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元勇者のご主人様  作者: 山科碧葵
第三章
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第十五話 拒絶と再会

 日本という島国から、海を渡って離国へ赴くと食生活やら容姿に文化、その他諸々の不一致が出るものなのだが、セントヘレナと元居た国とは、そう大して変わっている部分は見られなかった。


 フェリアやリリウスが使用する言語が若干変わったらしいが、翻訳魔術を使用している俺からすると、全くもって変化無しだ。

 若干リリウスが言葉に詰まったり、言い直す場面も見られるが所詮その程度。

 言い違いによる喧嘩や暴動が起こることも無く、思ったよりもすんなりとセントヘレナという環境に適応できそうである。


 ちなみに現在俺たちが向かっているのは、ギルドから徒歩十数分の位置にあるベーガ森林という場所だ。

 リリウスが冒険中最後に目撃情報を手に入れた場所がそこであり、さらに全国のギルドを巡っている異世界ウィッチ最新情報でも、その森にいる可能性が高いとされている。

 それではさぞ、腕利きな冒険者やギルドナイトたちが森林を徘徊しているのだろうなと思っていたのだが、全くもってそんなことは無かった。


 どうやら異世界人ウィッチの情報は人の口から発せられて広まったものだったこともあり、国を越えて全国へと広まる間に、多少ウィッチの特性が過大評価されていたらしい。


 なんでも、目が合った途端その者の視力と正気を奪う、だとか。

 魔法をかけられると、一生ウィッチの奴隷として引きずり回されるだとか。

 幻覚を見せられ、耐え難い頭痛に襲われるだとか。


 どこまでが事実でどこからが虚言なのか選別できない程に、ウィッチによる被害情報は広がっていた。


 しかし、口コミというのはどこの世界でも凄いね。

 ワールドワイドウェブの存在しないこんな世の中でも、あることないことが瞬く間に広がってしまう。

 どこの世界でも、噂が膨張するこという事実は拭うことができないようだ。 

 

 さっきも、行きずりの冒険者からウィッチに関して知っている情報を聞き出したところ、目が合った瞬間石にされるらしい、と真剣な眼差しで告げられた。


 どこのメデューサだよ。


「……しかし、あれだな」


 そよ風を感じながら緑豊かな森林を歩み進めていると、伸びやかな褐色肌を魅せるリリウスが、辺りを見渡しながらポツリと呟いた。


「バグズ森林と同じく、非常に心地よい場所だ。魔物の数も少ないみたいだし、デートスポットとかとしても人気が高いんじゃないか?」


 確かに、と俺は、リリウスの発言に首肯する。

 新緑に透かされた日差しに包み込まれ、樹木は背が高く、歩行の邪魔にならない。

 バグズ森林に存在するゴブリンやらエルフなどの魔物もほとんど現れず、鳥のさえずりなんかが穏やかに奏でられている。


 ああ、女の子二人と一緒にこんなところ歩けるなんて、仕事じゃなければ凄く楽しいのだろうな。


「でもリリウス、いくら安全そうに見えても、夜の森は危険なんだよ。だから絶対、一人で夜中森に入ったりはしないでね」


 フェリアは溜息を漏らすように、そんな言葉を口端から紡いだ。

 リリウスの顔が途端に真っ赤になり、上気する。

 ああ、夜中にでも獣族さんたちに襲われないかな、とか思ってたのか。


 でも確かに、夜の森林は危険なのかもしれない。

 こんなに穏やかかつ安全なのは、明るくて暖かいからそう錯覚しているだけだろう。

 なにせここは犬や猫が道端から出てくるのと同じような感覚で、普通に魔物が飛び出してくるような世界なのだ。

 二人が言う安全と、俺が思う安全が同系列だと思っていたらきっと痛い目に遭う。


「――あ、魔物」

「本当だな」


 気持ちを入れ替えようとした刹那、突如俺たちの前に獣系統の魔物が現れた。


 丸っこくて、一見動物のようにも見える。

 日本の動物で一番近いものと言えば――トラネコだろうか、しかも茶系のやつだ。

 個人的には、あの種類のネコが一番可愛いと思う。

 次に三毛猫かな。自由気ままに部屋中を歩き回る動物は、兄が嫌いだったためうちで飼うことはできなかったが、兄が独立したら真っ先にネコを飼おう、などと母と話していた。


 結局、兄が独り立ちするより先に、俺自身が異世界転移という名の実質行方不明になってしまい、結局どうなったのか俺には分からなくなってしまったが。


「……かわいい」


 率直な感想が、思わず口から漏れる。

 しっぽを丸め、目を細めてコロコロと地面を転がっている。

 フェリアは動物嫌いではなさそうだし、飼ってもいいかな? もういっそ、このまま家に連れて帰ってしまいた――。


火炎球バーニング!」

「たぁぁぁぁぁ――――!」


 と、女性陣二人による声音が重なり合い、眼前にて萌えていたネコちゃんは、瞬く間に真っ黒な消し炭と化し、リリウスの放った斬撃により四等分に両断された。


 瞼の裏に残るは、愛くるしい愛玩動物トラネコが散る直前に見せた最期の姿。

 出会って間もない状況で、心奪われたトラネコが――。無残にも、真っ黒焦げにされたうえ、四等分だ。

 やったね! これで四人で分けられる!


「フェ、フェリリリリリ……リリウス!?」


 フェリリウス。イヌミミでエッチな黒髪メイドさん。

 いや、そういうのいいから。


「な、ななな、何で、殺したの?」

「何故って……魔物ですから」


 きょとんとした表情で、コテンと首を傾ける。

 リリウスも同じく、四等分になったボロ雑巾(トラネコ)を足蹴にし、辛うじて残留していた肉体情報を霧散させた。

 もうこの場に、先ほどの魔物が存在したという追憶は無い。


「だって、あんなに可愛いのに――」


 飄々と言葉を紡ぐフェリアに何かしらの言葉を放とうと、俺は拳を握りしめたが。

 その先の言葉が出ない。

 フェリアの言葉に間違いは無いのだ。魔物は倒すべき存在であり、冒険者が魔物と出会えば、その相手を殺害する。――それが、この世界における自然の摂理だ。


 フェリアとリリウスは、双方とも元勇者。

 もしかすると、今以上に愛くるしい動物系統の魔物や、人間に近い魔物を打倒してきたのかもしれない。

 元の世界での冒険道中ではネコ系統の魔物と出会わなかったため、こういった感情に苛まれることは無かったのだが。


 それ以上言葉を発さないことを察したのか、俯く俺の顔を、フェリアは柔和な表情で覗き込み、


「大丈夫ですよ、ご主人様。ネコちゃんがお好きなのでしたら、またおうちに帰ってから、毎晩ネコミミを付けて添い寝してあげますよ」


 甘ったるい笑顔が映され、思わず心臓がトクンと跳ねる。

 帰ったらネコミミ+添い寝とはこれいかに。身体も健全、久しぶりのフェリアとの夜。

 考えただけで思わず胸が高鳴る至高の時間。


 ――でもあれ? こういうのって、日本では死亡フ――。


「それに、さっきの魔物は成長すると、あんなふうになるんですよ」


 能天気にフェリアが指さした先には、赤ら顔の獅子が鼻息荒くこちらを睨みつけていた。



 ---



 金色こんじきの鬣を振り回し、猿のように赤く染め上げられた顔面からは煙のような鼻息が噴出される。

 そんな豪快な体躯とは裏腹にしなやかな前足には、血糊の塗りたくられた鉤爪が噛り付いている。

 たった今食事を済ませてきました、とでも言うような風体だ。


 鼻息荒く、獰猛な獅子を彷彿させるその荒々しい巨躯。

 先ほどのトラネコが成長した姿――とフェリアは言っていたが、あの愛玩動物の面影はこれっぽっちも残っちゃいない。


 顔つきはマントヒヒに近いが――虎では無い、あれはライオンだ。

 しかも巨大。――ライオンなど、小学校の遠足で動物園に行ったときに見たのが最後だが、あのとき感じた迫力をこの生物は超越している。


 檻が無いから、などといった理由では無く、存在そのものが畏怖の塊であり、恐怖の象徴でもある。

 体躯を揺らすだけで辺りの木々をへし折り、大地を這う根っこを容赦なく踏み潰す。

 生命の根源を踏みにじられ、辺りの樹木はこのまま枯れ行くのを待つばかりであろう。


 この生命体がさっきのトラネコが成長した姿なのだとすれば、まだ辺りに被害を与えぬ幼少状態に殺害するという事実を、さっきのように否定することはできない。

 あの愛くるしいトラネコ一匹を見逃すだけで、これほどまでに危険な魔物を生み出すこととなるのだから。


 圧倒的嫌悪感を漂わせる赤ら顔を見せつけられ、俺は思わずその場から退く。

 血塗られた牙から垂れる雫は地面を濡らし、赤黒い鉤爪がその地を抉り取る。


 春の草原のように穏やかだった森林が、一瞬にして、血臭漂う地獄へと変貌する。

 何度体感しても慣れることの無い、この空気の変わりよう。

 緊張が走り、空気が凍結し、背筋に氷水をぶっかけられたかのように、身体が怯み動けなくなる。


「子供がいたから、傍にいるとは思っていたけど」


 臨戦態勢に入ったフェリアは右手を突出し、手のひらの先へ火炎球を発現させた。

 ジリジリと音が聞こえるような錯覚を味わい、思わず額に汗が滲む。

 フェリアの腕や頬もしっとりと湿り始め、ふわりと風を受けたエプロンドレスが華奢な体躯にピタリと張り付く。


 リリウスは先ほど抜いた剣を片手に構え、刃を寝かせて姿勢を落とす。

 刹那リリウスは駆け出し、前方にて血臭を撒き散らす赤ら顔の獅子へと突進する。

 自身に向けられた殺意を感じ取ったか、獅子は金色の鬣を煙らせ、突撃をかましたリリウスへとその身を衝突させんと身体を捩じる。


 リリウスの体躯が獅子の瞳に映った瞬間、彼女は視覚的に認識することが不可能な速度でその身を捩じらせた。

 褐色の残像が一瞬だけ視界を彩り、リリウスと獅子の体躯が華麗に交錯する。 

 目標を見失った獅子はそのまま虚空に突進をかましたが、リリウスの攻撃までもが外れたわけではない。

 胸の前で寝かせた刃が獅子の鼻面に裂傷を刻み、そのまま生肉を斬るように鮮やかな手腕で、獅子の体躯の左側に剣跡を刻み込んだ。


「――ぁぁぁぁああ!」


 瞬く間にリリウスの身体は獅子を通り抜け、両断された獣の体躯から、傷つけられた臓物とともに鮮血が降り注ぐ。

 だが流石獅子。身体の中身がこぼれ落ちるような状況に至っても、こちらに向かって突撃する速度を、一片たりとも緩めようとはしない。

 口端から血塊をぶちまけながら、獅子はなおも眼前に目標を作り、野性的な鉤爪を突き立てた。


「フェリア!」

「熱球!」


 外気を熱するほどの熱量を閉じ込めた真紅の球体がフェリアの手元から吐き出され、突進する獅子の顔面へと射出される。

 小さい球だが、かなり熱い。

 離れたところにいた俺の近くまで、その熱気が届くほどの暑気。

 そんな熱の球体は、吸い込まれるように獅子の鼻面へ直撃し、


「はがぁぁ――――ッ!」


 真紅に焦がされた球体が接触した刹那、獅子の顔面を包容する皮膚がジュッと音をたて、瞬く間に蒸発した。

 鼻が消し飛び、ドロドロに溶けた口の端がベロンと剥がれ落ちる。

 血管の浮き出た歯茎が露出し、そこから生える黄ばんだ牙が薄気味悪く勢揃いする。


 側面から鮮血を噴出し、焼け焦がされた顔面も、薄皮に亀裂が入って血が滲む。


 だが止まらない。

 顎は焼かれ、口元は溶かされ、目鼻は熱のため溶接されているというのに。

 獰猛な獅子は、獣のみが持つことを許された鋭利な鉤爪を突き立てて、フェリアの胸元を捉える。


「フェリア――――ッ!」


 絶叫のようなリリウスの咆哮が戦場に轟き、キンとした痛みが頭蓋に炸裂する。

 かなり強い魔法を使用したためか、フェリアはその場にて肩で息をしたまま動かない。

 リリウスは遥か彼方へとすっ飛んでおり、魔法を使用できない彼女がフェリアを救うことはまず不可能だ。


 俺は咄嗟に両腕を前方に伸ばし、思考を巡らせる。

 俺の場所からだと、フェリアと獅子は直線上同軸にその身を置いている。

 岩石や電撃弾を撃ち込むのが早い気もするが、見ての通り俺はここ暫く怠惰な生活を送っており、フェリアを傷つけずにそんな攻撃的な魔術を使用できるほどの精密さは持ち合わせていない。


 脳内をガンガンと警鐘が鳴り響く。

 だが今更後悔なんてしていても意味が無い。二人なら大丈夫だろうと、自分には関係無いだろうと、ボサッと間抜け面を晒して黙って見ていた結果だ。


 久しぶりだが、できるか。

 最後に使用したのは、確かウィッチと出会った時。あの時だ。

 今俺がここにいる理由を作り上げた、全ての元凶。

 思い出したくない過去だが、今はそんなことを言っている場合じゃあない!


「泥濘め!」


 突き出された両腕に血液が巡る錯覚を覚え、手のひらから見えないエネルギーが一斉に放出される。

 視界に映り込むことは無いが――感覚で分かる。 

 今俺が放った魔術的オカルト現象は、空間を伝わってフェリアのもとへと辿り着いた。


 リリウスが拳で地を叩き、フェリアが恐怖のため目を瞑り、獅子の突き立てた鉤爪がエプロンドレスのフリルを捉えた刹那。


 フェリアの眼前――獅子が全体重をかけて存在していた地面が、跡形も無く消し飛んだ。


「――きゃっ!」


 フェリアの可愛らしい叫び声。

 消し飛んだ――正確には泥沼へと変貌した地面には、もはや生物の体重を支えるだけの力は存在しない。

 地面に着いた足はズブズブと沈み、飛び掛かるため前のめりになったその体躯はバランスを崩し、鉤爪は爪閃を残し、空気を引っ掻くだけで行動は打ち止められた。


 足掻く爪は虚空を切り裂き、既に沈んだ口先からは、とてつもなく大音量な咆哮が轟かせられる。

 泥水を啜り、引っ掻き、無為な抗いを最期に残す。

 最その生命が尽きるまで“生”にしがみつく根性も凄まじいものだと感じるが、それも度を越せば、嘲笑されよう愚行にすぎない。


 荒々しい巨躯を振り回し、ちっぽけな人間に難なく打ちのめされる。

 生に執着するその本能は、見方を変えればただの往生際の悪い小物が起こす行動だ。


「――あ、んー。……ああぁぁぁ」


 眼前に爪閃を残されたフェリアは、未だボコボコと沸き立つ泥沼を見つめながらペッタリとその場に女の子座りをかましていた。

 華奢な体躯をピクンと揺らし、口端から声にならない言葉を漏らす。


「フェリア、大丈夫か!」


 遥か彼方まで飛んでいたリリウスが舞い戻り、フェリアの傍まで駆け寄り不意に立ち止まる。

 クンクンと鼻をひくつかせ、辺りを見渡し、座り込むフェリアへ視線を落とす。


 その瞳は驚愕の色に開け放たれ、「そんなバカな!」とでも言うように両手で口元を包みこんでいた。


「フェ、フェリフェリフェリ……」

「フェリア!」


 獅子が完全に沈殿したことを確認し、俺はフェリアのもとへと走り出した。

 色々と言いたいことがある。「こんな時なのに、攻撃の手が遅れてごめん」とか、「不甲斐ない主ですまなかった」とか、とりあえず二人への礼と謝罪の言葉だ。


 フェリアが腰を抜かすほどの恐怖を味わったのも、全て俺の責任――俺の心が弱いことが原因で起こった事実。

 三年も魔法剣士やってるのに、俺はいつまでルーキー気分が抜けてないんだ。


「来ないでください! ご主人様」


 ――そんな俺の思いは、自身への拒絶――否定の言葉によって踏みにじられた。

 言葉を発することも許されない。天使が放った接することを拒む(アンタッチャブル)命令。

 後頭部をガツンと殴られたような衝撃に襲われ、俺は思わず立ち止まった。


「そんな、フェリ」

「い、今来られたら困ります! もし来たら……えっと、ぶ、ぶっとばしますからね!?」


 真っ赤な顔を見せ、キッと睨みつけられた。

 しかしそれは怒っているような表情では無く、どちらかと言うと自身の痴態や醜態を見られることを嫌がっているようである。

 過度な羞恥心に苛まれたときとか、ああいった表情を見ることが多い気がする。

 むろん、アニメや漫画での経験だが。


「リリウス! 絶対、ぜーったいご主人様を足止めしててね!」


 言うが早いか。 

 フェリアは腰の抜けた足を折り曲げ四つん這いになると、まるで骨折した犬のような格好でそそくさと木々の中へと姿を消す。


 その動作は危なっかしく、なんとも違和感を覚えさせる光景だ。

 首を捻り、俺はフェリアの言葉に従うよう、彼女を追うことはせずにリリウスのもとへ足を向けた。


「……ごめん、咄嗟に動けなくなっちゃって」

「問題ない。結果的に三人とも助かったのだ、まあ、一番いいところを持ってかれたってのは少し不満だがな」


 冗談めかし、辿り着いた俺の体躯をガッシリと抱きしめる。

 分厚い筋肉の壁に覆われているが、やはりどこかしら女の子っぽい部分もある。

 色香たっぷりな汗を顔中に浴びながら、息苦しくなった俺は腕の隙間から顔を出す。


「――ぅ、ぷはっ」


 そこには、俺が先ほど生成した泥沼が、しっかりと埋められて確かにそこに存在していた。

 コンクリートを固めたような光景を暫しの間眺めていると、不意に妙な斑点が視界に混入した。


「……なんだ、あれ」


 水滴を垂らしたような斑点が、点々と地面を連なっている。

 それは先ほどフェリアが歩んだ道筋を彩り、地上に模様を浮かばせた。

 血液か――いや、違う。

 確かにフェリアは無傷だったはずだ。

 では涙か。それも違う。

 涙を流していたようにも見えなかったし、声にも震えや泣き声は混じっていなかった。


 だとすると――、


 もう一度、疑問は出発点へと舞い戻る。

 これは何だ。


 人間という生物は妙なもので、何だか分からないものを見つけると、それを如何にかして解析し、把握しようとする。

 手っ取り早いのは繊細な神経の通う指先で触れることなのだが、現在俺はリリウスの逞しい腕に包まれているため、手を伸ばしても地面には辿り着かない。


 触覚が不可能だとすると、次に出るのは嗅覚である。

 動物に関しても同様の反応をするのだが、目の前に現れたものを確認するとき、思わず匂いを嗅いでしまうものなのだ。


 ――それが、どれだけ危険なものかはっきりとしていなくても。


「――――ぅ」


 思わず膨らんだ鼻の孔に香ってきたのは、嗅ぎ覚えのある嫌な臭いだった。

 便器などから漂う、黄色く濁った液体の臭い。

 それが何なのかを理解した刹那、俺はリリウスの腕の中で――盛大にむせた。


「げほっ! げはっ……! あの魔物の野郎、死に間際に漏らして行きやがった!」


 悪質な置き土産を目の当たりにし、思わず顔をしかめる。

 動物――魔物だから仕方ないと割り切ってもよいが、こう何なのか分かると、どうも嫌な気分になってくる。


 ――と、

 この辺りまで考えたところで、不意に俺は先ほどとはまた違う違和感を覚えた。

 斑点が示す先。それは、フェリアが歩んだ道筋とほぼ一致する。


「まさか、」

「どうした? キンジ」


 不意に止まった俺の動きを感じたのか、リリウスは赤ん坊をあやすように穏やかな声音でそう呟くと、顔をこちらに向け――色の無い双眸をギンと見開いた。


「キ、キキキ、キンジ。違うぞ、それは――私のだ!」


 リリウスの言葉も耳に届かず、俺の脳内は桃色煩悩が炸裂する。

 美少女の放尿に興奮する変態気質では無いが、フェリアが先ほどまで妙な行動を起こしていた原因――それが分かった途端、表現し難い感情が俺の身を盛大に焦がした。


 あんなに強がって、照れて、怒って――。

 そう思うと、さっきまで感じていた一種の喪失感は消え去り、代わりに何とも言えぬ情動が燃え上がった。


「良かったあ! もしかして俺、フェリアに拒絶されたかと思った」


 これっぽっちも良いことは無いのだが、俺の心を苛んでいた負感情が消失した事実には、胸を撫で下ろす以外に示す表現が無い。

 しかも、吸い込んだ蒸散物が魔物でなくフェリアのものであるならば――、


「全然平気、むしろ俺、スミノエ・キンジとでも改名できそう」

「誰だか知らないが、キンジはキンジのまま、ニノミヤ・キンジのままでいてくれ……」


 呆れたように目を開き、リリウスは嘆息する。


 フェリアが零した聖水に異常なほどの興味を示すキンジを腕に抱きながら、リリウスは落ち込んだように耳を垂らす。

 若干嫌悪感の籠った表情を映しながら、リリウスはキンジへ声をかける。


「なあ、キンジ、キン――」


 ゆさゆさと揺らし、面倒くさそうに俺の名を読んでいたリリウスは、不意に真剣な表情をその瞳に濡らして顔を上げた。

 怜悧な視線を遥か遠くへ放ち、垂れていたイヌミミをピンと立たせる。


 ――獣の目。


 獲物を捉えるような強い双眸が開かれ、一点を凝視したまま動かない。

 時折目標の動きに合わせて黒目が移動するが、それだけである。

 口端を舌先でペロリと舐め、薄桃色をしたリリウスの唇がほんのりと湿る。


 リリウスの瞳が流し目に揺れ、俺の顔を捉えた。

 視線が向く方向が変わろうと、睨みつけるような鋭い目つきはそのままだ。

 ああ、唇も湿ってるし、なにこれ凄くエロい。


「キンジ、アレを出せ、早く」


 リリウスの瞳が俺と遠くとを交互に捉え、急かすように鼻息をこぼす。


 焦っているのは分かるが――アレ? アレって、何だ? 

 リリウスの言うアレとは、一つしか思いつかないのだが。


「アレって……。そんな、こんなところでそんなもの、『出せ』だなんて……」


 頬を包み込み、照れるように首を左右に振る。

 いや、ふざけてる場合じゃないことは重々承知しておりますが。


 リリウスはそんな俺の様子を訝しげに見た刹那、瞬く間に頬を真っ赤に染め、照れたように可愛らしく瞠目した。


「違う、バカ! フェリアから預かってるだろう? 目標を捕獲するために使用する魔道具とか!」


 ああ、そっちですか。と、俺は下ろしかけたズボンを元の位置に戻す。

 そして胸元に手を突っ込み、中から若干温かくなった魔道具を一つリリウスに手渡した。

 ボタン一つで投網される、ステッキの方だ。


 あいにくだが、実はこれの正しい使い方を俺は知らない。

 そのため必然的に、この魔道具を使用するのはリリウスということになる。


 差し出した手から魔道具を引ったくり、リリウスは刹那的にステッキを見つめてから、先端を前方へ向ける。

 片目をつむって腕を伸ばし、肩幅に股を開いて瞳を細める。

 そして――躊躇うことなく、緋色のボタンをカチリと押した。


 刹那、ステッキの先端から無数の糸が放出された。

 閃光の豪雨のように広がる細い糸は、天空を隠すよう広がる樹木の隙間から覗く太陽光を反射させ、キラキラと輝いている。

 ナイロン糸のように繊細で、視覚で判断することも困難な糸。

 膨大な量を有するそれらは吸い込まれるように深緑へ闖入し、ちらっと過った()を一瞬にして縛り付けた。


 グルグル巻にされ、身動きの取れない黒き塊。

 慌てた様子でたたらを踏むその影を見据え、リリウスは真剣な顔つきを崩さずに、緋色のボタンにもう一度指を当てた。

 みるみる内にナイロン糸が回収され、ジタバタと体躯を跳ねさせる黒い塊は、抗う術もなくただただこちらへ連れ込まれる。


 せめてもの抗いか踵を地面に押し当てており、湿った土がガリガリと削られていく。

 黒いマントの端から見えた脚は、細くて白い、少女のもののようであった。


 土埃をたてながら、マント姿の少女(?)はバタバタと脚をはためかせる。

 マントの下には何も身に着けていないのか、先ほどから細く綺麗な太ももが顔を覗かせ――、あ、素材の違う黒い布地が一瞬見えた。


「――いやっ! いやぁぁぁっ! きゃん! こらっ、やめなさいってば!」


 少女が糸を振りほどこうと模索する度に地面とマントとが擦れあい、下半身を完全に外界へと晒しながら、柔らかい大地に踵を押し付ける。


 黒揚羽を象ったであろう刺激的な下着も完全に露出し、成長の痕跡を感じさせない平坦な脇腹が大地に摩耗される。

 時折はみ出した石ころに素肌を削られ、裂傷が刻まれ、不健康さを醸し出す真っ白な素肌から鮮紅色の血が飛沫のように吐き出される。


 正直言って痛そうだ。


「放しなさぁぁぁぁ――――いッ!!!」


 必死の叫び声が木霊した直後、狙ったかのようなタイミングで、少女の体躯はやっとリリウスの眼前へと辿り着いた。

 所々穴の開いた漆黒のマントは胸元まで完全に捲れあがり、淑女がするべきでなかろう痴態を容赦なく外界へと晒しにかかる。

 疲弊と困惑のためか大の字になって倒れ込んだ少女は、儚げな吐息を漏らしながら肩で息をしていた。


 ボサボサにまみれた美麗な金髪は瞳を隠し、逆に身体を隠すために使用するマントは、嵐の中使用した傘のように開かれ、全くもってその仕事を行っていない。

 白い脚はくるぶしから太ももまで惜しげも無く晒され、真っ平らなお腹には可愛らしいおへそが存在し、その上では桜色のドットが慎ましげにこちらを向いている。

 口端から漏れる吐息も相まって、そこに広がる光景は言葉にし難いほど扇情的な――いや、犯罪的な状況だ。


 つるぺたと広がる理想郷から視線を剥がし、俺はチラリとリリウスの表情を窺う。

 ステッキを発動してから今に至るまで、彼女は一言も言葉を発していない。

 リリウスがこんな長時間黙っているなど想像できない。

 だが現に、彼女の口は先ほどから一端たりとも口を開いていない。

 これが何を意味するのか、分かっていても、認めたくなかった。


「――――」


 軽蔑や侮蔑の籠った視線が、リリウスの双眸から放たれる。

 向けられた先にこそ、現在進行形であられもない姿を晒す少女の姿が存在する。

 三角帽子を被った少女は、乱れた金髪から透き通るような碧眼を覗かせ、その端から淡い雫をこぼして鼻を鳴らしてみせた。


 頬が歪み、口がへの字に曲がり、涙がボロボロと溢れ出す。

 鼻が赤く染まり、心を抉るような悲痛の泣き声が森林にて奏でられる。


 手首を瞳に宛がい、溢れ出す雫をグシグシと擦る。


「痛い、痛いよ。踵はボロボロだし、さっきから背中がジュクジュクしてる。膿とか出てるかもしんない。しかもしかも、引きずられて、傷の上から泥とかたっぷり塗られたから、バイキンとか入ったかも」


 歪んだ碧眼がこちらを向き、リリウスを視界に捉えると、また何かしらの感情が決壊したのか、滂沱の如く頬を濡らした。

 感情の奔流が目の端から溢れ出し、痛みや羞恥を訴える苦鳴が少女の口から吐き出される。


 ほぼ裸体に近い状態へ剥かれた幼女が、仰向けになりながら大泣きする。

 そんな光景を目の当たりにして、俺の中で、心臓を握りつぶされたような錯覚が生じた。


 罪悪感に心を苛まれ、吐き気が喉を伝って上ってくる。


「酷いよ、私、何もしてないのに。ただ、珍しい薬草を見つけたから採取してただけなのに!」


 見ると、遥か彼方に小さなバスケットが転がっていた。

 引きずられた時も途中までは持っていたのか、中身は散乱し、ゴミのように転がっている。


「何も、していない?」

「――――」


 眼光鋭いリリウスの威圧を受け、半ば絶叫のように言葉を紡いでいた少女の声がピタリと止まった。

 少女は驚きに瞠目し、俺とリリウスの顔を交互に見やり、うーんと何かを考えるように顎に手を当てて首を傾けた。

 もちろん半裸で。


「――ワンワンのお姉さんは見おぼえ無いけど、こっちのお兄さんは、どこかで……」


 瞳をくいっと向け、股下から覗き込むような格好で俺の顔を覗き込む。


 俺もその瞳を見つめ返す。

 だけど――あー、誰だったっけ。てっきりリリウスの仇か何かだと思って、黙って見てたんだけど。


 熱心な視線が絡み合い、思わずお互い照れ笑い。

 涙や鼻水に塗れた端正な顔が、花のようににぱっと緩む。

 あ、笑うと可愛い。


 見つめ合いながらはにかみ合っていると、不意にリリウスが腕を組み、苛立っているかのように片足でパタパタと地面をタッピングし――、


「二人して和んでんじゃねぇぇぇぇぇ――――!」


 乱雑に整えられた銀髪を逆立て、イヌミミな剣士さんの怒号が森林中に響き渡った。

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