第十七話 ミサ・ファンネル・シュトローム
唐突だが、ミサという少女の話をしよう。
ミサ・ファンネル・シュトロームは、三人家族の一人娘だった。
魔女である母親から魔術を習い、賢者であった父親からは、毎晩難しい書物を読みきかせて貰っていた。
ミサの両親は、いわゆる教育ママや教育パパという生物である。
幼い頃――今でも十分幼いのだが、物心ついた頃からありとあらゆる英才教育を施されたミサは、はいはいを覚えると同時に手から炎を出すことができた。
最初に喋った言葉も、パパやママといった可愛げのあるものでは無く、水を氷へと変化させる初級魔術の詠唱だった。
両親の教育の賜物――ということももちろんなのだが、実際ミサは天才だった。
幼少時から日常会話のように飛び交っていた専門用語を片っ端から暗記し、それがどういうもので何を示すことなのか、それを全て理解し、自分のものとしていたのだ。
幼い頃から魔術を使えて、しかも初めての子供だったため、ミサは何よりも大切にされ、可愛がられた。
シュトローム家の愛娘。
近隣の人々からもそう呼ばれ、瞬く間にミサの名前は近場の集落や村へと広まっていった。
それから数年後。
歩けるようになり、言葉も大分覚えたミサ。
幼いながらも、すれ違えば誰もが思わず振り返ってしまうほどの美少女に育ったミサは、森に済むエルフや集落の少年たちから、毎日のように声をかけられた。
とは言っても、彼女は正真正銘まだ幼い童女である。
言い寄ってくるのはまだオムツもとれてない洟垂れ小僧や、世間知らずな生まれたての魔族くらいだ。
だが異性に好かれるという感覚が快楽であることは、幼かろうが年を食おうが関係ない。
毎日とっかえひっかえ男の子たちを相手にしながら、ミサは辺りの森林や村の周りを探検するのが日課となっていた。
ミサにとって、男の子とは向こうから勝手についてくるもの。
水浴びするときでも、用を足すときでも、お昼ご飯を食べる時でも。
ミサの隣には、誰かしらは――絶対一人は少年がいた。
用を足すと言えば、人並みにイタズラ好きだったミサは、その行い方も人と違っていた。
外で遊んでいる途中でも、絶対何回かトイレに行きたくなってしまう。
だがミサの周りにはいつでも男の子がいるため、いつでもどこでも遠慮なく用を足せるというわけではない。
時にはミサより幾らか年上のお兄さんが一緒にいることもあり、そういう子と一緒のときは、絶対に彼らの傍ですることはできなかった。
でも我慢すれば漏れてしまう。
そこで彼女が思いついた画期的なアイディアとは、膀胱に溜まった水分や不純物を、水魔術として別の場所から放出するという荒業だった。
当時の遊びや探検は、全てミサが決め、ミサの意思で行動していた。
そのため彼女の気が向けば、それがお昼寝になったり虫取りになったりするのだが。
時々彼女は、水鉄砲ゲームなる遊びを提案し、傍にいる少年たちに引っかけて遊んでいた。
数日間続けていたら、当然バレた。
水魔術自体は手のひらから出すのだが、体内を循環させて水を綺麗にしたりとか、色を変えるなどといった芸当までは、さしものミサでも不可能である。
そのため、普通は股座から出るはずの液体がそのままの状態で手のひらから放出され、それを少年たちに容赦なく頭からひっかけていた。
言うまでもなく、当然禁止された。
だがその事件を通しても、ミサの人気が薄れることは無く。
ミサの幼稚な男遊びは、暫くの間続いていた。
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ミサには、恋い焦がれる相手がいた。
人並みに羞恥心が芽生え、ちょこっとずつ異性を意識し始めるその年頃に、同年代の他の少女と同じように、年上のお兄さんに憧れという名の恋心を抱いたのだ。
相手は、ミサの住む森林近くに構えられた王宮の、門番を任されている若い青年だった。
黒髪の似合う凛々しい顔立ちの青年であり、誰にでも優しく、笑顔だった。
森林探検と称して少年たちを連れまわしている途中、ミサは彼と初対面した。
その時の衝撃とは、今でも忘れられない。
ドクンと心臓が跳ね飛ぶような感覚を覚え、目の前の青年を『格好いい』と感じたのだ。
青年――騎士の名は、フォーガ・アイゼン。
最近騎士という職に就いたばかりの青年で、行っている職務は全て下働きである。
門番以外の仕事も無く、夜が更けるまで交代もなし。
そのためミサが王宮の前に赴くと、いつでも彼はそこにいてくれて、彼女に美麗な笑顔を贈ってくれていた。
ミサは、毎日のように彼に会いに行った。
付きまとってくる少年たちを振り切って、ミサは毎日のように王宮へと赴き、茂みの中から顔を出し、ずっと彼のことを眺めていた。
最初は、ただ遠くから見つめるだけ。
だが日を跨ぐとともに、アイゼンも彼女の存在に気が付くこととなった。
毎日毎日茂みから顔を出し、ずっと王宮の門を見つめている。
幼い少女が起こす不器用な恋心がもたらすその行動を、アイゼンは『王宮が珍しく、興味を持っているのだ』と勝手に解釈した。
アイゼンは心優しく、相手が子供だろうと老人だろうと、誰にでも平等に接する青年である。
ミサが現れて数週間がたった頃、アイゼンは茂みに隠れたミサに歩み寄り、優しく声をかけた。
「いつも来てるね。この建物に、興味があるのかな?」
騎士として――気になったから、ただ声をかけただけだった。
だがミサは、突如目の前に現れたアイゼンの姿にびっくりしてしまい、彼女は俯き、すごい勢いで走って帰ってしまった。
まあ、仕方がない。
アイゼンもその反応を見て、一抹の寂しさを感じながら、『もうここには来てくれないんだろうな』と思っていた。
数日間、ミサは王宮に近寄らなかった。
外出することも無く。
お部屋に籠り、父親から贈られた魔術書を積み重ねて一心不乱に読みふけった。
胸の痛み。上気する顔。速まる鼓動。
そんな症状をもたらす病気や呪いをかけられたのだと思い込み、これでもかとミサは、自身の持つ書物を漁った。
完全なるアウトドア派であるミサが引きこもり、真っ先に心配の念を抱いたのは、魔女であるミサの母親である。
賢者である父親はどちらかと言うとインドア派で、幼少時は自室で書物を読んで過ごすことが多かったという。
だがミサの母親は、魔女であり、フィールドワークが大好きだった。
そのため、日も当たらない、自然を全く感じることのできない場所に一日中引きこもっているなど、考えられないことだったのだ。
「ミサ、どうして外にでないの?」
ミサが引きこもり、三日ほど経った頃だろうか。
優しく、穏やかに。ミサの母親は、彼女にそんな問いかけをした。
親バカというわけでは無いが、天才肌な我が子を心配する気持ちだってある。
誰かにイタズラされたのかなとか、怖い魔物とかに出会ったのかな。といった感覚で問いかけたのだが。
「――胸が、痛いの」
小さな左胸を押さえて涙を浮かべるミサを見て、ミサの母親は半狂乱になった。
咄嗟にその場で服を脱がせ、全身に治癒魔術や解毒魔術――ありとあらゆる魔術を施し、ミサの小さな肩に掴みかかる。
誰にされた。何をされた。他になにかされなかったか。
と、まあミサの理解が追いつくより先に次々と質問を投げかけ、豹変した母親に驚いたミサはショックのため泣きながら、
「王宮前の、黒髪のお兄さんが……」
「――――!?」
王宮前――そうなると、門番の騎士かそれに準ずる方だということになる。
喩え下働きの門番だとしても、騎士になるためにはそれなりの身分や家柄が必要。
ましてや王宮付近を任される騎士であれば、人格形成や性格など、ありとあらゆる指定を潜り抜けた、まさに聖人と言えるような人間でしか、なることはできないはず。
と、そんな誇り高い騎士様が何故うちの娘に――というところで、ミサがぽつりと「格好良くて」と呟き、憤怒した母親が王宮に乗り込むなどという愚行にでることなく、ミサの引きこもり事件は幕を閉じた。
逆に、初恋だと分かれば母親にだって助言のしようがある。
花を贈ってみたらとか、魔術で何か作ってみたらなどと助言をし、ミサが外に出られるよう、彼女なりに勇気を与えてみた。
まだ年端もいかぬ少女になんてことを教えているのか、とも思えるが。
ミサの母親は、それでいて恋が実るとは端から思ってもいなかった。
幼き頃の甘酸っぱい恋――その程度に閉じ込めて、娘の成長を喜んでいた。
だがミサは、同年代の他の少女たちと違っているところが二つあった。
一つは、幼少時から男の子につきまとわれていたため、異性慣れをしており、さらには自身が可愛いということを潜在的に知っていた。ということ。
二つ目に、この年齢ではまだ使用できないような、レベルの高い魔術を平気で使用できるということである。
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恋の病を克服し、また王宮に現れたミサ。
アイゼンの姿を見つけるが早いか、ミサは自分で自分に水魔術で攻撃し、真面目に職務を勤めるアイゼンの目の前に吹っ飛んだ。
水魔術にしたのは、まあ色々と理由がある。
炎にすれば、服が破れて母親の頭に角が生えるから。
土にすれば、これまたお洋服が汚れて、母親の口から火が噴かれるから。
基本的な三属性魔術の中で、ようするに、『水魔術なら、乾かせばなんとかなるから』という、所謂子供の浅知恵からなるものであった。
その状況に困惑したのはアイゼンである。
必死に眠気と戦いながら森林を眺めていると、突然プラチナブロンドの少女が弾丸のように飛んできたのだ。
手に持った槍を投げ捨て、飛んできた少女を必死に受け止めた。
怪我は無いか、何が起こったのかと愕然としたアイゼンは、胸に抱いた少女を抱き直し――、
「お兄さん、一緒にお散歩しませんか?」
歳が十個以上も離れた少女から、デートのお誘いを受けたのだった。
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それから、ミサの日程に『アイゼンお兄さんとのお散歩』という項目が追加された。
アイゼンと同じ門番はその光景を微笑ましく思い、アイゼンがミサの相手をする数分の間、門を一人で守ると承知してくれた。
お散歩――とは言っても、王宮の門付近を二人で手を繋ぎながら歩くだけの可愛らしいものである。
毎日同じような場所を巡って、ミサははしゃぎながら、見つけたものをアイゼンに報告する。
「アイゼンお兄さん! 見て見て、緑色の魔石!」
「わぁ、凄いね。緑色の魔石なんて、すごく珍しいよ」
アイゼンはその度にミサを褒め、心からの笑顔をみせる。
これはお世辞や、所詮子供だから――という謙遜や過大評価では無い。
魔石に関わらず、ミサがアイゼンに見せる採取物は、全てが希少かつ高級品ばかりであった。
王宮付近のフィールドワーク。騎士が行うには明らかに不相応な事柄だったが、アイゼンはミサとの探索を楽しみにしていた。
今日はどのようなものを採取するのだろう。
今日は、どの方角に連れてってくれるのかな。
紙上の知識ばかりを高め、大して自然と触れ合ったことの無かったアイゼンにとって、ミサとの探索は、物珍しくとても価値がある体験だった。
ミサにとっても、わずかな時間ながら毎日アイゼンと接し、話すことができる。
そんな状態を、心から楽しんでいた。
彼女はその時、人生で一番幸せな時間を過ごしていたことだろう。
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ミサとアイゼンがフィールドワークを始めてから、数か月。
ちょうど王宮では、騎士たちの昇格試験が実施されることとなった。
必然的に若い騎士たちは王宮内に召集され、見回りや門番などの職務にあたっていた騎士たちは、試験勉強などのため王宮から姿を消した。
騎士たちの昇格試験。当然、一般市民には伝えられない情報だ。
年に一、二回行われるということは知られているが、いつ行われるか、どのような試験なのかなどと、そういった情報は一切知らされていない。
これは試験に公平をきすためには、仕方がないことである。
新米騎士であるアイゼンも例外ではない。
むしろ、危険かつ休みの少ない門番から昇格するためのチャンスである。
アイゼンは王宮内に用意された騎士室に閉じこもり、書物を片手に、怒涛の如く知識を詰め込んだ。
滂沱の如く降り注ぐ知識を、奔流のように溢れる情報を。
彼は、己の頭と身体に一心不乱に叩き込んだ。
来る日も来る日も、日に当たることも風を受けることも無く。
ミサと出会うより、昔のように。
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ある日ミサが王宮へ参ると、そこにアイゼンの姿は見えなかった。
代わりに見慣れぬ騎士が二人、冷ややかな視線を向けていた。
門番にも交代の時間はある。
ミサはいつも通り茂みに蹲ると、アイゼンが来るのをただただ待った。
朝食を摂り、母親に「いってきます」と声をかけ、集落を越えて森林を抜けて、ここ王宮の前まで駆け抜ける。
気配を消して茂みに隠れ、暇そうにしているアイゼンに向かって体当たり。
アイゼンはミサのそんな無邪気な行動を受け止め、太陽のように輝かしい笑顔で迎えてくれる。
昼頃になって来客などが減少すると、アイゼンとのフィールドワーク。
アイゼンが驚く顔を見るのが楽しくて、珍しい鉱石や薬草を採って、アイゼンに見せる。
目を丸くして驚くアイゼンは、嬉しそうにミサの頭を撫でてくれる。
綺麗な花とかを見つけた時は、一緒に来てくれるアイゼンへプレゼントする。
青紫色をした花をあげたときは、アイゼンがとても嬉しそうな顔を見せてくれた。
アイゼンが喜んでくれるのは、ミサにとっても幸福だった。
ここ数か月、ミサはそうした日常を毎日過ごしてきていた。
それが当たり前で、今までで何よりも楽しいひと時。
――ミサは、アイゼンが門の前に現れるまで、ひたすら待った。
ひたすら、ひたすらに。
見ているだけで胸が高鳴る、あの笑顔がみたいから。
だが、ミサの抱くそんな思いが叶うことは無かった。
泣いた。ひたすらに泣いた。
長い帰路でも、家に帰っても、お部屋に戻っても。
滂沱の如く頬を濡らし、眼球が真っ赤に染め上げられ、シクシクと痛くなっても。
ミサは、泣くのをやめなかった。
たかが初恋――ミサにとって、アイゼンとの出会いはそんな言葉で片付けられるようなものではなかった。
アイゼンと出会った時から確信している。
ミサとアイゼンは、結ばれるべき相手なのだ。
それが単なる一方通行の感情であり、わがままであることは幼いミサにも理解できた。
だが、それでも――。自分がわがままで自分勝手な人間だとしても。ミサは、一目でいいから、もう一度アイゼンに会いたかった。
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さらに時間が進む。
ミサは、母親から新たな魔術を教わっていた。
属性魔術とは違い、限られた一族にのみ伝えられる高貴な魔術。
そして、決して無暗矢鱈に使用してはならない。面白半分で、友人たちに見せてはならないと、ミサは強く釘を刺された。
「ミサ、これからちょっとミサを嫌な気分にさせてしまうけど、お母さんを嫌いになったりしないでね」
「はい、お母さん」
日の光の届かない部屋で、ミサの母親は木製の捩じれた杖をゆっくりと回転させる。
異様な空気が場を支配し、ミサの素肌に鳥肌が粟立つ。
思わず両腕で身体を抱きしめ、深く深呼吸をする。
「――ミサ」
不意にミサの瞼を撫でられ、瞳を閉じる。
視界が真っ暗に染まり、途端グラリとした感覚が頭蓋を刺激した。
「――――ぅ」
瞼から手が放され、眼球を支配していた圧迫感が取り除かれる。
その感覚に安堵し、ミサはその透き通るように美麗な瞳をパッと開いたのだが。
「――え?」
その濁った瞳には、母の姿も、部屋の壁も、何も映らなかった。
「何、怖い。お母さん!」
「落ち着いて、ミサ」
刹那再び瞼に圧迫感を味わい、そしてもう一度手が放される。
すると、
「……あ、見えた」
ミサの瞳には、母親の姿、部屋の壁と、全く変わらぬ景色が鮮明に映っていた。
安堵感の中にも一種の困惑を味わい、ミサは不思議そうに顔を倒して見せる。
そんな彼女の反応を確認すると、ミサの母親はフゥと呼気を漏らし、
「これはね、魔術をかけた相手から、“一つだけ”何かを奪うことができる魔術なの」
「魔術……。呪術や、賢術ではないのですか?」
呪術や賢術であれば、似たようなものを体験したこともある。
視界に膜が張ったように、前が見えなくなる賢術。
視界が悍ましい赤色に染められ、前後不覚になる恐ろしい呪術。
父親の部屋に蔵書された書物にも、数多くの術が記されていた。
だが、魔術でそのようなことが可能とは、ミサが読んだ書物には、一言も書かれていなかった。
「そう、魔術。賢術と違って効果が高く、呪術と違って解呪方法も存在しない。でもね、ミサ、これだけはお母さんと約束してほしいの」
「何ですか」
「絶対に、悪意をもって使用してはいけない。――これは、身を守る術をもたない魔女の一族が、己の肉体や心を守るために創り上げた、最高の精神関与魔術。徒に他者を傷つけるための魔術ではないわ」
「……その、お母さん」
その教えを守る意思を伝えるより先に、ミサは顔を上げ、母親の瞳を見据えた。
あどけない表情に浮かんだ、決意のような覚悟のような、鋭い輝き。
薄桃色の口端がスィと外気を取り込み、唇をキュッと結んで見せる。
「その、私じゃ無いんだけど。……友達が、そう、友達が、すっごく好きな男の子がいるんだって。それで、その子のために、大好きな人を虜にするために使うのって、ダメ?」
「はぁー……」
漆黒の魔女装束に身を包んだミサの母親は、まるで頭痛でも覚えたかのような面持ちで嘆息し、側頭部を撫でつける。
この発言をした者がもう少し歳がいっており、物事の分別をつけられる年頃であれば、彼女の応えもまた違ったであろう。
だが、発言者はまだ夜中一人でトイレにも行けない、まだまだ小さな少女である。
彼女もまた、若く天才肌な母親である。
幼い頃から数多くの知識を叩きこまれ、憧れや恋心を抱く時間など与えられることも無い。
男の子によく思われようと着飾り、自分を可愛く見せる。――そんな体験に、少しだけだが憧れていたのだ。
子供のおふざけ――では済まされない話ではあるが、いたずらっ娘というのも中々可愛らしいものではないか、と。
ついでに、愛娘を甘やかしたいという感情が突出し、思わずミサの発言に首を縦に振ってしまった。
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それから数か月の後。
母親から精神魔術を学んだミサは前のように、高鳴る胸を押さえながら、王宮への道筋を駆けていた。
アイゼンを見ることが叶わなくなってから、無意識の内に足を遠ざけていた王宮の門。
彼はいるだろうか。
いなくてもいい。取り次いでもらえばいいのだ。
艶めいた黒髪を頭の中に思い描き、頬を緩ませながら、ミサは森林を駆け抜けた。
幼い少女とは思えぬ、凄まじい脚力。
滅多な段差では転ばず、瓦礫を積み上げたような荒れ道でさえ、速度を緩めることなく真っ直ぐ進む。
幼少時から少年たちと平野を駆けまわり、森林を走り、常人とは比べ物にならないほどに、ミサの脚は鍛え上げられていた。
それでいて、堅い筋肉などつかず、少女らしい滑らかな曲線を描いているのは流石と言うべきか。
金色の髪が舞い、漆黒のローブが風を纏う。
棒切れのように細い足は交互に地を踏みしめ、その矮躯を前へと突き進める。
荒れ道を越え、砂利道を抜け、懐かしい茂みが視界に入る。
茂みを見ると隠れたくなる感情に駆られるが、そんな思いを振り落とし、深緑の塊を突き抜けた。
「――っ、とと……」
飛び込んだ刹那足がふらつき、転びかける。
ミサの視界が地面を捉え、危うく顔面から大地とハグしかけたその途端、
「きゃっ――」
門番の騎士が身に着ける衣装とは比べ物にならぬ、上等な生地。
それに包まれた逞しい腕がミサの体躯を抱きかかえ、ミサは思わずその腕に全体重をかけて飛び込んだ。
温かくて懐かしくて、それでいて甘酸っぱくて切ない香り。
ふんわりとしたそれに包まれた瞬間、ミサの心を凍結させていた、厚く堅牢な氷の壁が溶かされた。
「――アイゼン、お兄さん」
「久しぶり、ミサ」
「やっと、会えた……」
「うん。やっと会えた」
「やっと、ひくっ……やっと、やっと会え、ひくっ……やっと、会えた」
アイゼンの胸に飛びつき、ミサはわんわんと泣きじゃくる。
感情の決壊。アイゼンからしてみれば、密度も高く心労の絶えない数か月――ミサと会わなかった期間は、そう長いものとは感じなかっただろう。
だが、ミサにとっては違う。
初めて恋い焦がれた相手。初めて夢中になった異性。そして、初めての喪失。
同じく密度の高い期間だったが、ミサにとっては、その全てがアイゼンによるものだった。
幾度となく、忘れようとした。
何度も何度も、頭に浮かぶ度に、アイゼンとの出会いを忘却にふそうと考えていた。
初恋とは、儚く綺麗だが、ほどよく調和された毒がある。
甘く、心の全てを飲み込んだあげく、波のように去っていく。
ミサにとってアイゼンは海岸を彩る波であり、魅惑の果実に含まれた、酸味ある毒だった。
「もう……、絶対、放さない」
『俺も、ミサのことを一生放さない』
――と、ミサは、そんな答えを期待していた。
アイゼンが放つ、男性らしく頼もしい声音。それが発せられ、ミサの耳に届くとき、そんな答えが含まれていると、ミサは確信していたのだ。
だが、
「ごめん、それは無理だ」
体躯の全面に感じていた温もりが離れ、一気に冷めた。
「な、」
何で? と言おうとしたのだろう。
唇は震え、喉笛は感情を外界に吐き出そうと、必死に痙攣し、動こうとするが。
「見てごらん、これ」
ミサの言葉が紡がれるより先に、アイゼンは懐から身分証を取り出し、薄く微笑んだ。
難解な言葉が連なれ、ミサには書いてあることの八割以上が理解できなかったが。
アイゼンの表情と前後の言葉から、何となくの事情を察することはできた。
「昇進したんだ。門番じゃなく、王宮の中を護衛する部署に」
「…………」
嬉しそうにはにかみ、アイゼンは頬をポリポリと掻く。
ミサは拳をギュッと握り締め、俯き、口元をキュッと締めた。
そうでもしないと、今にもまた感情が決壊して、涙が出てしまいそうだったから。
「ミサとの探索ごっこ、楽しかったよ。……いつかミサをお嫁さんにもらう男の子は、世界一の幸せ者になるだろうな」
――違う。
ミサが欲しい言葉は、そんな言葉じゃない。
子供慣れしていない大人がのたまう、そんな言葉じゃない。
――でも、
ミサは、アイゼンに弱いところを見せたくなかった。
「また、いつか会えるかな?」
泣くのを堪え、精一杯の笑顔を見せてミサはアイゼンの顔を見る。
アイゼンは少しだけ困ったような表情を浮かべたが、すぐにそんなものは消失させ、
「会えるさ、きっと」
最後だけは、ミサの望む言葉を紡いでくれたのだった。
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――瞼越しに眩い光が放たれ、おぼろげな視界を真っ赤に染める。
「……ん、んん」
気が付けば、ミサ――もとい異邦人ウィッチは、深緑の上で大の字になって寝転がっていた。
三角帽子は傍に投げ出され、穴の開いたマントも同じくその辺にぶんながっている。
ついでに妙にスースーする感覚を覚え、そっと視線を下方へと向けると。
「……は?」
唯一身に着けていた下着は取り払われ、未だかつて誰にも見せたことの無いその股座が、惜しげも無く外気に晒されている。
そして、視界の端でぐったりとうずくまる黒髪少年の姿が目に入り――、ウィッチはボッと顔が上気する感覚を得て、みるみるうちに頬が真っ赤に染め上げられた。
「アイゼ――じゃない、キンジ! キンジお兄さん!?」
地面に引っかかったマントを引き剥がし、すぐさまその矮躯を包み込む。
下着は見つからないが、丸裸を晒しているよりかは大分マシだ。
丘も起伏も無い平坦な体躯をマントで包み、ウィッチは辺りを見渡した。
ウィッチの短い人生の中で、最も憧れ、最も慕った騎士アイゼン。
彼と瓜二つな容姿(若干キンジの方が幼く、崩れているが)をした少年が、ズボンをくるぶしまで下ろし、蹲ったまま苦しそうに息を弾ませている。
はっきり言って、情けない格好だ。
地面に這いつくばるように顎を擦りつけ、口端には真新しい涎の跡が残っている。
口元はニヨつき、鳶色の瞳は今にも瞼の裏に隠れてしまいそうなほどに、上目遣い。
あれを上目遣いと表現すべきなのか、ウィッチとしても若干迷ったが。
ともかく、
「あ、ぐぅ……。あ、はぁ……。んぐ、んぅ、んぅ……!」
「だっ、大丈夫ですか、キンジお兄さん!」
「大丈夫だからあまり見てやるな」
凛々しい声音が背後から奏でられ、ウィッチの瞳を逞しい手がしっかりと塞ぐ。
いったい何が、と困惑した刹那、閉じられた瞳とは裏腹に、敏感となった中耳腔を、鈴の音のように柔らかな声が刺激した。
「ああご主人様ご主人様。わたしがちょっと席を外している間に、すっかりお身体が良くなられたようで、フェリアは凄く嬉しいです!」
頬を両手で包み込み、うっとりとした――恍惚とした表情を浮かべたメイド。
吸い込まれそうに美麗な黒髪を煙らせ、キンジと同じ鳶色の瞳は、ネコのように滑らかに細められている。
だがよく見ると、ふくらはぎや脛の辺りに無数の裂傷が刻まれており、その度が過ぎた愛念もあって、純粋純真なウィッチの目には、危ない人としてフェリアの姿が映り込んだ。
「ったく、あんまり暴れると、私が付けた脚の傷が開くぞ」
フェリアの脚に付けられた、生々しい傷の跡。
どれもこれも表皮を裂くことは無く、じんわりと橙色をした血が内部で滲んでいる。
何を隠そう、フェリアの滑らかな脚にこれらの傷をつけたのは、そこで剣を腰に携えたリリウスその人である。
キンジがあのような姿となり、ウィッチが気を失った直後のことであるが。
まあ、その辺りは後述するとして。
「……あの、わんわんのお姉さん?」
「何だ」
瞼を覆うリリウスの手に力が込められ、爪を立てられたウィッチは苦痛のため口元をへの字に曲げる。
「その、……私、このお兄さんにどこまでされちゃったのかな、って」
刹那、空気に押し潰されるような錯覚を味わい、込み上げる吐き気のためウィッチは思わず口元を押さえた。
発生源が黒髪メイドの体躯から。――ウィッチの目には、鬼の形相で口元を歪めながら髪を舞い上がらせる『エプロンドレスの皮を被った魔物』が見えたが、咄嗟に目を逸らして記憶から抹消する。
「……あんなの見たら、夜中おトイレ行けなくなっちゃう」
言った直後、ウィッチの下腹部を強烈な尿意が襲い掛かった。
その感覚に身を捩じらせながら、不意にウィッチは「あ」という声を上げて矮躯を痙攣させる。
目隠しをされながらたっぷり地面を湿らせたところで、頬を染めたウィッチはマントの裾をキュッと握り締め、
「……その、キンジお兄さんは」
先ほどの問いを、もう一度その舌に乗せて外界へと運んだ。
「キンジか。キンジは、お前の身体に害を与えるようなことはしていないぞ」
「え、でもだって」
ウィッチが気を失う直前、確かに彼はウィッチの体躯を包み込んだ。
ぐにっとした変な感触がおへそをくすぐり、急に瞼が重たくなったことまでは、確実に彼女が覚えている事実である。
だが、
「あんたの反応を見て、初めての身体だということが分かったからな。キンジの下半身は信用ならんが、意外とあれで頭は正常だ。穢れも何もない幼き少女を本能の赴くまま襲ったなどと後で思い出せば、きっと心を痛めるだろうからな」
それに――、とリリウスは息継ぎをして。
「治って初めての相手は、この時をずっと待っていたフェリアに捧げたかったのだ」
「でも、その仕打ちがこれってひどくない?」
冷静さを取り戻したフェリアが、傷だらけの脚を指さし、リリウスへ不満げな表情を見せる。
「それはフェリアがウィッチの寝首を掻こうとしたからだろう!? 彼女に対する怨嗟やら禍根があるのは分かっているが、人としてやっていいことと悪いことがある!」
ついでに言うと、ウィッチの平坦な胸が何となくそそった、というのも理由の人ではあった。
何となくショタ臭を醸し出しており、リリウスは暫くその様子を眺めていたかったのだが。
ともあれ、
「……何だか分からないけど、私、これから行かなくちゃいけないところがあるから、そろそろお暇してもいいかな?」
裸体にマントを巻いただけという状態を晒し、遥か彼方に落ちていたバスケットを拾い上げ、ウィッチは満足げに口元を緩めた。
バスケットはひっくり返り、せっかく集めた薬草は辺りに散乱していたが、紛失していたり、誰かに踏まれた跡などは存在しない。
調合前に洗浄すれば、問題なく使用できるだろう。
「――私ね、ここに来る前、好きな人がいたんだ」
散乱した薬草をバスケットに戻しながら、ウィッチは続ける。
まるで、昔を懐かしむ老女のような、穏やかな声音で。
「すごく格好良くて、優しくて――魅力的だった。その人とは、わけあって会えなくなっちゃったんだけど、別れ際に、『また会える』って、言ってくれたんだ」
「……そうか」
自分より幼い少女の惚気話に何とも居心地の悪さを感じる二人だったが、ウィッチはその空気に気付かない。
葉についた土や汚れをパッパと払い、お気に入りのバスケットに入れながら。
「それから数年間、ずっと待ってたんだけど――やっぱ王宮の騎士様が魔女の端くれなんかに魅力を感じることなんて、無かったんだよね。あのお兄さんに使った精神魔術みたいなので、近隣の男の子たちを私への欲望まみれにしてみたこともあるんだけど、何か違ったんだ」
「ほ、ほーぅ」
「リリウス。こんな幼い子に手を出すなって言ったの、あなたなんだからね」
バスケットいっぱいに花卉を乗せ、ウィッチは安堵したように吐息を漏らす。
これを集めるために、ウィッチはこの世界を放浪していたのだ。
「でね、古書を探すついでに色欲的な文献を漁ってたら、興味深い箇所が出てきたの。……男の人って、女の子の身体を見て、魅力を感じるんだって」
頬を染め、かわゆく照れ笑い。
幼子が出すにふさわしくない言葉が羅列され、リリウスフェリアの二人は茫然と立ち尽くしていたが、ウィッチはそんな情景には目もくれず、傍にあった棒切れでテキパキと地上に魔法陣を描き始めた。
「それで……じゃん! これ、世界中巡っていっぱい集めたんだ。男の人を虜にする薬草――これを調合した飲み物をアイゼンお兄さんに贈って、それで……私はアイゼンお兄さんと……」
話に全く付いていけてない二人を無視し、ウィッチは描き上げた魔法陣を見て、満足げに腰に手を当てた。
片手間に、転移魔法陣を描き終えてしまったのだ。
転移魔法の存在しないこの世界だから凄い、というわけではない。
ウィッチが元居た世界でも、転移魔方陣を正確に描くには、相当の集中力と魔術者としての才能がいる。
ましてや別のことを考えながら描くなど、常軌を逸した行動だ。
しかも異世界転移魔方陣。――失敗は、一種の死を意味する。
だがウィッチ――いや、ミサ・ファンネル・シュトロームは、天才だった。
そんな心配など、する必要も無かったのだ。
薄緑色の光が天へと舞い上がり、紫紺の深淵が空を裂く。
大気を捻じ曲げるような凄まじい魔力が発現し、禍々しい雰囲気をもつ煙がモクモクとその場を彩った。
ミサは裂け目に片足を突っ込み、顔だけを二人に向けて口元で弧を描く。
それは、健気で愛らしい、天使のように微笑ましい笑顔だったのだが――。
「勝手だけど、もう行くね。もともとここを散策したら、一旦帰るつもりだったし。それに、私にはやるべきことがあるから」
言って、ミサはバスケットの中身に視線を送る。
騎士アイゼン――自分だけの王子様を堕とすため、これから家に帰って、媚薬の調合をしなくてはならない。
母親に何か言われるかもしれないが、所詮子供のお遊びだ。叱られたり、薬草を捨てられたりはしないだろう。
「アイゼンお兄さん。……絶対、あなたを誘惑してみせるからね」
誰に言うでもなく、その言葉はミサの口から紡がれた。
膨大な量の魔力放出が止まり、ミサは裂け目の中に矮躯を躍り込ませる。
途端、空間に出現した裂け目は瞬く間に消失し、全ての元凶ウィッチ――ミサの存在は、この世界から完全に消失した。
「……結局、何だったんだろう」
脚の傷を治癒しながら、フェリアは小さく呟いた。
キンジの身体は治り、ここへ来た理由である依頼もクリアできた。
世界中を恐慌の渦に巻いた元凶である、異邦人ウィッチはもうこの世界にはいない。
まあ、帰り際に「一旦」とまた戻ってくるようなことを言っていたが、フェリアはあまり深く考えないようにした。
「でも、終わって良かったね。ご主人様も、また夜になればわたしを求めるようになるんだろうし、」
「うーむ……」
ウィッチの精神魔術によって心を侵された、その他大勢の人々のことを思い出さないように、フェリアはわざと明るい声でリリウスに話しかけたのだが。
リリウスは何かを思考し、凛々しい双眸を真剣に細めていた。
「リリウス?」
「あ、いや、個人的に気になったことがあったんだが……」
リリウスは一旦言葉を止め、スィと呼気を取り込むと、
「あいつが持ってた薬草の中に、あの拷問用の媚薬を調合するときに用いる薬草が……」
「拷問用?」
言ってから、フェリアはその時のことを思い出した。
男性にしか効かないという、かなり濃度の高い拷問薬剤。
フェリアもその目で見たことは無いが、使用する際、縛り上げた捕虜を並べ、その内一人に調合した粉末を嗅がせるらしい。
嗅いだ男は最後。
総身をビクビクと痙攣させながら、白濁とした濃い液体を噴水のようにぶちまける。
その間心を抉るような悲痛の叫び声が木霊すため、精神を鍛え抜かれし限られた人間しか拷問場に入ってはならない。
さらに、万が一男性騎士などの体内に入ってはならぬため、その拷問を行うとき、見守る人々は全て女性なのだとか。
フェリアは女の子であり、その時味わう激痛や苦痛を想像することはできないが。
異性に嘲りの目を向けられながら、情けない格好を晒して絶命するなど想像しただけで虫唾が走る。
実際、それだけのことをしない限り滅多に使われることはないのだが。
「あの薬剤、異世界の人にも効くのかな?」
「効かないことを祈ろう。ウィッチは確かにこの世界に害悪を運んできたが、その騎士様とやらは全く関係無いのだからな」
いつになく真面目な声を出すリリウスを尻目に、フェリアは適当に相槌を打ちながら、そっと愛するご主人へと顔を向けた。
身体を畳んで蹲り、何かを必死に握り締めながらとてつもなく扇情的に息を荒げている。
フェリアにとって、キンジは無くてはならない存在だ。
それはキンジにとっても同じこと。キンジが起こす今の行動に関しては、今の今まで体内に蓄積されていた欲求が爆発したために起こった副作用のようなものだと推測される。
だが、同じだけ我慢を続けていた人間は、もう一人いるのだ。
「ご主、キっ、キンジくん。戻ったんだよね? もう、元の信頼できない身体に、戻ったんだよね?」
「ん、ん。治ったよ、フェリア。何だか凄く暑くて、へその辺りが痛いくらい疼いてるんだけど」
痙攣する右手を突出し、口の端を歪めて親指を立てる。
その手には、刺激的な風味を醸し出す真っ黒な下着が握られていた。
「……キンジくん」
フェリアはその場にゴロンと仰向けに転がり、身体を丸めてネコのポーズ。
エプロンドレスが地面と擦れて汚れてしまうが構わない。
精一杯科を作り、誘うような視線をキンジへと向け――、
「キンジくん、だーい好き」
「あ、あああ、あああああああ……。うおおおああああああぁぁぁぁ――――!!!」
立ち上がり、服を破き、爪を立てて喉を掻きむしる。
獲物を見つけた猛獣よろしく口元から涎を垂らし、ギラリギラリと鋭利に砥がれた、鳶色の瞳が強く開かれた。
「よ、良かったなフェリア。それでは私は、気を利かせてちょっとこの場から退散を――」
「リリウス、無理しないの」
顔を引きつらせ、横歩きに逃げようとしたリリウスは、予備動作も無く軽やかに伸ばされた手に掴まれ、行動不能を余儀なくさせる。
リリウスも女性としてはかなり鍛えてある方だが、そこはやはり元勇者。
フェリアがもつ馬鹿力は、万力のように固く強い。
片足を掴まれたリリウスは不格好に転倒し、股座全開という情けない痴態を外界に晒してしまう。
ついでに後頭部をゴンと地面にぶつけ、思わず身体から力が抜ける。
鍛え上げられた肉体も、力を込めなければただの重たい肉塊と違いない。
ましてや仰向け。そんな状態で、この場から逃走しようなどというトチ狂った行動を起こそうとは思わないだろう。
仮に出来たとしても、リリウスはその考えを行動には移さない。
リリウスもまた――形は違えど、このような状況に憧れていたのだから。
清らかな風が森林を駆け抜け、キンジの体躯がゾクリと震える。
キンジの目に映るのは、健気にしっぽを振る二人の女の子――だけだ。
余計なものは目に入らない。
花卉も大地も、樹木も虫も日光も影も――何もかも。
ネコポーズをとった闇色メイドと、怯えたようにイヌミミを垂らしながら横たわる、褐色獣人。
愛くるしい二つの獣を捉えた刹那、本能のみになったキンジは荒れ狂う魔物のように暴走した。




