが多いです。大抵は、主の方から学園に解約届けを出して、半ば強制的に追い出されてしまうのが一般的ですが」
ザフィラスさんは身につけた片眼鏡越しの瞳が薄く湿り、日差しを受けて真珠のように光を放つ。
ザフィラスさん本人――もしくは、そうなった友人や仲間たちをこれまでも見てきたのだろうか。
俺の中で、何かしらの感情が湧き上がる。
決意のような、真っ直ぐな心。
フェリアは残った貴族に雇われるのが嫌で、人類初の快挙である異世界召喚をかまして俺を召喚したのだ。
それで俺が、資金や生活の問題で、仕方なくも今後フェリアを追い出したらどうなるか。
仕事が無くなれば、路頭に迷うしか無いだろう。
フェリアのように清楚で可憐な少女が道端にいたら、どのような目に合わされるか分からない。
俺だったら拾って帰る。
――と、ここまで暗い考えにハマったところで、不意に俺は一つの疑問点を思い出した。
「……あれ、でもフェリアって、魔王討伐の際に国から莫大な資金を送られてませんでした?」
事実、俺も貰えるはずだった。
どういうことだ。一戸建ての広い家に、学園へ通うだけの生活費がある。
なのに何故、フェリアはメイドになろうとしているのか。
下手すれば、イケメンの若い執事を雇って、毎日甘えた生活を続けることもできるのではないか。
俺としては考えたくない結末ではあるが。
「私もよく知らないのですが、フェリアはどうやら、使用人を雇うだけの身分を得ることができなかったようなのです」
ザフィラスさんは、顎に手を当てて重々しい口調でゆっくりと言葉を紡ぐ。
「国からの資金とは言っても、流石に一生遊んで暮らせるような量では無いでしょう。それに、こういうことを言うのは若干憚られますが、フェリアは私から見ても魅力的な女性です。冒険者などになれば、妙な輩に付きまとわれるのは必至でしょう」
淡々と告げられた言葉を耳に入れ、俺はもう一度頭の中で復唱し、咀嚼する。
フェリアは何かしらの理由で人を雇えない。
元勇者としての魔法才能を使って、冒険者になることもできない。
だからメイドになる、というのもおかしな話だが、俺にご奉仕とかをするときのフェリアは凄く興味津々といった様子だし、褒めると褒めたほうが嬉しくなるくらい喜ぶから、そういう仕事が好きだった、とまとめてしまえばそれで良いのかもしれないが。
妙に引っかかるな、それに何か納得できない。
「――それと」
頭の中でどうにもならない混乱の渦を描いていると、ザフィラスの冷淡な声音にて、思考を中断させられた。
「多分キンジ様は、今の話を聞いてフェリアを正式に雇おう、などと考えていると思われますが、」
思っている。
と、言うかそうするしか無いだろ。
何なら地球に連れて帰っちゃおうかな。
フェリアなら時間をかければ召喚魔法も描けるだろうし、瞳も鳶色で髪も漆黒に近いから目立たないだろうし。
よからぬ妄想を繰り広げ、煩悩に頬を緩めていると。
ザフィラスの咳払いが響き、正気に戻った。
「フェリアが雇えない理由にもあると思われますが、メイドを正式に雇うためには、戸籍とお給金を支払うだけの、安定した収入が無ければいけません」
当たり前だな。
どこの誰かも分からない、収入不安定な人に雇われて、そのまま逃亡したり主共々路頭に迷うなんて、悪夢だ。
――ん。待てよ、ちょっと待て。戸籍と安定した持続的な収入だと。
「失礼ですが。キンジ様、戸籍は」
「アジア州、日本国……」
「安定した持続収入は?」
「誠に恥ずかしながら、ここ一ヶ月の生活費はフェリアに出していただきました」
ヤバイよ。
フェリア雇うどころか、俺ただの腫れ物じゃねーか。
食事洗濯諸々やってもらって、お風呂まで一緒に入って、寝室でご奉仕。
しかも無償。
字面だけ見たら、もはや強制労働だな。
「ふむ……。しかし、キンジ様は確か一応家名がございますな」
「ニノミヤ・キンジですからね。俺のいた世界では、皆さん普通に名乗ってますよ」
そういえば、フェリアの家名を聞いた事が無いな。
まさか、それが雇えない原因となっているのでは。
などとまた思考の渦に巻き込まれていると、ザフィラスが不意に手のひらを打ち合い、パァンと破裂音を響かせた。
「レトナお嬢様にお頼みして、戸籍は何とかしましょう。キンジ様は、今までの剣術稽古と魔法を使用し、近場のギルドへご登録お願いします。出身地や今までの生活を聞かれたら、適当に言葉を濁しておいてくださいと、」
「あの、俺に何でそこまでしてくれるんですか?」
素朴――とは言えぬ疑問だ。
確かに助かったが、ザフィラスさんと俺はほんの一ヶ月前から剣術を教わっているだけのただの知り合い。
そこまでしてもらう、義理も義務も無い。
俺の疑問に、ザフィラスは蒼穹を見据え、そうですな、と呟くと。
「大切な愛弟子フェリアのため――とでも言えば、よろしいですか」
そう言って、眼鏡越しの表情を穏やかに緩めた。