第四話 湯沸かし器
想いを寄せる女性が作った素晴らしい料理を咀嚼し、至福の満腹感に浸っていると。
後片付けが終了したフェリアが俺の傍に姿勢良く佇み、深く丁寧に腰を折る。
「それでは、お風呂を沸かしにいって参ります」
「それは、まさか炎魔術で?」
前にいた世界では、それがごく普通の“お湯を沸かす手段”だったのだが。
フェリアは口元を手で隠し、嫌味を感じさせない玲瓏な微笑みを見せ、クスリと愛くるしい声を漏らした。
「いえ、そんなことをしたらすぐに疲れてしまいますよ。魔力を与えると勝手にお湯を温めてくれる“魔道具”があるので、それを使います」
ああ。なるほどね、異世界もちゃんと進歩してるってことか。
日本も昔は竹筒で火を吹いていたらしいけど、今では電化製品だもんな。
じゃあ、この家にある電化製品っぽい形状をした家具は、全部魔道具なのか。
俺は傍にあった冷蔵庫のような白い箱を指差し、どのようなものなのかと問うと。
子供に何かを教える母親のように穏やかな声音で、『食物などを冷やして保存するための箱だ』と教えてくれた。
やっぱり食物保存は、人類の進化に無くてはならないものなんだな。
---
風呂釜からホイッスルのような高い音が奏でられ、俺は魔道具の電源のような部分を停止させた。
ここを開けっ放しにしておくと、蓄積させておいた魔力がどんどん吸い込まれてしまうので、なるべくすぐに止めないと無駄になってしまうらしい。
そういうところも、日本の電化製品そっくりだな。
このまま進化すれば、いつか太陽光から魔力を作ったりできるのではないか。
フェリアの部屋へと向かい、俺は風呂が沸いたことを伝えに行く。
結構大きな音で風呂釜がピーピー鳴いていたが、フェリアには聞こえなかったのだろうか。
そんなに集中して、一体何をしているのだろう、と若干イケナイ妄想が頭を駆け抜けたが。
そのような煩悩は一切消し去る。
確かにフェリアは年頃の女の子だが、流石にそんなことをしたりはしないだろう。
変な妄想をしてしまい、若干顔が紅潮して熱くなる。
部屋の前で暫しの間顔を扇ぎ、深呼吸をして高ぶった精神を落ち着かせたところで、二回ノックをしてから部屋のドアを開いた。
「フェリア、お風呂沸いたみたいだけど、」
「…………」
静かだ。
静寂しきった空間には、黙々と机に向かっているフェリアの吐息の音と、カリカリと何かを書いている音だけが静かに響いている。
時折書物のような物を捲るような音が奏でられ、俺は何をしているのか大体理解しながらも、フェリアの邪魔をしないように声をかけた。
「フェリア!」
「ひゃっ、は、はい! 何でしょうか、ご主人様」
端正な顔立ちを驚きの色に染め上げ、取り乱した自分を恥じるかのように顔を紅潮させる。
「えっと。お風呂、沸いたよ」
「あ、ありがとうございます。あの、すみません。先に入っててもらえますか? 今ちょっと、そのぅ……」
何をしているのか。
夜――というか夜中に、一人で机に向かって黙々と行うことと言えば、一つしか当てはまらないが。
一応俺は、フェリアの傍まで足を運び、手元を覗き込む。
「勉強してるの?」
「はい、召喚魔法に明け暮れていた間に、皆さんが習った部分をちょっと……。バカですよね、本業は見習いメイドなのに、そんな魔術師さんみたいなことやって、やらなくちゃいけないことを、疎かにしてしまうなんて」
フェリアの読む書籍に書かれている文字は、全く理解できない。
だろうな。俺が使える程度の翻訳魔術では、書かれている文字を完璧に理解することはできない。
――だが。
「礼儀作法とか、言葉遣いの勉強?」
「はい、実を言いますと。わたし、あまり目上の方々に使う敬語が得意で無くて」
文字を読むことはできなかったが、フェリアがノートに描いたイラストはよく分かる。
ホワイトブリムとエプロンドレスを身につけた女性らしき人から吹き出しが書かれており、それに対して、王冠を被った人が何かを言っているようだ。
女の子のイラストの横に、矢印とともに『ζ』と書かれているので、これがこの世界の『私』を意味する文字なのだろうか。
などと考えながら、微笑ましげにそのノートを眺めていると、恥ずかしそうな顔をしたフェリアに、大きく広げた手で隠された。
「そんなに見ないでください。……恥ずかしいです」
顔を赤らめ、口端をそっと隠す。
むぅ、何だろう。俺はただイラストを見ていただけなのに、何かもっとヤバい物を見たときのような反応をされた。
たとえば、何も身につけていない時の素肌とか。
暫くの間他愛も無い世間話などをしていたが、『お風呂が冷めてしまいます』とフェリアに言われ、勉強中の彼女の手を煩わせるわけにもいかないと思い、俺はタオルや着替えを持って、浴室へと足を伸ばした。
---
魔王討伐からの凱旋時から、ずっと着替えていない衣服を脱ぎ捨て、真っ白な湯気が立ち込める浴室へと闖入する。
ピンク色をしたスポンジのような物が、浴室の端っこに慎ましく置いてあったが。
きっとこれはフェリアが普段使っているものなのだろう、と思い、俺は部屋から持って来たタオルを二つに折って、身体を洗うことにした。
「石鹸は、これか……。シャンプー……は、流石に無いよな」
白く小さな塊を擦ると、思ったより大量の泡が出てきた。
これで全身も頭も洗うのか。
見た感じ、使った後も塊の質量が減っているように見えないので、もしかするとこれも魔道具の一つなのかもしれない。
明日にでもフェリアに聞いてみるか。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥って言うからな。
実際聞かなくても、恥を覚えるのはこの世界にいる間だけなのだが。
「……はぁ、しかし、ちゃんとした風呂に入るのは久しぶりだな」
冒険中は、水魔術と炎魔術を使って作られたお湯と、土魔術で造った桶で身体の汚れや脂を落とす程度しか行っていなかった。
一応、一緒にいた大賢者や魔法使いが、身体の穢れや、洗体だけでは取れない汚れをとってくれていたため、汚いということは無いが。
全身を肩までお湯に浸かる、というのは実に三年ぶりかもしれない。
うぉぉ。そう思ったら、何かこの風呂は特別なもののような気がしてきた。
フェリアが入った後の浴槽だったら、この感動ももっとエキサイティングなものとなっていただろうが、そこまで素晴らしい体験を求めてはいけない。
帰ることは出来なかったが、希望通り可愛い女の子はいるし。
期間限定だけど、一つ屋根の下で一緒に暮らせるし。
しかも俺がご主人様で、彼女がメイド。
一昼夜顔を見つめていても、同じ場所で御飯を食べても、誰にも文句は言われない。
これでもし、立場が逆とかだったら、嫌悪感たっぷりな視線を向けられたりして、ぞんざいに扱われていたかもしれない。
俺は絶対そんなことはしないぞ。
実地教育の一部だから、お給金はいらないと言っていたが。
それでは俺の気が済まない。
そうだな。たまに肩を揉んであげたり、頭を撫でてあげよう。
両方俺がやりたいから、だけど。
浴槽に溜まったお湯を被り、顔についた水滴を払うと。
透き通るような水面を今一度見直し、恍惚とした表情を浮かべる。
三年ぶりの浴槽。
溺れないよな。あれ? 俺って、右足と左足どっちから入ってたんだっけ。
なんてことを考え、暫しの間遊んでいると、脱衣所の扉が開く音が響き、ペタペタと素足と床板が触れ合う音がした。
何やらゴソゴソと漁っているような音がするので、きっとタオルを取りに来たか、洗濯物を整理しに来たんだろう。
本当によく働く娘だな。
いつか倒れるんじゃ無いか。
元勇者だったと言うから、それほどやわな人間では無いのだろうけど。
「……ん?」
気のせいだとは思うが、今一瞬生々しい衣擦れのような音が聴こえた気がする。
ファサリ、と布地が床に落ちる音も。
そして、最後にペタペタと素足と床板が触れ合う音がもう一度響き、煩悩の塊のような俺の予感はピタリと的中した。
「ご主人様、お背中を流しに参りました」
「うぉっぷ!」
驚きのあまり浴槽内で足が滑った。
頭まで浴槽に潜ってしまい、すぐに顔を出して呼吸を調える。
「だ、大丈夫ですか!」
「……大丈夫だ。問題無い」
実際は大有りなのだが、普段の癖で言ってしまった。
見てはいけない、と思いながらも男の子の身体は正直なのだ。
止める術も無く、俺の視線と顔はゆっくりとフェリアの方向へと動いていく。
サイドテールにして束ねた闇色の髪。
表面積の少ない藍色のビキニを身に付け、鮮やかな空色をした小さめのスポンジを持って、浴槽に浸かったままの俺を見据える。
艶っぽく頬を淡い桜色に染め、繊細な小指で愛らしく口元をなぞる。
エプロンドレスの上からではあまり分からなかったが、何ともまあ魅力的な身体つきであろうか。
いわゆるボン! キュッ! ボン! では無いが、存在感のある胸に、無駄な肉や脂肪分の無いお腹。
だが痩せぎすな体躯では無く、女性らしい柔らかさと魅力は残っている。
腰周りも美麗な曲線美を誇っており、その蠱惑的な身体に感嘆し、思わず見とれてしまう。
フェリアは俺に、浴槽から出るよう促すと、彼女は傍にあった腰掛けに腰を下ろし、空色をしたスポンジに泡をたてる。
「待って、メイドさんの実地教育って、ここまでするの?」
「はい、ご主人様の体調管理や過ごしやすい生活を送るための地盤は、全てメイドや執事の仕事です」
事務的な口調で言った後、フェリアは口元で弧を描き、遠い目をして闇色に煌く髪を弄った。
「これが嫌だったんですよね。あんな脂ぎったカエル貴族とか、ずっとニヤついてる根暗さんに、こんなお仕事したくありませんもん」
――と、言うことは、俺にだったらしても良いんだ。
じゃなくて! 待って、じゃあ俺は今からフェリアに尻を向けて堂々と座れってことか。
何とも言えないこそばゆい感覚を覚え、一瞬だけ総身が戦慄する。
無理、無理無理無理!
大好きな女の子に生まれたままの姿を見せるとか、恥ずかしくて死んじゃうよ!
しかも相手は単なるお仕事と割り切っているため、羞恥心を感じているのが俺だけだ、というのが余計に恥ずかしい。
あ、でもその恥ずかしさが、いつしか快楽を呼び起こしてくれるかも――。
「ほら、恥ずかしがらなくて大丈夫です。ご主人様は、ただ静かに座っていれば良いのですよ」
浴槽側まで歩を進め、繊細な指先で肩を掴まれる。
お湯に浸かっていたため若干湿っており、ペッタリと張り付くような感覚を味わう。
……仕方ない。
フェリアもこれは“お仕事”だと割り切っているし、背中を見せるくらいなら大丈夫、耐えられる。
それより、フェリアがせっかく勉強したことの実践を行おうとしているんだから、ご主人様である俺も、出来るだけ手伝ってあげないと。
さっき決意したばかりじゃないか。
フェリアのためになることなのだ。俺が照れてどうする。
「……分かりました。ですが、ちょっとだけ目をつむっててくれませんか?」
「はい、良いですけど」
唇を尖らせ、すました様子で静かに瞑目する。
俺はその間に急いで浴槽を飛び出し、フェリアの前にある腰掛けへと背中を丸めて座り込む。
音で大体理解したのか、フェリアは多少堪えるような声音でクスッと笑みを漏らし、アワアワなスポンジで俺の背中をゴシゴシと磨く。
時折肘や腕が腰に当たって総身がゾクつくが、この程度なら許容範囲。全くもって問題無い。
フェリアは時偶「んっ」「んしょ」「えいっ」などと、妙に色っぽい声を漏らしながら背中を洗っている。
「上手いね。痛くないし、力も篭ってるし」
「そうですか、ありがとうございます! ご主人様」
花が咲いたような、可愛らしく嬉しそうな声音。
しかし、背中を他人に洗ってもらうなど、小学校低学年ぐらいに父親と入った時が最後では無いかな。
当たり前だが、楽で良い。
この抑えきれない羞恥心さえ無ければ、毎日やってもらうのに。
あ、もちろんフェリアの実践教育のためにだが。
「……ふぅ。背中、終わりました」
疲弊の篭った吐息を漏らし、フェリアは満足げに終了の意を伝える。
さて、俺はもう一度浴槽にゆったりと浸かり直すかな。
「お疲れ様。今日のお仕事はこれで全部?」
「ご主人様、まだ終わってませんよ」
フェリアはそう言うと、いたずらっぽく俺の肩に指を走らせ、優しくタッピングする。
「お背中の後は、前も洗わなければいけませんよ」
「ちょっと待て」
俺は首から上だけを後ろに向けて、頬を染めながら口元で蠱惑的な弧を描くフェリアを見据える。
冗談だろう、と多少期待したものの、フェリアはスポンジを握って泡を増やしている。
まだ洗い続けることに関しては、冗談や嘘では無いらしい。
でも待ってくれ。
確かに大抵、メイドさんと主というのは、年齢も違うだろうし、こういう場所の世話をするのは同性の使用人だろう。
だが俺とフェリアはほぼ同年代(フェリアの方が若干下)で、しかも異性。
お互いに思春期真っ盛り。
「役満だろ……」
これ以上の関係があるだろうか。
倫理とか羞恥とか、そういう話では無く、間違いなく危険な香りがプンプン漂っている。
理性は保てるだろう。俺は別に、見られて劣情を催すような人間じゃ無いからな。
フェリアもお仕事だから、俺に変な気を起こすことは無いだろう。
もし起こしたとしても、俺は拒まないけど。
「ご主人様、お身体が冷めてしまいますよ。腰を動かすのが億劫でしたら、わたしが直接前に移動いたしますが」
「お願い、待って、まだ心の準備が」
我ながら何て気概の無い人間だろう、とは思う。
だが、出会って間も無い女の子に背中を流してもらうのにも多大なる勇気を有すると言うのに、お腹まで洗ってもらうとか。
――そんなオカルトありえません。
「ご主人様、実はわたし、まだお仕事が残ってて……」
甘えるような、そして懇願するような弱々しい声音。
確かにこのまま俺が動かなくとも、フェリアは頑として後ろを動かないだろう。
それに――。
「――クシュン」
何とも可愛らしいくしゃみ。
そういえば俺は浴槽に浸かっていたが、フェリアはさっきからお湯を被っていないんだったっけか。
こんなバカバカしい理由で、フェリアに風邪を引かせるわけにはいかない。
ええい、ままよ。
俺は下腹部で手を合わせ合い、俯いたままの状態でフェリアへと身体ごと向き直った。
顔が熱く、色濃く紅潮していくのが感覚的に分かる。
実に情けないポージングだとは思うが、丸出しにするよりはよっぽどマシだ。
「――――」
フェリアが息を呑む声が耳に入る。
先ほどより、若干弾んだ吐息を漏らし、泡だらけなスポンジを持ったフェリアの腕が、俺の体躯全面を丁寧に磨く。
顔を上げられない。
フェリアがどんな顔をして洗体しているのか、気にはなるが、それをこの目で確認するだけの勇気は無い。
照れているだろうか。無表情だろうか。視線を泳がせ、恍惚とした表情を浮かべてたり――は流石に無いか。
スポンジ越しにフェリアの体温を感じ、俺の呼吸も荒くなっていく。
大体の部分を洗い終わり、残りは男の子的な聖域だけだ。というところで、フェリアは「フゥ」と艶めかしい吐息を漏らし、開いていた股を閉じて姿勢を正す。
やっと終わったのか。
全身からどっと疲れが出る。
常時精神を張り詰め、ピリピリとした緊張感を保っていたからな。
仕方ない。俺には荷が重すぎたんだ。
今日は早く寝て、明日にでも朝日を浴びて筋トレでもしようかな。
「――ご主人様」
「うん? ああ、お仕事お疲れ様。俺は少し浴槽に浸かってから出るから、フェリアは先に出てて良いよ」
俺は顔を上げ、フェリアの顔を見る――と、フェリアは若干顔を赤らめ、俯いたままだった。
あれ、もしかしてやっぱフェリアも恥ずかしかったのかな。
お仕事です、って割り切ってたけど、流石に裸のお付き合いは精神的疲労感が半端では無いのだろう。
この塞がっている両手が空いたら、後で肩揉んであげよう。
今日一日、お疲れ様の意を込めて。
――と、俺もやりきった感情を持って、心の中で伸びをしたのだが。
フェリアは頬をりんごのように真っ赤に染め上げ、自身の小指を甘噛みしながら顔を上げた。
「ご、ご主人様。まだ、その一番大切な箇所を洗い終わっておりません」
実に忙しなく、後半の半分を一気にまくし立てると、フェリアは鳶色の双眸を俺の両手へと向ける。
もちろんこの手の向こうには、隠さなければならないものがあるのだが。
「これも、メイドの務めですから、」
「待って、大丈夫。無理しないで大丈夫だから」
実際無理をしているのは俺の方なのだが、フェリアは俺の制止も聞かず、太ももの間へとスポンジを押し付けてくる。
この世界のメイドって、どこまでがお仕事なんだ。
フェリアは凛然とした瞳で、気にしていない様子を見せる。
しかしそれとは裏腹に、彼女の顔は沸騰しそうなほど真っ赤に染まっている。
どっちが本心なのだろうか。
しかし、まぁ……。せっかくだし、嫌々してもらうより、楽しんだ方が精神的にも良いか。
ここは堂々としていよう、その方が羞恥を感じなくて済む。
俺は両腕を組んで風呂場の天井を見据えると、フェリアが行う極上の洗体を心ゆくまで楽しむことにした。