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元勇者のご主人様  作者: 山科碧葵
第三章
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第十話 お嬢様とご主人様

 異邦人――異世界人ウィッチの目撃証言は、世界中のギルドへと伝達されている。

 それはもう、似た容姿の少女までもが疑念を込めた目で見られるほどの――まさに『魔女狩り』のように、全世界のギルドナイトは金髪の童女に対して十分すぎるほどの警戒を放っていた。


 少しでも疑われれば、ギルドナイトによる職務質問から始まり、この世界の住人であることを証明するための書類提出を義務付けられる。

 確信がもてる書類提出ができない場合、外出先全てをギルドナイトに監視され、自由な時間をも奪われる。

 少しでも怪しい動きを見せれば、またしてもギルドに連れてこられ、親や親戚の身分証明を求められる。


 はっきり言って、おかしいほどに世界が恐慌していた。


 リリウス曰く、この世界には転移魔法や召喚魔法が存在しないため、こちらから呼び出すことはおろか、別世界から誰かが参ることさえ滅多に起こらないらしい。

 そのため、こういう時どうすればいいかなどの掟が存在せず、国民の疑念や不安からなる情報過多、出過ぎた警戒心のために全く関係ない少女たちが自由を奪われているのだ。


 本当に――文字通り『魔女狩り』だ。

 怪しいものをひっ捕らえ、殺すまではいかぬものの、今までの平穏な生活には戻れない。

 そこに行くにも監視され、プライベートなど一切許されない。

 しかもその対象が幼い少女。

 過度なストレスや常軌を逸した不安感により、精神疾患を患う者も増えているらしい。


 その事実を聞き、真っ先にこの状況を打開しようと考えたのが、リリウスの知り合いであり、そこのギルドに勤務するギルドマスターだった。


 自身が発した警戒命令が他者の口を通すことにより膨張し、収集不可能なほどに膨れ上がってしまった。

 その事実に心を痛めたギルドマスターはこれ以上世界中の人々を混乱させぬよう、ウィッチ本人の捕獲作戦を試みようとしたのだ。


 だが、何も考えずにそんなことをすれば、他国と同じで全く関係ない少女たちに被害が向くことは必至である。


 ウィッチをはっきりとその目で視認した者は、全世界を探してもほとんど存在しない。

 しかもその内の八割以上の人間が、ウィッチの精神魔法により、心身を崩壊されているのだ。

 とても話を聞いたり、作戦の手助けを依頼できるような状況ではない。


 どうするか――と考え、ギルドマスターは近日他国を旅していたリリウスに助言を求めようと考えた。

 そして彼女にその旨を伝えるより先に、彼女自身彼に用事があってギルドへと姿を現したのである。


 そして今朝方、ギルドマスターとリリウスは前回と同じ客室で、今現在世界中で起きている問題について、双方の意見を語らいあった。

 その時、ついリリウスは俺がウィッチに精神魔法をかけられたことをぽろっとこぼし、隠密に捕獲作戦を行って欲しいと願いを託されたのだとか。



「そんなわけで、すまない。キンジの身体が柔らかいままであることを、ギルドマスターに話してしまった。本当に申し訳ない」


 そう言うと、リリウスはその場に両手を着いて深々と頭を床に宛がう。

 腰を突出し、しっぽが揺れているのが妙に気になるが、真摯な心で謝罪していることには違いない。


「別にいいって。それが噂になって笑いものにされないなら、さ」


 自分のことでは無いが、ふと過去のトラウマを思い出した。


 小学校の頃だ。俺の友人の一人が、学校で好きな人ができたらしい。それを俺ともう一人の友人に何となく話したのだが、もう一人の方が自身の姉に話してしまい、翌日本人の耳まで届いていたという、今思えば甘酸っぱい青春の一ページになるようなできごとだったのだが。

 当時の俺は当時からかわれた友人を見て、秘密というものは絶対に話してはいけないものだ、と心から実感した。


 そういったわけで俺は自身の陰の部分を他人に話されるのが嫌なのだが、会合で見たギルドマスターは優しそうなお爺さんだったし、他者を笑いものにして軽視するとは思えない。

 まあ、これ以上噂が広がることは気にしなくて大丈夫だろう。

 というか、そう思ってでもいないと恐怖のため身体の震えが止まらなくなる。


 俺が肩を抱きながら視線を彷徨わせていると、リリウスが心配そうに眉を顰めてみせた。


「どうした、寒いのか? 何なら出発前に温めてやっても、」

「いえ、大丈夫です。おさまりましたから」


 丁重にお断りをして、俺はリリウスの向かい側に誂えられたソファに腰を下ろす。


 なるほどね。リリウスの言うとおりに動けば俺の身体も治るし、世界各地で起こっている問題も解決できる。

 その上ギルドからの依頼になるため、規格外の報酬もいただくことができる。

 確かに冒険者としてもニノミヤ・キンジという一人の人間としても、損の無い話だ。


 元々解決策が無くなったら、本体を叩くしかないと聞いていたし、フェリアとリリウスがいるという時点で、戦力の問題は全く無い。

 あとはザフィラスさんでも来てくれれば、鬼に金棒なんだけど――。


 まあ、ここで考えていても仕方がない。それじゃ今から三人で、そのギルドマスターのもとへ挨拶に行かなきゃいけないのかな。

 行きます。という連絡をしないとならないし。


「……ねえ、リリウス?」


 先ほどから黙って縮こまっていたフェリアが、恐る恐るといった様子で右手を挙げた。


 体育座りをしているので、俺の角度からだとスカートの中身が――っと。

 いけないいけない。今は真面目なときなんだから、そんな薄緑色の布地に心を奪われている場合じゃない。


 頭を左右に振って、煩悩を打ち消す。

 でもそういえば、あの色は初めて見たかもなあ。


「今、『出発前に』って言ってたけど……。え、どこに行くの?」


 言ってたっけ、そんなこと。

 『温めてあげる』なんて発言からのフェリアのスカートのせいで、少し記憶がこんがらがっているのかな。


「ああ、言ってなかったか? ギルドマスターにもう話はしてあるから、三人でウィッチを倒すために大陸へと渡るぞ」


 リリウスはしれっと、そんなことを言い放った。



 ---



 今までとくに気にしたことは無かったが、フェリアの手によって俺が召喚された国は、南方を山脈、北方と西方を陸地、東方を海に囲まれているらしい。

 そのため、南に行くには山を越えるための準備が必要であり、東方の大陸に渡るためには船の手配が必要となるらしい。


 普段から個人が船を借りることは難しいのだが、近日とくに、全世界を放浪するウィッチを警戒するため、船を出すための許可が下りにくくなっている。

 荷物などに紛れて乗船され、物資や人命を奪われては困るからだ。


 今現在船を出せるのは、レトナお嬢様やザノド・バーレン貴族のような身分の高い人間か、個人で船を所持している種族のみだという。

 そのため現在海を渡るには、貴族の下働きとして数日間雇ってもらうか、船を所持している方に金を払って乗せてもらうしか方法は無いはずなのだが――。


「心配ない、ギルマスの爺さん直々の依頼だ。ギルドが出す貨物船に乗せてもらえることになった。これが人数分の“キップ”だ」


 知らぬ間に物事がポンポン進んでしまい驚愕の念を隠せない俺とフェリアは、唖然とした表情でその“キップ”と呼ばれた番号札を受け取った。

 どうやら船員を数えるための名札のようなものらしい。

 なるほど、誰か落ちたり行方不明になっても、すぐに気が付くようにという配慮なのだろう。


「それは荷物室の番号だ。……残念ながら、客室の空きは無かったのだ。すまない」


 リリウスは申し訳なさそうに目を逸らし、小さく俯いた。

 後で世界地図を買っておこう。長い船旅になるのだとしたら、できる限り俺は乗船を遠慮したい。


 別に俺がいなくとも、フェリアとリリウス――あと誰か連れていけば、ウィッチ一人なら倒せるのではないかと思う。

 下手すると俺は足手まといになるかもしれないしな。余計な人間はいない方がいいだろう。

 ――いや別に、船酔いが嫌だからとかそういって逃げてるわけではないんだぜ?


「魔王討伐のときには、船頭さんもいるちゃんとした船が出たのにー」


 荷札をクルクルを指で回しながら、フェリアはぷくぅと頬を膨らましてそっぽを向いた。


 どうやら船に乗ること自体を嫌がっているわけではないらしい。

 船酔いって、この世界にもあるのかな。

 そういえば馬車はおろか徒歩以外の移動手段を見たことが無い。

 これはもしかすると、この世界に来て初めての乗り物か?


 どんな船なのだろう。モーターエンジンが付いた電力系のものなわけは無い――いや、意外と魔道具を組み合わせて、それらしいものが創られているのかもしれない。

 荷物室とか客室って言ってたから、木製のボートとかではなさそうだしな。


「――よし、決まりだな。他に分からないことがあれば、出発日までに私かフェリアに聞いてくれ――っと、フェリアと私は他国の言葉を使用できるが……キンジは」

「俺は前の世界で『翻訳魔術』を施されたから、大丈夫」

「そうか」


 というか、フェリアもリリウスも勇者パーティの一員だし、意外とバイリンガルなのか。

 もっと多くの種類、話せるのかもしれないが。


 そういえば、リリウスが使用する言葉も、実はフェリアと違っていたりするのだろうか。

 問題なく翻訳されていたため、全く気にしていなかったが。

 獣人と人間だと、やはり言語は違うのかな。


 一度でいいから聞いてみたい気もする。

 全く知らない言語で話すフェリアとリリウス――どんな感じなのだろう。

 怖いのかな。距離感とか感じちゃうのかな。


「突然の決定事項ですまないな。……キンジ。もし何か聞いておきたいことがあれば、今のうちに聞いていいぞ。何でも答えてやる。スリーサイズでも、上か下かどっちが好きかでも何でも――」

「キンジくんはそういうこと聞かないよ」


 やっと普通の体勢で腰を下ろしたフェリアが、「ね?」とでも言うように、信頼するような視線を向けて愛らしく微笑んだ。


 ああ、聞かない。聞かないぞ。

 フェリアにだったら聞きたいけど、それは直接触れるから聞くまでもない。

 案外――エプロンドレス越しに見るより、フェリアの体躯は艶めかしいラインをお持ちなのですよ。


 いや、違う。そうじゃなくて。


「じゃあ一つ……」

「何だ?」


 嗜虐的に口端に弧を描き、誘うような流し目を向ける。

 ちょお色っぽい。


「大陸への移動時間は、どのくらいなのかと」

「……うぅむ。難しい質問だな。最後に姿を発見されたのが海を渡ってすぐの隣国だから、そこを移動していないのであれば、移動時間は海を渡って森林に入るだけだが、他国へ転移していれば、さらに期間はかかる。それについては、どのくらいかかるか今現在の状況では分からない」


 まあ、そうか。

 でも俺が聞きたいのはそういう時間じゃなくて。


「……えっと」

「さっき、一つだけと言っていたよな?」


 蠱惑的に目を細め、顔をずいと近づける。

 鼻先に甘い吐息が漂い、完全に誘惑しているのであろう魅惑的な双眸が柔らかく細められる。


 口端から顔を覗かせた舌が色っぽく唇をなぞり、思わず視線が釘付けとなった。


「あぅ、え、その。ここから隣国までの移動時間が聞きたかったので、その」

「ああ、そういうことか。呑み込みが悪くてすまない。――隣国までなら、大してかからないぞ。どの程度の船を貸してくれるのか分からないから、はっきりとしたことは断言しかねるが――。うん、まあ三日はかからないだろう」


 三日って……。まる一日――二日かかることは確実ってことかよ。

 酔い止めの薬とかそんな便利なものは無さそうだし――これは、俺にとって移動が一番の戦場になるやもしれないな。


「どうした、顔が真っ白だぞ」


 からかうような表情を消失させ、心配そうに瞠目する。


「キンジくん、もしかしてお船苦手?」


 フェリアにまで顔を覗きこまれ、いたたまれなくなって思わず目を逸らす。

 この反応を見たところ、二人は全く船酔いしないようだ。

 嫌だなぁ……。そういうのって、体験してない人は絶対揃って『大丈夫だよ。すぐだし』とか『酔うと思っているから酔うんだ。景色でも見て楽しんでいれば直着く』とか、知ったようにありふれた言葉で片付けるんだよな……。


「討伐パーティの仲間にも酷い船酔いをした者がいたが。……そうか、キンジもか」

「あれ、キツイよね。あの時は六日くらい乗ってたんだけど、乗る前はパーティ一健康そうで肌艶も良かったのに、下りるころは本当重病人みたいだったし」


 やっぱりあるんだ。船酔い。

 しかも、世界を救う勇者パーティ御一行様だってのに、国から薬が調達されていないところを聞くと――、


「私程度の治癒魔法だと、どのくらいもつかなあ?」

「キンジがどの程度我慢できるか知らないが、十数分に一回の割合で施せば、大丈夫だと思うんだが……どうだろうか?」


 気の毒そうな視線を双方から向けられ、俺は身体を縮こませる。

 酔い止め薬なんて便利なものはこの世界に存在しないらしい。

 フェリアの治癒魔法を常時浴びれるのは確かに嬉しいけど、そんなシチュエーションでは望んでいない。


 はあ、またしてもつらたん、だ。



 ---



 その後リリウスは準備のため帰宅した。

 なんでも船が出るのが三日後なので、それまでに出発の準備をととのえなければならないらしい。

 言っちゃあれだが、実に面倒だ。

 ウィッチもウィッチで、陸地が続いている場所だけ放浪していればよいものの、まったく。


「キンジくん。楽しみだね、旅行。二人っきりで外国に行くんだよ。リリウスもいるけど、多分あの子なら気を使ってくれると思うんだ。寝るときは、キンジくんが真ん中ね?」


 そんな俺の負感情とは裏腹に、フェリアは実にうきうきした様子でエプロンドレスを綺麗に畳んでいる。

 食糧など腐敗する可能性のあるものは、現地で調達するのだとか。

 そのため、俺が持っていくものは自身の着替えや武器、それと――フェリアから頼まれたよく分からない魔道具だけである。


 ボタン一個でネバネバした触脚が投網されるステッキ。

 振り抜くと獣の鳴き声が木霊す木刀。

 叩けば叩くほど地面から杭が露出する金槌。


 最後のはテントを崩したりするときに使用するらしいが、他二つの用途は全く理解できない。

 戦いにでも使用するのだろうか。


「……そうだ。キ、ご主人様」


 かしこまった様子でフェリアが腰を下ろし、俺の前で慎ましく正座をかます。

 ちょこん、という擬音をつけたくなるくらい可愛い。

 これで「ふつつかものですが」とか言われたら一瞬で理性が飛びそうだ。


「今から出発の挨拶に参りたいのですが、ご主人様も同席を願えないでしょうか」


 そう言って、深く頭を下げる。


 フェリアが俺のことをご主人様と呼ぶのは、真面目な話をするときか客が前にいるときくらいだ。

 ということは、誰か大事な人のもとへ挨拶に行くのだな。


「分かった。一緒に行こう。ところで、誰に――」

「レトナお嬢様とわたしのお師匠様です」


 ザフィラスさんか。

 でもあの人に出発の挨拶をするってことは、付いてきてくれないんだな。


 ふと、最近目にしていない白髪の執事剣士を思い浮かべる。

 リリウスとは違い、剣術に美術的感覚を取り入れた、何とも素晴らしい方だったが。

 そうか、来てくれないのか。


 などと若干不安な思考回路に陥っていると、立ち上がったフェリアの小さなお手手が差し延ばされた。


「さあ、ご主人様。行きましょう」


 久しぶりに握り締めたフェリアの手は、柔らかく温かだった。



 ---



「あら、キンジさんにフェリアさん。こんにちは」


 お屋敷の前にて掃き掃除をしていたリィンは俺とフェリアの姿を見つけると、スカートの裾を摘まんでぴょこんと頭を下げる。

 スラリとしたお姉さん的な魅力をも見せるのに、小動物のような可愛らしさも持ち合わせている。


 リィンは目を細めた流し目を向けると、口元で艶やかに弧を描き、門を開錠した。


「お二人揃ってとは珍しいですね。お嬢様ですか? それとも、ザフィラスでしょうか」


 複雑な鍵穴を器用に開錠し、リィンは俺とフェリアをお屋敷の敷地内へと誘導する。

 すぐ左側にリィンに立たれ、ふんわりといい匂いが香ってくる。

 前にも嗅いだことがある気がするが、この香りは男心をダメにする成分でも入っているのだろうか。


 無意識のうちにリィンに身を寄せてしまい、本能のままに鼻先がひくひくと動く。

 フェリアとは違った、甘い匂いだ。


「……ご主人様?」


 不機嫌そうな声音が耳朶を打った刹那、鋭く尖ったヒール部分が俺の爪先を踏んづけた。

 思わず漏れる呻き声のような悲鳴。

 ああ、痛い。踵の高い靴で踏まれるのはちょお痛い。


 リィンはその様子をチラリと一瞥し、何事も無かったかのように歩を進めていた。

 真面目モードな彼女はこういう時ツッコミを入れてくれない。

 理由はどうあれ、確かによそのメイドさんに心奪われるとかあれだけどさ。

 ここのところ発散できないせいで、異性の香りにすぐ反応しちゃうんだよね。


 そうやって無理やり開き直ろうとしていると、不意に背後から小声の会話が聞こえた。


「ねえリィンさん。リィンさんって、何の香水を使ってるの?」

「私ですか? レトナお嬢様はそういったものがお嫌いですので、つけてません」

「でも、」

「キンジさんが反応したのは、天然の乙女の香りですよ」


 甘くとろけるような声音に、背筋に気持ちのよい触覚が走った。

 気の抜けたお姉さんというイメージが強かったが、意外とリィンもメイドさんメイドさんしているな。

 秘密もメイドの嗜みですから、とかそういったやつか。


 今の話は聞かなかったことにしよう。


 などと心に刻み込んだところで、執事服を見事に着こなした初老の紳士が廊下を歩んで参った。


「これはこれはキンジ様、お久しゅうございます」


 恭しく一礼。一瞬の隙も与えぬ凛然とした態度、それでいて他者を安心させるような物腰柔らかな言葉づかい。

 紳士的な執事とは、きっとこういう方のことを言うのだろう。


「リリウスから聞いております。毎日の素振りは、まだ続けていらっしゃるようで」

「はい、一応。……素振りだけですが」


 それもここ最近さぼり気味だ。全面的にウィッチのせい――とは言えないし、ああ、異世界来て最初の頃は本当にキラキラ輝いていたな。


「お師匠様ー」


 後方からエプロンドレスが駆け抜け、ザフィラスさんの胸板へとダイブ。

 背中に腕を回して頬を擦り寄せる。


 俺だってあんなこと滅多にしてもらえないのに……。

 あれか、付き合いの長さの差か。


「ところでキンジ様、今日はどのようなご用件でしょうか」

「もしかしてぇ、私の香りを嗅ぎに来たのかなぁ?」


 リィンは艶やかに頬を染め、誘うように流し目を向けてきた。

 どうやら真面目さんモードは終了したらしい。

 このモード切替のスイッチ、何に反応してるんだろうな。


「いえ、今日はフェリアが皆さんに用事があって」


 チラリとフェリアに視線を送る。幸福感溢れる表情で、夢中でザフィラスさんを抱きしめている。

 ああ、嫉妬の渦に巻き込まれている自分の心が狭いのが辛い。


「それではお嬢様をお呼びいたしましょう。リィンは、応接室へ案内してください」

「はぁい」


 ザフィラスさんの的確な指示に、リィンは普段通り気の抜けた返事で応える。


「どうぞ、こちらへ」


 身を預けるもとを無くしたフェリアは、若干物寂しそうな表情を見せながら俺の横に肩を並べた。

 だが刹那気持ちを引き締めたのか、キュッと口元を結び、凛然とした色に鳶色の瞳を煌めかせる。


 軽やかな動きで踵を返したリィンに連れられ、二人は応接室へと案内された。



 ---



 見覚えのある部屋だ。

 鏡のように磨かれた大理石の机と、座り心地のよいふかふかソファ。

 木製の帽子掛けやコート掛けはそのまま――前には無かったはずの、レトナお嬢様を描いたらしき肖像画が飾ってある。

 薄く開いた瞳が何とも言えぬ魅力を醸し出している。


 油絵っぽいのに、何とも瑞々しいお顔だ。

 じっと見つめられると、それだけで心が奪われそうにもなるが――、


「……ご主人様、ヘッドドレスとか曲がってないでしょうか?」


 隣でしげしげと大理石の机を見つめ、表面に映った自身の顔を見ながら髪を整えるフェリアを見ていると、先ほどまで感じていたそれは全てフェリアへと注ぎ込まれる。

 美麗なお方に見つめられるのも素晴らしいが、やはりフェリアが一番だな。


「よし、大丈夫。ご主人様、どうですかわたし――きゃ」


 髪やホワイトブリムの位置を直し終わったフェリアが不意に俺の方を向き、顔と顔とが向かい合う。

 パチクリと瞳を開き、大人っぽい余所行き笑顔を映していたフェリアの顔は、みるみるうちに赤くなっていく。


 照れちゃって可愛いな、などと思い俺はチラリと大理石に映った俺自身の顔に視線を移してみたのだが――、


「…………」


 そこにはフェリアの顔を見つめ、デレデレと顔をとろけさせた黒髪の少年が映っていた。

 おっと危ない、ちゃんと気を引き締めておかなければ。



 大理石に顔を映して頬の筋肉を動かしていると、扉の傍に佇んでいたリィンが不意に姿勢を整えた。

 数瞬の後。背筋をピンと伸ばしたザフィラスさんが参り、その後ろをレトナお嬢様が慎ましやかな面持ちで付いてくる。

 今日は真紅のドレスに身を包んでいるらしい。

 胸元は全開であり、表情と同様慎ましやかに存在を主張する谷間がひっそりと顔を覗かせていた。

 前回と同様首には燃えるような宝石をかけており、燦然とした輝きを放っている。


 レトナお嬢様は扇子で艶やかに口元を隠すと、薄く目を細めて微笑んで見せた。

 プラチナブロンドの髪が跳ね、ザフィラスさんに誘導されるようにしてレトナお嬢様は向かい側のソファへ腰を下ろす。

 ドレスから覗く脚も若干長く、扇情的だ。

 前回会った時と比べて少し色っぽい。


「……キンジさん、フェリアさん、お久しぶりですわ」


 柔らかく微笑み、俺とフェリアの顔を交互に見つめる。

 口元は扇子で隠したままだ。だが、それがいい。


「お久しぶりでございます、レトナお嬢様。今日は、出発の挨拶に参りました」

「出発の、挨拶ですか」


 どうやら前置きや定型的な挨拶は使わないらしい。

 フェリアは瞑目して小さく深呼吸をすると、さりげなく左手を伸ばして俺の右手に指を絡めた。

 おっと、どうしましたフェリアさん。こんなところで手を繋ぐなんて、そんな――。


「…………」


 冗談めかしてフェリアの横顔をチラリと見ると、彼女は笑っていなかった。

 絡めた指先も小刻みに震え、戦慄した口端から時折吐息がこぼれている。

 珍しく緊張しているのか。


 俺は紳士的に、伸ばされたフェリアの手を力強く握り返した。

 大丈夫だ、俺がついてる。


 ……つっても、とくにこの場では何もすることはないんだけどね。


 フェリアは瞑目したまま小さく俯き、俺の手をギュッと握り返した。

 言葉を選ぶかのように何度か小さく頷くと、不意に顔を上げ、そして――、


「ご主人様とわたし――そして剣士リリウスは、異邦人ウィッチ打倒のため隣国――セントヘレナ国へと行って参ります」


 これから行く国はセントヘレナって言うのか。

 と、それすら知らぬ自分が少し恥ずかしく思うが。


「セントヘレナということは、海峡を渡るのですね」

「はい」

「船の手配は?」

「もう済んでおります」


 口元を隠す扇がぴしゃりと閉じられた。

 そこには妖艶に弧を描く口元――は存在せず、キリっと締まった唇が姿を現している。

 艶やかに細められた瞳も今ではしっかりと開かれており、余裕をもった態度は消失していた。


「本当に、挨拶だけか。物資や資金の調達願いや戦力の欲求ではなく、本当に」

「はい」


 試すような視線をフェリアに向け、次いで俺に向かって同じような視線を放つ。

 難解な事象を思考するように、眉を顰めてじっくりと俺の顔を見据える。

 そんなに見られても、俺にはそれに応えることのできるような覚悟は持ち合わせていないのですが。


 穴が開くほど見つめられ、思わず目を逸らしたところで。

 レトナお嬢様は口端を柔らかく緩め、妖艶に目を細めて見せた。


「分かりました。お二方がお戻りになられるまで、うちの者にお宅の警備をさせておきましょう。……フェリアさんが私に頼みたかったこととは、それですよね?」

「おっしゃるとおりです」


 フェリアは安堵した面持ちで小さく頷く。

 そうだったのか。そのためにこんな緊張感の張りつめた空気の中、出発の挨拶に参ったのか。


 確かに長い期間家を留守にするのは色々と危険だ。

 金目のものはあまり無いが、フェリアが使った下着やら衣服などが盗まれたら大変だ。


「それでしたら、見知った者が警備した方が精神的にも良いでしょう。リィンかザフィラスにその辺りはまかせておきますので」

「お任せを」

「はぁい」


 フェリアの握り締める力が弱くなった。

 緊張の糸がほどけたらしい。


 とりあえず、これで本日の一番重要な仕事は終わったらしい。良かった。

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