第十三話 宿泊施設での夜
フェリアにおぶられて十数分ほど経った頃、俺とフェリアは薄暗い路地を歩んでいた。
背丈の高い建物が連なり、その全てが日光を遮るような出で立ちで背中を向けて佇んでいる。
怪しい通りのような雰囲気を思い起こすが、ここに立ち並ぶ宿は全て健全かつまともな宿泊施設だ。
リリウスやプリミルが好みそうなホテルは、もう少し奥の方にあるとフェリアが言っていた。
この島に来たことがあるのかと問いたところ、別にそういったわけではないらしかった。
ただこういった街並みの国を幾つか回ったが、大人向けの宿と健全な宿泊施設が肩を並べて建設されることはまず無いのだという。
どうせ寝泊りするのはフェリアとリリウスと同じ部屋になるだろうし、さしものリリウスでもフェリアの目の前で俺を襲うとは考えられない。
そのため俺は、別に泊まるのはどっちでも良かったのだが。
「……ご主人様、本気ですか? 注文して出てくるお料理の質もお部屋のグレードも、同じ金額を支払った場合では、普通の宿の方がいいんですよ」
とのことだ。
知らないよ。前の世界ではそんなところ立ち寄る予定も無かったし、日本ではそんなところ行ったことなかったし――。
まさか、中学卒業直前まで、そんな宿がこの世に存在することを知らなかったとは言えない。
現に知らなかったのだが。
フェリアに無知を悟られるのは、なんか恥ずかしくてヤダ。
とりあえずそんなわけで、俺とフェリアは一旦宿街を終端まで巡り、手頃な値段かつ過ごしやすそうな宿を探すことにしたのだ。
ここにリリウスがいないのは――まあ、想像に難くないだろう。
豆粥を食べ終わり、リリウスが待つはずの料亭に参ると、褐色肌の眩しいイヌミミ獣人さんはもうその場にいなかった。
店主に問いたところ、リリウスがジャンボ焼肉定食とやらを召し上がっている最中にちょうど参った客である男性二人が、娼婦館の話をし始めたらしい。
椅子の向きのためにリリウスはその二人にちょうど背中を向けるような位置におり、そのピンと立ったイヌミミで赤裸々な男性事情を取りこぼすことなく熱心に聞いていたのだが。
気分がよく気持ちが昂ぶっていたその二人は、亜麻色の髪をカールさせたエロティックな新米娼婦の話を広めようと、自慢げに傍にいた男性に話しかけた。
――はずだったのだ。
だが二人が声をかけようと肩に手を置いたその相手とは、男性が逝き果てるまでの細やかな内容を背後から聞かされていた剣士――もといリリウスその人だったのだ。
意識が朦朧とするほどに興奮していたリリウスは、背後から遠慮なく肩を触られた途端、もう我慢が出来なくなった。
注文した食事を一瞬で飲み下すと、リリウスはその男性一人の胸元に擦り寄り、こう言ったという。
『この島に、覗き部屋のようなものは無いか?』
劣情に燃えた視線を向けられた男性の方も満更では無かったようで、興奮するリリウスへ親切にその場所の行き方を教示したらしい。
そんなわけで、リリウスは今頃どこかの娼婦館で誰かの行為を覗いているのだとか。
いやあ、ペラペラよく喋る店主さんだったよ。
「ご主人様、お値段とルームサービス、どちらを優先にいたしますか?」
やがて宿街の端まで辿り着いたフェリアは、小さくあくびをしながら背中におぶられた俺へと顔を向ける。
髪に隠れた横顔が、実に魅惑的だ。
さて、マネーオアルームサービスか。
俺としては別に、虫やらネズミやらが出ない部屋ならどこでも良い。
どうせ一晩しか滞在しないのだ。わざわざ高級な宿をとることもなかろう。
だが、フェリアもそう考えているとは限らない。
フェリアも女の子だ。お風呂とかベッドとか、そういうものにこだわりがあるかもしれない。
俺がここで上記の提案を口にしてしまえば、フェリアは確実に俺に遠慮して自身の意見を言わないだろう。
それはやはり嫌だ。フェリアにももっと、自身の意見を口にしてもらいたいな。
主とメイドの関係じゃなくて、恋人同士の関係として、さ。
「俺はどっちでも。極端にボロかったり高級なのは困るけど、他のところはフェリアに決めて欲しいな」
そう言うと、フェリアの端正な横顔がパァッと明るくなった。
やっぱり、フェリアにも自分の意見があったのだな。
「えっと、でしたらご主人様。さっき通りかかりに見たのですが、三人で一緒のベッドに寝られる宿があるみたいなんです。そこにしてもいいですか?」
三人で一緒。――ってことは、リリウスとフェリアの眠る端で押し出されぬようシーツにかじりついていなければならないのか。
それは少し――と口を出そうとしたところで、俺は開きかけた口を閉じる。
これがいけない。俺はフェリアの提案に賛同しようと思い、こうして意見を求めたのだ。
それでまた否定して拒否するなど、全くもって意味がない。
仕方ない。ベッドは二人に明け渡して、俺はソファで寝るか。無ければ床でいい。
「良いよ、そこにしようか」
「はい! ご主人様」
フェリアは嬉しそうに頷くと、足取り軽く今来た道を戻っていった。
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気温のためか若干軋んだ木製の扉を開けると、日本人としては懐かしさを感じる木の香りがいっぱいに広がる。
こげ茶色に染まった床を歩むと、やはりミシミシと音がする。
外装はベージュを基盤にした白であり、程よい年季を感じさせるものだったが。
内装はやけに古臭いデザインをしていた。
海外の世界名作劇場とか見てると出てくるような、木製のテーブルや椅子が並び、カウンターでは口髭の立派なおじさんがパイプを吸っている。
今更ながら、すごくファンタジーっぽい。
「あの、三人用のお部屋は空いてますか?」
フェリアは姿勢を正すと、気難しそうな顔をしたおじさんと向き合い、えへへと首を傾けた。
一瞬だけ、おじさんの目が見開き、ハッと吐息が漏れる。
元勇者だということに気が付いたのか、それともただ可愛かったからなのか、知らないが。
「ああ、空いているが」
「では一晩宿泊したいのですが」
テキパキと手順を踏み、フェリアは三人分の宿泊手続きを済ませた。
ちなみに言っておくと、俺は現在カウンター脇の椅子にちょこんと腰かけている。
立っていられないわけではないが、ずっとフェリアを背中から見下ろすような状態で眺めていたため、今は下から見上げてみたいのだ。
うむ、どこから見てもフェリアは可愛い。
「さあご主人様、参りましょう。階段を挟んだ端の部屋だそうですよ」
言いながら、フェリアはちゃちな鍵を指先でクルクルと回していた。
俺程度の土魔術でも、すぐに同じものを作れそうだ。
防犯がどの程度なのか若干気になるが――まあ、一晩だけだしいいか。
フェリアに連れられるように階段を登る。
流石に建物の中まではおぶってくれなかった。
案の定踏みしめるたびにミシィと危なっかしい音が奏でられ、その度に背筋を嫌な汗が駆け抜ける。
床が抜けたりしないだろうな。
科学先進国日本では考えられないほどに杜撰な設備だが、この世界の住人であるフェリアはとくに気にする様子も無く慎ましやかに歩行している。
島国だし、この程度が普通なのかな。
昭和の学校を彷彿させる景色。
焦げたような色をした木製の壁に、ツヤツヤと磨かれた細長い廊下。
宿泊客がいるのかは分からないが、他人の声や生活音は聞こえない。
防音対策はちゃんとされているのだろうか。
滑らないよう気をつけながら廊下を歩むと、フェリアは一番端の部屋の前で立ち止まった。
裏口に繋がる階段を挟んでおり、両隣に別の部屋が存在しない。
静寂に飲み込まれた真夜中でも、声一つ届かないだろう。
圧倒的な防音と場所の配慮。そういうことに疎い俺でも、ここまであからさまなら大体理解できる。
これはどうみても――、
「新婚さんとかが宿泊するお部屋、みたいですね」
フェリアは儚げに頬を染め、小さく口元を緩める。
三人って言ったのに、あのおじさんちゃんと人の話を聞いているのだろうか。
「とりあえず中で休みましょうか。お疲れでしたら、お休みになられても大丈夫ですよ」
フェリアは鍵をガチャガチャと鳴らし、キィと軋ませ扉を開けた。
開いた途端湿っぽい外気が隙間から漏れ出し、思わず顔を背ける。
フェリアが中に入ったのを確認し、俺も次いで部屋へと進入する。
埃っぽい感覚に咳き込むと、気が付いたフェリアが窓を開けてくれた。
暖かな外気が室内に取り込まれ、多少湿っぽさが緩和される。
「わぁ! 三人用のベッドですよ、ご主人様!」
興奮した様子で、フェリアは綺麗――とはお世辞にも言えないベッドへとダイブ!
ドサッという音とともに、真っ白な埃が空間に舞い上がった。
「うぎゃ――!」
「んー、疲れた」
誰もいないからか、フェリアは疲弊を露わにしてゴロリとベッドの上を転がる。
俺はフェリアの行動によって室内に充満した埃を吸い込むことを拒絶し、窓際に駆け寄って大きく深呼吸。
ろくに掃除もされてないみたいだし、誰が使ったか分からないベッドの埃など吸い込みたくない。
「フェリア、汚いよ!」
「一応後で水浴びするから大丈夫ー、それよりキンジ君、風魔法って使えたっけ?」
突然の話題転換に、思わず「え?」と変な声が漏れる。
「風魔術は――使えないけど」
「そっか――、まあいいんだけど。ちょっと埃っぽいから、お掃除しといた方がいいかなって」
ああ、それで風魔術か。
さしもの元勇者フェリアでも、これは汚いと思うよね。
「ではわたしがお掃除しておきますから、ご主人様は水浴びでも済ませてきてください。なるべく早く終わらせて、ご主人様のお休みする場所を提供いたしますから」
刹那普段のメイド口調に戻ると、フェリアは身体を起こして丁寧にシーツを剥がし始めた。
テキパキと丸めて窓にかけると、次いで傍にあった棒で敷布団を叩き始めた。
もうもうと綿埃や塵が舞い漂い、俺は口元を押さえて部屋から躍り出る。
もちろん扉は全開で。
「じゃあ、とりあえず身体の汚れを落としてくるな」
「いってらっしゃ――えっと、ご主人様?」
いざ水浴び、と意気込んで出発しかけたところで、不意に鳶色に煌めくフェリアの双眸がパチクリとこちらを向いた。
可愛らしいメイド天使さんは困ったように首をコテンと倒すと、俺の顔をじっと見据える。
あれ、俺何か変なこと言った?
「こういった宿泊施設での『水浴び』とは、髪や顔に付いた埃や砂を落とすためのものですので、身体の汚れはその……。あ、別に揚げ足をとっているのではなくて、――そのままですと、公衆の面前で裸体を晒されてしまいそうな表現でしたので」
顔を赤らめながらしどろもどろと告げるフェリアの顔を見ながら、俺は今発せられた言葉の意味を読み取ろうと努力する。
するてーと、あれか。ギルドの裏で体験した水浴びと違って、髪とか顔だけを洗うだけなのか。
確かに俺は、水浴びと聞いてこの間の状況を思い描いていた。
物陰に衝立を立てて、寿司桶の親分みたいなやつに入って身体を洗う。
タオルとか洗体用具も用意されている、そんなものを想像していたのだが。
俺はその様子を思い浮かべ、瞬く間に頬が熱くなる。
日本で言えば、プール脇の目を洗う場所で突然服を脱ぎだすような感じか。
うわ、それすっごく恥ずかしい!
見知らぬ方々に奇異の視線を向けられる前に、察しのいいメイドさんは俺の途方もない勘違いを正してくれた。
「ありがとう、助かった、よ」
「気を付けてくださいね。リリウスを見ればお判りでしょうけど……。この世界の女性は、男性の身体に興味津々ですからね」
メっと言うように、人差し指を顔の横でピッと立てる。
そういえば、そんな話を前にしたことがある。
ベッドの上で乱れるフェリアが、俺の体力のなさを指摘した時に確か言ったのだ。『俺が生まれた世界では、男の子の方がこういうの好きなんだよ』とか何とか。
そうしたらフェリアに、『この世界では性別による性欲の違いはありません』と言われた。
種族的な差があるのかまでは、教えてくれなかったが。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
俺は気持ちを引き締め直し、フェリアの言葉に見送られるように階段を下りて行った。
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考えてみれば、水魔術を使用できるのだから水浴び場など必要無かったな。
そんなことを思いながら水浴び場に辿り着き、さっそく自身の水魔術を使用したのだが。
「……あれ、出ない」
腕を巡る血潮の流れを感じることもできず、太陽に透かした手のひらからは水どころか雫の一滴さえ出現しない。
まさか、だらけ過ぎて魔術の使い方を忘れた!?
負感情のどん底に突き落とされたかのように落ち込み、設置された柄杓で髪と顔を洗った後、ふらふらと重い足取りでフェリアの元へと帰還した。
笑顔でお出迎えしてくれたフェリアの胸に飛び込み、腕を回して抱きしめ、「魔術が出ない!」と言ったところ、
「多分、栄養不足だと思いますよ。一時的なものですので、隣国に到着して美味しいものをお腹いっぱい食べれば治るかと」
そう言いながら、俺の頭を優しく撫でてくれた。
髪を掬うように丁寧に。
指先を絡めるように繊細に。
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お日様が沈むまでの時間をフェリアの膝で過ごしていると、妙に艶めいた褐色獣人が千鳥足になりながら入室してきた。
頬や体躯から漂う風味は『極限の心地よさを感じている』なのだが、それとは裏腹に彼女の表情は膨れている。
ムスっとしたように口元をへの字に曲げ、凛々しい双眸を半眼にしてこちらを見ているのだ。
何か言いたげな表情。
その言葉がこれほどまでに適合する表情も、中々見ることができないだろう。
褐色獣人リリウスはベッド脇にドッカリと腰を下ろすと、慈母の表情で膝上の主に視線を送るフェリアへ顔を向け、コホンと咳払いをした後。
「酷いじゃないか。私をおいて、勝手に宿をとってしまうなんて。もっと奥の方まで行けば、ここより愉しい夜を過ごせる場所だってあっただろうに」
「ダメよリリウス。コップで隣の部屋の音を盗み聞きするのはいけないことなの」
リリウスの遠まわしな文句一つで、フェリアは全てを察してからその上で真っ向から否定した。
いやに的確な返事をしたが、過去の経験談とかじゃあないよな。
「大体キンジもキンジだ。宿をとる前に、私に一声かけるよう提案してもよかったものを」
「ご主人様と一緒に、リリウスが入った料亭には行ったんだよ? でもリリウス、娼婦館の覗き部屋に行ったって言われたから」
「――ぐ。し、仕方ないではないか、背後に席をとった殿方のお話が、それはもう生々しくてリアルで」
リリウスの口端がいやらしく裂ける。
両手で頬を撫で、恍惚のモウソウポーズ。
凄く幸せそうな表情だ。
「それにしてもリリウス、よくここが分かったね」
フェリアの言葉を聞き、俺もはたと思い出した。
そういえば、俺たちがここに宿泊場所を決めたということを、リリウスには伝えていなかったはずだ。
この世界には携帯電話などといった便利な通信手段もなく、一度はぐれると捜索は骨が折れる。
二人の不思議そうな表情を見やり、リリウスは不機嫌そうな表情の中に薄く笑みを浮かべ、
「ま、元勇者であるフェリアは目立つからな。私のことを知っている人と娼婦館の傍で出会ったから、そこでフェリアを見なかったか聞いた。とは言っても、その人はフェリアなど見てないと言ったから、それからも数多の一般人に聞き歩いたが」
どうだ、頭良いだろう? とでも言うように、腕を組んで得意げに瞑目する。
確かに元勇者パーティだったためか頭の回転は良いようだが、アイドル的な信者が多数存在する元勇者が、こんなちっぽけな島にいると知られて良いのだろうか。
日本だと著名人とかが外出するときは、出来るだけ知られぬようにするものだと思っていたが。
マスコミなどの存在しないこの世界では、そういった行動制限は必要ないのだろうか。
「わたしは別にいいけど、ご主人様に迷惑がかからないようにしてね。魔王討伐から凱旋したときだって、お金目当ての取り巻きさんがたくさん出てきてうんざりしたでしょ?」
最近になってやっと減ったけど、と付け足し、フェリアは小さく溜息。
やっぱりそういうことは異世界でも起こりうることなのだな。
でも多分、フェリアに寄ってきた人の中には金以外のものが目当てだった人もいたんだろうな。
「大丈夫だ。フェリアを見た人たちは、皆“人助け”をしている最中だと勝手に勘違いしていたらしい。男の子一人軽々おぶれるなんて、流石元勇者様だと皆驚嘆していたぞ」
リリウスの言葉を聞き、フェリアは頬を染め上げ両手で顔を覆う。
時折口端から「キンジくんは軽いから」とか「メイド服着て人助けするわけないでしょ」などといった言葉が漏れていた。
前々から思っていたが、リリウスには羞恥心がないのだろうか。
「リリウスは、そういう偶像崇拝はされないのか?」
せっかくだし聞いた。
「ぐうぞ……? 私の場合、大抵寄ってくるのはご婦人方ばかりだな。『凄い筋肉、触らせて』とか『実は男性だったりしませんか?』とか『抱きしめてください!』とか言われるが」
聞いていて、何故か俺の拳に力が籠るのが分かった。
男として――凄く理想的な言葉の数々ではないだろうか。
リリウスはれっきとした女性であるが。
「他者から好かれることは嫌いでは無いのだが、やはり熱視線を浴びるなら殿方のものの方が良いな。流し込まれるように熱ーいのが」
言葉の風味にいやらしいものを感じたところで、俺はリリウスから視線を剥がした。
次いで、膝枕をされながら窓の外へと視線を向けた。
燃えるような夕焼けは徐々にその色を濁し始め、濃紺の色が顔を覗かせ始めている。
まだ星芒を確認することはできないが、直に夜となるだろう。
明日また朝が早いのだ。なるべく早く休んでおいた方がいいだろう。
どうせ二人がベッドで寝て、俺はソファ――が無いから床になるんだろうし。
ラノベや漫画の主人公ポジジョンを思い描き、心の中でやれやれと呟く。
間違っても、フェリアを床で寝かせるわけにはいかないしな。
日中延々と自分のことをおぶらせて、寝床まで奪えるほど俺の神経は図太く無い。
少しずつ朱が薄れていく空を見つめていると、部屋の扉がノックされ、遠慮がちな低い声が部屋に響いた。
「ニノミヤ様、お夕食の準備が出来ておりますが、お部屋にお運びいたしましょうか?」
さっき来たときにカウンターに座っていたおじさんだろう。
それにしても、そうかもうそんな時間か。
ルームサービスなど常識的に繰り広げられている環境で暮らしていた俺は、その言葉に甘えようと手を伸ばしたところで、その腕を容赦なくフェリアに掴まれた。
あん、だめよ。こんなところで手なんて握っちゃ――ぁぁぁああああ! 痛い痛い、痛いからやめて! 力を込めないで!
鬱血するかの暴力で手首を握り締めると、フェリアはよく通る声音で、
「大丈夫です! 今取りに行くので、もってこなくて平気です!」
「分かりました。それでは階下で待っておりますので」
足音が廊下を打ち、廊下から気配が消えた。
フェリアは安堵したように吐息を漏らしたが――うぉう。俺の、俺の指先が冷たくなっていく。
フェリアは不意に俺の腕を放すと、胸のあたりに手を当てて小さく溜息。
そして、
「ご主人様の生まれた世界には、宿泊施設が無かったりしますか?」
「いや、あったよ。もっと綺麗で居心地の良いところが」
ソファもあってベッドもふかふかで。中学生の時家族旅行で泊まったホテルは凄く綺麗だった。
窓から覗くは漆黒の夜景。そこに散りばめられるは、美麗な星彩と摩天楼の輝き。
窓が全開でも外からは見えないし、今でも素晴らしい思い出の一つとして心に刻まれている。
「……もしかしてご主人様って、実はいいところの跡取りだったりしますか?」
「うんにゃ、俺はどこにでもいるような一般市民の次男だぜ」
一応庭付きの一軒家に住んでいるため、並みよりかは若干グレードの高い生活はしていたかもしれないが。
フェリアとリリウスは顔を見合わせると、リリウスが小さく頷いて部屋から出て行った。
目線でリリウスを見送った後、フェリアは俺へと視線を戻し、
「こういった安っぽい宿ではよくあることなのですが。ああやって宿主直々部屋に訪れて、世話を焼きに来るんです」
「良いことじゃん。お客を大切に扱おうって考えがひしひしと伝わってくる」
俺の言葉を聞き、フェリアは呆れたような表情を一瞬だけ作り――すぐに消失させた。
流石メイドさんだ。
「とんでもない。後で法外な請求が来ますよ、運搬代だとか言って。少しでも儲けようとするために、こういう観光地でも無いのに宿の多い場所では、皆さん必死なんです」
フェリアは人差し指をピッと立てると、そのまま俺の鼻先をからかうように突っついた。
「ですから、もしあのおじさんが何か言ってきても全て断ってください。喩えば『肩をお揉みましょう』とか『お洋服を洗濯しておきましょう』とか、ところかまわず付きまとってきますから」
手もみしながら歯を見せてニタリと笑っていそうだ。
そっか、そんなものなんだ。
フェリアの言葉に納得の意を示していると、尻で扉をノックする音が奏でられた。
俺はフェリアの膝から退き、フェリアが扉を開けると、両手とその豊満な胸で三人分の晩飯を抱えたリリウスが口をへの字に曲げて立っていた。
恨めしそうな視線を向けられて、思わず俺は心の中でテヘヘと舌を出す。
すみません、忘れてました。
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大して美味くも無い黒パンをちぎっては口に入れ、野菜の切れ端だらけのスープで口腔を湿らせる。
食している間、三人は無言であった。
ただひたすらに、自身に与えられた食事を無心に口に放り込む。
フェリアは慎ましく、リリウスは豪快に。
こうして見ると、対照的で何となく面白い。
まだ荒れた胃が本調子では無いため、味の薄い野菜スープの食べ残しはリリウスに差し上げた。
最初は食すことに逡巡の表情を見せていたが、フェリアが無言のまま頷いたのを確認すると、まるで舐めまわすように器を口に付けた。
そんなに腹が減っていたのかと半ばからかうように言うと、リリウスは顔を赤らめて目を逸らした。
それだけで意味を理解できたことを、喜んでいいのか俺には分からない。
「――さて、と。明日も早い、今日はもう寝るとしよう」
その言葉が言い終わるや否や、リリウスは三人用ベッドの右側にダイブ。
一瞬俺は口元を袖で覆ったが。フェリアが掃除したからか、昼間のように埃や塵が舞うようなことにはならなかった。
リリウスは心地よさそうに体躯を丸め、繊細な銀髪から飛び出たイヌミミをピンと立たせる。
寝ころんだままジーンズ生地の上着を脱ぎ捨て、上は黒のチューブトップ、下は刺激的な下着のみという物凄い格好で目を閉じた。
脱ぎたての上着と、使用生地の極端に少ないスパッツのような衣服。
一瞬だけ扇情的な気分に襲われたが、煩悩は打ち消す。
「ご主人様もお休みになられてください」
フェリアはベッドの左側。
リリウスが右でフェリアが左。ほら、やっぱりね。俺は床で一人寂しく寝ることにしますよ。
と、若干拗ねたように床へと寝そべると、フェリアが困惑した表情を見せながらその柔らかな体躯をベッドから起こした。
寝具では無い、外出用のエプロンドレス姿だ。
「あの、ご主人様」
「キンジ、何してるんだ」
リリウスも起き上がり、睥睨するかのような眼差しで、地面に這いつくばる俺の姿を視界に入れる。
一瞬畏怖の感情に総身を撫でられたが、その視線が単に眠気から来る半眼が原因だと気が付き、安堵する。
心配するような目線を向けられ、俺は思わず口ごもった。
理由を言えば、きっとフェリアが代わりに床で寝ると言うに違いない。
だからと言って、女の子二人の眠る場所を奪うわけにもいけない。
この旅では、二人に世話になってばかりだからな。
「……もしかしてキンジ、さっき私がお前の器を汚らしく舐めたから、軽蔑しているのか?」
リリウスの表情が悲しげなものと変化し、申し訳なさそうに目が泳ぐ。
違う、そうじゃない。
ただ俺は、二人の眠るスペースを奪いたくないってだけで――。
「――ご主人様?」
背後から突如フェリアの声音が奏でられ、思わずビクンと気を付けの姿勢をとってしまう。
刹那フェリアは俺の足を軽く蹴飛ばし、両足が地面を離れた俺はバランスを崩した。
体勢を崩して背中から倒れ込んだ俺を迎え入れたのは、堅く冷たい床では無く柔らかな女の子の二の腕だ。
鼻先に漂う香りと視界の端に映った闇色の髪から、受け止めたのがフェリアだということを理解する。
そのままフェリアは立ち上がり、俺の体躯をいともたやすく持ち上げると、お姫様抱っこをして忍者のように軽やかな足取りでベッドへと飛び乗った。
「フェ、フェリ」
「ご主人様の意図する内容くらい分かりますよ。わたしと下着姿のリリウスに挟まれて寝るのが、恥ずかしくなったんですよね?」
慈母のような、相手を思いやる優しげな声音。
リリウスから向けられる視線も、まるで赤子をあやすような穏やかな目だ。
――ああ、俺は二人を誤解――いや、自分を卑下し過ぎていたらしい。
この二人が、そんな風に他者をないがしろにしないことくらい、知っていたはずなのに。
「そうか、照れていたのか」
リリウスの気遣うような声も、今は凄く心地よい。
あ、何か良い匂いもするし。
「照れている殿方は大好物だ。よしキンジ、今晩は私がずっとお前を抱きしめてやろう」
言いながら、リリウスはその筋肉質な体躯で俺の身体をギューッ。
ついでに耳元で艶やかな吐息。普段以上に露出した太ももまで絡みつき、全面をリリウスに包まれた。
「え、いや、ちょっ」
「んもぅ、ご主人様ったら」
背中に触れるは、フェリアの放つ甘い吐息と二つの山岳。
その全ての触覚が、俺の背中を祝福する。
双方からなる触り心地は笑ってしまいそうになるほどに対照的だが、実際笑ってもいられない。
フェリアの添い寝にはもう慣れてきた頃合いだが、リリウス。彼女の汗ばんだ香りと未知の触覚は、このひと時で慣れるはずがない。
温かく柔らかな触覚と甘く幸せな嗅覚を味わいながら、薄暗い夜は時間と逆らうことなくゆっくりと過ぎて行く。
速まり高まった俺の鼓動は、もう元の速度へは戻らないのに。




