第十一話 最悪な移動手段
あれから三日後の早朝。
携帯のアラーム音がけたたましく鳴り響き、半ば熟睡の世界へと沈んでいた俺の意識を深海から引きずり出された。
ドクンと鼓動がして、飛び起きた俺は未だ鳴り続けるアラームを止め、一息つく。
朝か、朝だ。
嫌な気分だな。
昔から俺は遠足やら何やらの朝は起きるのが憂鬱だった。
前日の晩に興奮して眠れないということは無いのだが、朝日を浴びた刹那精神的にも肉体的にも疲弊し、どんよりとした気分に陥る。
だがこのまま現実逃避してベッドにいるわけにもいかないので、俺は寝具を脱いで魔法剣士服を手に取った。
さて、早く着替えて出発しなければ――、
とここまで決心がついたところで、不意にベッドの右半分が目に入った。
グチャグチャと乱れた左半分と違い、綺麗に整えられている。
昨晩フェリアは普段通り俺の横で添い寝をしてくれていたから、起きた時にフェリアが整えていったのだろうが。
「……ちょっとくらいいいよね?」
魔法剣士服に腕を通す前に、俺は少しだけフェリアが使った側の布団へと潜り込んだ。
温もりも香りも無いけど――元気とか勇気くらいなら貰えそうだ。
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「おはようございます、ご主人様」
着慣れた生地の衣服を纏って食卓へ向かうと、闇色の髪をポニーテールにまとめたフェリアが、お玉のようなものを持ってテーブルの横に佇んでいた。
テーブルにはパンと薄い肉が並べられており、真っ白な湯気がたっている。
食欲をそそる朝餉の香りに、思わず笑みがこぼれる。
「ちょうどお呼びしようとしたところです。さあ、ご主人様」
背後に回ったフェリアに背中を押されるように、俺は食卓に着き、食事の挨拶をしてからテーブルのパンに手を伸ばす。
こういう日の朝は食欲がないが、せっかく作ってもらったのだから食べないと――。
「ご主人様?」
俺の不調に気が付いたのか、フェリアは戸惑いの表情を見せ、自身が口に運んでいたパンをテーブルに置いた。
「お顔色が優れないようですけど……」
「大丈夫、ちょっと悪い夢を見ただけだから――」
的外れな弁明をしようと口を開いたところで、フェリアの手が眼前に伸ばされ、口の中に小麦の味が広がった。
ごくん、と飲み込む。
飲み込む際に舌が柔らかく繊細な指先をなぞり、ピクンと反応する。
あれか、これはいわゆる――。
「ご主人様、あーんですよ?」
頬を染め、からかうように目を細めて口元で弧を描く。
一かけらを飲み込めば、また次のを、そして飲み込めばまた次と、フェリアは自分のパンを一口大にちぎっては、俺の口へと運んでくれた。
無理に押し込まれるわけではなく、咀嚼終了を確認してから優しく運ばれる。
時折指先で唇を撫でられ、くすぐったさのためか自然と頬がほころぶ。
理由はどうあれ、笑みを見せながらの食事とは普段よりも美味しく感じるものだ。
三つほどパンを食べさせてもらい終わった辺りで、やっとフェリアはその手を止めた。
「船旅は体力を使うので、朝はちゃんと食べないとダメですよ」
そう言って、指先で俺の鼻をツンツンと突っつく。
確かにそうだ。
これから俺たちは見知らぬ大陸に行き、ウィッチとの戦いに備えなければならない。
それなのに、出発の朝から食欲不調だとは――先行きが危ぶまれる。
俺に食べさせていたため、フェリアは少し遅れて自分の分を食べ始めた。
悪いな、せっかく温かかったのに冷めてしまって。
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旅の荷物は最低限に抑える。
そうフェリアに固く言い聞かされていたため、俺が持つのは愛剣と幾つかの魔道具と自身の着替えのみである。
若干心もとないが、フェリアも同じだけしか荷物を持っていないので、多分問題は無いのだろう。
水に関しては俺が出せるし、治癒魔法はフェリアが使えるし。
リリウスは獣人だから鼻が利くらしいし。
まあ、勇者パーティの二人が「これで十分」と言って用意してくれた荷物なので、きっと大丈夫なのだろう。
港――とは呼べぬ沖へと向かうと、小さめの船がプカプカと波の上を泳いでいた。
コンテナ船のミニチュアモデルみたいだ。
やはり安く海に出るには、どこの世界でもコンテナ船を使うのかな。
異世界だから帆船のようなものを心のどこかでは期待していたのだが、想像していた船より揺れそうにないので、それに関してはホッとした。
フェリアにそれとなく聞いたところ、あの船は土魔法と風魔法、そしてさらに雷魔法を混合させて造られているらしい。
そのため一人で起動させることはほぼ不可能であり、船員は最低でも三人以上必要なのだとか。
だが実際、海の真ん中で魔力切れを起こしても困るので、大抵は六人以上の船員が変わりばんこで魔道具に魔力を流し込むらしい。
民家にある湯沸かし器とは違って、同じ属性を使用できる人にしか魔力を流し込むことはできないらしい。
色々と大変なのだな。
「……ねえキンジくん、リリウスを見なかった? どこ探しても待ち合わせ場所にいないんだけど」
リリウス。
その言葉を聞き、俺は辺りを見渡してみた。
船着き場を数人の船員が歩いている姿は確認できるが、あの健康的な褐色肌を魅せる獣人剣士さんの姿はどこにも見えない。
あの人の性格からして、俺たちを見つければ両手を振って現れそうなものなのだが。
「まさか寝坊したんじゃないよな」
「それは大丈夫だと思うよ。旅中もリリウスは絶対朝寝坊はしなかったし」
フェリアのお墨付きなら俺も信じるしか無いが、現にリリウスはこの場にいない。
彼女がいなければ、俺たちはここから動くことができないのだが。
若干の焦燥に苛まれ、妙な緊張のせいで舌先が渇き始める。
ヤバい、腹まで痛くなってきた。
身体のアチコチが不調を訴え始めたところで、全体的に白めな服飾に身を包んだ一人の船員が、俺らの傍らに駆け寄ってきた。
「あの、キンジ様とフェリア様でしょうか?」
水兵帽を目深に被った男性が、筋肉質な体躯を揺らして小さく問いかける。
堂々とした身体つきとは裏腹に、伏し目がちで挙動不審な印象を受ける。
声音もくぐもったような音量でボソボソと喋る。
表現しがたい朝方の仄暗さも相まって、何とも暗い人のように感じるが。
「えっと」
「ギルドマスター様から大方の内容は伝えられております。どうぞこちらへ。同乗なさる獣人のお方はもう既に乗っております。目立たぬよう出発いたしますので、お急ぎを」
もしかしてこの船、エス○ワールとかいう名前じゃあないよな。
先ほどまではただのコンテナ船だと思っていたが、そういう話を聞いてしまうと途端にその船に抱く印象が変わってしまう。
目立たず、こんな早朝に出発する船――危なっかしい匂いがプンプンするのだが。
「リリウスは、もう乗ってるんですか?」
「ああ、先に荷物室で――船員の一人にいかがわしいちょっかいを出していた」
フェリアの問いかけに、目深帽子の船員は苦笑いを浮かべた。
間違いない、リリウスだな。
誰彼かまわず、出会ったら即無防備を装う獣人なんて、そう大勢はいないだろう。
「それでは、リリウスのもとへ案内してもらえますか? ……えーと」
「俺の名はルージェだ。一応今回あの船の船長を任されている」
そう言って口端を緩め、黄ばんだ歯を見せた。
貫禄とか全くないけど、船長だったのかよ。
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「よぅ、お二人さん」
荷物室に参ると、一人の気弱そうな船員を組み敷きながら、恍惚とした表情を浮かべる褐色獣人が出迎えてくれた。
普段通りの素肌が眩しい衣服に身を包み、健康的な脚を艶めかしく組んでいる。
下――床に敷かれた船員は困惑した顔を見せながらも、口元を歪めて目を明後日の方向に向けていた。
これから長い船旅となるのに、ご苦労なこってす。
幸せそうに顔を歪めた船員を抱え、船長ルージェはまたしても苦々しい愛想笑いを浮かべると、小さく頷いて荷物室から退出した。
外から鍵でもかけられたらどうしよう――と危惧したのだが、とくにそういったことにはならずに済んだ。
出発して少ししたら、外に出て新鮮な空気を胸いっぱい吸い込んでおこう。
若干の揺れのせいか、もう頭が痛くなりはじめている。
「そうだキンジ、先に言っておくが――出来るだけこの荷物室からは出ないようにしてくれよ」
「――な、何で」
船酔い対策の最善策を真っ先に潰された。
待ってよ。じゃあ丸二日以上ここに閉じ込められるってこと?
「手洗いは傍にあるから、それだけだ。食物やら何やら大半の物はそこにあるから、も心配は無い。通気口もちゃんとあるから、酸素濃度に関しても問題ない」
リリウスは腕を組んで瞑目して見せた。
視線を泳がせると、確かに食物の一部分が袋詰めになって選り分けられている。
どうやらあれが俺たちの分らしい。
三人で食べるなら、五日間くらいはもちそうな量だ。
だが俺は別に食糧の心配をしているのではない。
――でもそんなことを言っている場合では無いことは、この場にいる俺にはひしひしと伝わってくる。
辺りを見渡すと、そこにあるのは頑丈に施錠された数多の木箱。
そして全てが荷物室の端に積み上げられ、隙間から中身を覗かれないようしっかりと塞がれている。
さらにそれを隠すように積まれたズタ袋の山。
どれだけ察しの悪い奴でも、早朝こんな辺鄙な沖から出航しようとしている船を怪しまないわけがない。
だが、それでいてその事実を詰め寄ることができないこともまた現実だ。
理由はどうあれ俺とフェリアはギルド登録者。
リリウスが依頼を受けている場所を俺はこの目で確認したことは無いが、前にフェリアが二人で迷宮に潜ったと言っていたから、彼女もギルド登録者なのだろう。
そして、今回この船に乗った理由とは『ギルドマスター直々の依頼』だ。
この世界で船を持たぬ者が海峡を渡るには、毎回密航船を使用しなければならないのか、俺は知らないが。
この状況で、余計なことを言うわけにはいかない。
この世界における魔法学発達状況を見るに、盗聴や監視をする機械的な物体は存在しないと思われる。
だが油断は禁物だ。もしかすると俺らが妙な真似をしないよう、船員の一人が息を殺して荷物室前で番をしているやもしれん。
はっきりとした船員の数も分からない今、俺らはただ黙って運ばれるしかないのだ。
まあ、ギルドマスターが手配した船なのだから、少し考えすぎなのかもしれないけどな。
などと憶測が負のスパイラルに飲み込まれた頃――。
ボーっという音とガタンという鎖が捩れたような音が木霊し、身体に間接的な波の揺れが伝達される。
出航したらしい。
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出航して十分後。
俺はもうダメだった。何がダメって、一つしか無い。
荷物室脇のお手洗いに閉じこもり、俺は今朝食した物質を、九割がた渦巻きの中に放出していた。
締め切った部屋、揺れを抑制する設備もない荷物室。
ここからではよく分からないが、荒天なのだろうか。それとも悪天候だともっと酷くなるのだろうか。
「…………」
ガンガンと響き渡るような痛みが側頭部に木霊し、俺は口元を拭ってから一旦外に出て深呼吸をする。
胃の中が空だからか、目眩のような不快感が頭を襲う。
この六倍――で一時間。その二十四倍でやっと一日。
長く見積もって三日だとして――その三倍。
三日間が十分の何倍程度なのか、そんなことを考えて気を紛らわそうとしたのだが、それどころではなさそうだ。
ふらつく足を支えながら、俺は荷物室へと戻った。
あ、見張りの船員は誰もいませんでしたよ。
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荷物室へ戻った刹那、俺はベッドのように並べられた木箱の上に横になった。
視界がグラグラと揺動し、胃の淵にまたしても熱いものがこみあげてくる。
喉が焼かれるように痛く、泥沼の奔流を流した舌はザラザラと荒れている。
日本でもそうだったが、遠足とか自宅の車に乗ってこうなったときは、いつも『俺もう死ぬんじゃないか』と思ったものだった。
だが、何年も何年もこの苦痛を味わっていると、意外と慣れる。
ああいや、別に酔わなくなるとかそういうのではなく。
『あ、またか』と開き直れるのだ。
あと何十分我慢すれば、地上に足を着ける――とそれだけを考えて時間を待つ。
ああ、お客様の中にキ○クリできる方はいらっしゃいませんか――と。
頭を抱えて苦痛とせめぎあっていると、不意に温かいものが後頭部に宛がわれた。
それが何か識別するより先に、仄かに苦痛が和らぐ感覚が脳内を駆け巡る。
スーッと爽やかな気分が訪れ、刹那的に喉を焼くような苦痛から逃れることができる。
不快感が消失するというその快楽に身を委ねると、そしてさらに後頭部を弾力ある温もりが祝福した。
「キンジくん、もう大丈夫だよ」
フェリアだ。
フェリアがやつれた俺を膝枕して、治癒魔法を施してくれているらしい。
「ごめんね、その……こんなに早く酔うとは、思わなくて……」
「ああ、ありがとうフェリア。手を煩わせることになってごめん」
まあ普通は思わないだろう。十分だぞ、十分。
俺だってこんなに早く酔うとは思わなかったさ。荷物室は嫌に揺れるし、換気もされてないから湿っぽいし。
木箱からは変な臭いが漂ってくるし――まあ外気的な意味で環境が悪かったのだ。
普段の俺なら、三十分くらいは大丈夫だったはずだ。
それが長いか短いかは置いておいて。
とりあえずはフェリアの治癒魔法によって、全身を苛んでいた不快感が消失した。
しかも膝枕。外出用エプロンドレスなのでその生の感触を堪能することはできないが、そんな贅沢を言うべきではない。
鬱蒼と茂った黒髪を捌くように、温かな指先が頭皮を優しく撫でる。
ガンガンと響く頭痛やむせかえるような吐き気も消失し、全身を支配するのは気怠さと言葉にし難い空腹のみになった。
腹の虫は泣き喚き、今にも食物を入れろと欲求不満を露わにするのだが。
食べたくない。喉は熱いし舌はザラつく。
食欲不振――ともまた違うが、今はこのままずっと天井を見ていたい。
ついでにフェリアの胸も見えるし、このまま眠ってしまえれば楽なのだが――。
「キンジくん、おかげんはどうですか?」
「んん――だいぶ、楽……」
そんな会話を最後に、俺の意識はゆっくりと深い海の中へと沈んでいった。




